第九章:7
「ひどい目あったです」
とリーシェンがうんざりしたようにいった。
「矢とか鉄砲の弾が、ものすごく降ってきて。頭のすぐ上、ヒューっと飛んでいくんです。怖くて頭上げられなくて、ずっと伏せていたら黒服たちに……」
「てめえがもたついてっからよ、そうなるんだ」
足引っ張りやがって。黄が苛ついたようにいうと、リーシェンが頬を膨らませて
「一番先にやられたの、どこのどなたです? 一番足手まといだったの、黄じゃないですか?」
「うっせえ、てめえのサポートがなってないからだろうが」
「ワタシのせい? それワタシのせいなの? 自分の無能を棚に上げて人のせいするですか?」
「誰が無能だよ!」
などとやりあっているのを見ると、大した傷ではないのかもしれない。《西辺》を統べる、と言うだけあって医療施設も万全だったらしいが、黄は特に傷を受けたわけでもなく金に蹴られた衝撃でしばらく気を失っていただけだということだ。
「元気なことで」
と省吾がぼやいた。
一同は今、《南辺》の第2ブロックにいる。『黄龍』の黒服の車に乗せられて、いまようやく舞い戻って来たところだ。華やかな《西辺》の街を見てきたから、なのか。路上にこびり付いた血の臭いが、余計に鼻につく、気がする。荒涼たる夜風が構造物に吹きこんで、オーオーと唸るような声で哭くのを聞くと、なぜか「帰ってきた」と実感する。それもまた、情けない話ではあるが。
「ま、ともかく助かったぜ旦那。礼を言った方がいい?」
「構わんよ、別に。俺だって連行されたんだから」
黄がいうのに、省吾は掌をひらひらとやって返した。その時、ヨシがなにやら考え込んでいるのが目に入った。
「どうかしたんか、ヨシ」
と黄が、後ろから組みついてきた。ヨシは慌てて平静を装って
「あ、黄、リーシェン。お前達、これからアジト戻るんだろう? ユジンさんも、きっと心配しているし早く帰った方がいい。先、行っててよ。俺っちはこれから、真田さんと話があるからさ」
「は、俺?」
いきなり話をふられて、動揺する省吾を尻目にヨシは2人を急き立てた
「話って、なんの話です?」
リーシェンが問うのにも「いいから、いいから」とせっついて、帰そうとしている。まるでこれから聞かれたくないことを相談するみたいなそぶりである。黄とリーシェンは気になっていたようだが、やがて引き下がった。ヨシは2人の姿が完全に見えなくなってから、省吾に向き直り
「なあ、これからちょっと付き合ってくれないか?」
日本式に、酒を飲むジェスチャーをしてみせる。そういった言葉も、日本語だった。
「何だよ、一体」
「いいから、さ。ちょっと聞きたいことがあるんだ、あんたに」
「俺は何もない」
「な、頼むよ。おごるからさ」
言うと、省吾の肩を引っ掴んで路地裏へ入って行く。薄暗い通路の先には、うらびれた感じのバーがあった。
「話ってなあ、何のことだよ」
もう休みたいんだが、と思いつつ一応付き合ってやることにする。ヨシが古びたカウンター席に陣取り、バーボンを注文した。
「ん、まあね。話っていうかその……」
ヨシは咳払いしたり、あーとかうーとか言って、どうも話し出すタイミングを計っているようだ。それこそ2人分のバーボンが卓に置かれたのも気づかないくらいに。ひとしきり唸って――そろそろ帰っていいか、俺――やがて、重い口を開いた。
「なあ、旦那。あんたから見て、どうだ?」
「何が」
グラスを煽って省吾がいった。ジョッキに並々注がれた、40度の蒸留酒をものの3秒ほどで飲み干す。こんな街で出回っているにしては、なかなかのものだ。
「いや……うちのチーム、あと雪久のこと。あんたから見ると、どう映る?」
「なんだそれは。その問いの趣旨が分からんな」
もっともだ、とヨシが言って省吾のために追加注文する。そんなに金あるのか、と訊こうとき
「いや、なに。あんたはほら、うちの人間じゃないだろう? それで、一番チームのことを知っているからさ。第三者から見ると、どんな風に捉えられるのかなと」
「ほう」
と省吾がいった。ヨシはやっと、グラスを傾けて舐めるように酒を飲んでいる。まどろっこしい、一気に流し込めよ――とは思わずに
「大方、雪久に不満を感じ始めたって所だな」
「や、不満、ってわけじゃないけど。ただ今回のアレは、ねえ……」
ヨシはグラスを置いて、遠くを見つめるような目で
「雪久の独断専行で『黄龍』の縄張りに踏み込んだりして、死にかけて。自分は機械の眼持っているからいいけど……俺らぁは……」
死にかけたんだし。そういって琥珀色の液体をぼうっと眺め、グラスを持つ手はかすかに震えていた。恐怖か、あるいは憤りめいたものを感じているのか、雪久に対して。
「俺はチームにいたわけじゃないから、よく分からんね」
省吾は二杯目のバーボンを煽った。今夜はタダ酒に縁がある、人の金で飲むとなると酒が進むな、などと思っていると
「で、でもさ。今回はなんというか、さすがにどうなんだろうって……よりによって、『黄龍』に喧嘩売るなんて」
「あいつは、誰にでも噛みつくだろうよ」
「や、そうじゃなくてさ。あんたも、レイチェル・リーから聞いたんだろう? 雪久と彰は昔、あの人に世話になったんだってこと。それなのに雪久は――」
「そう、いわれてもね」
俺には分からないな、と省吾はいった。分かるはずもない、雪久のやり方がえげつないとか、一人で先走ってスタンドプレーに走るのはどうなのか、など。そんな評価は、外にいる人間が下すよりも内にいる人間の方が一番よくわかるのだ。どんなに共感しようとも、他人の気持ちなど推し量ることができない、例え肉親であろうとも――それと同じこと、省吾に雪久のことなど理解できようもない。
「お前が一番、近いじゃねえか、雪久に。お前から見た方が、分かるだろう」
「う、うん……そうなんだろうけどさ。いや、なんでもない」
忘れてくれ、とヨシはグラスを煽った。下らない戯言だ、取るに足らないことだから、と。省吾は、ふと雪久とレイチェルのやり取りを思い出してみる。あのとき、雪久はなんと言ったか。
『俺のことを洟垂れ小僧と思っているみたいだけど――』
「分からんでもないがな、あいつの考えていること。なんとなくだが」
省吾はそういって立ち上がった。
「分かるって」
「あれだろう、レイチェル・リーと雪久の間に何があったのかしらんが、おそらくあいつはその昔のこと、レイチェル・リーに受けた恩義やら義理やら、そういうのを疎ましく感じているんじゃねえか、とね」
「どうして、また」
レイチェル・リーの言動かな、と省吾はいった。雪久にきつく当たっているようで、どこか気遣っているような雰囲気が言葉の端々に感じるから、だろうか。省吾がそう思っているだけなのだろうが、レイチェル自身が「躾け」といったり「仕置き」とのたまう辺り、おそらくレイチェルは雪久の保護者のような感覚でいて――雪久はそれが気に食わなくて――しかし、そんなこと自分の勝手な推論であって確信めいたものはなにもない。大体、そんなことをヨシに伝えたら激昂することだろう。雪久の都合で、自分達が切り捨てられたと。
「ともかく、俺が何かいえることなんざ。お前はチームの一員なら、お前達で考えれば良いだろう、今後のことも」
「俺たちで……いや、なんというか俺っちは、あんたらとは違うし」
「何が違うんだよ」
「なんつーか、その……あんたたちみたいな化け物がかった種類の人間じゃない、俺らなんかその他大勢に過ぎないわけだよ。雪久やユジンに守られて、どうにか体面を保っているような、無力な一般大衆。そんな人間が考えて、行動してもたかが知れている」
空のグラスを睨んでヨシが、押し殺したような声を出す。腹に一物、抱えているようだった。思いつめた表情で一点を見据えて、微動だにしない。省吾はバーテンダーに、ドル紙幣を握らせた。
「化け物がかってって、なんだよ」
「気を悪くしたなら謝るよ。けど、でも俺達ってあんたみたいに武術の心得もなければ、雪久みたいなクソ度胸もない。身体能力ではユジンみたいのには敵わないし、彰みたいな頭もない。ごく普通、っていうか取るに足らないつまらん難民の一人に過ぎないんだよ。そんな人間が……どうこういっても、足掻いても無駄だろう」
「どうして、無駄だと決め付ける?」
「だってそうじゃないか!」
ヨシが急に声を張り上げた。店の奥に座っていた、イタリア製のスーツに身を包んだ初老の男が訝しげな視線を送ってくるのも構わず
「ここでは、この街では疑いようもなくそうなんだよ、そうできているんだ。力を持てない、持ちようがない人間は結局、力のある奴の下につくより他無い。仕方ないだろう、そりゃ俺らもそれ相応の力があれば変えることもできる、でもできない。どうしようもなく無力なんだ、だから甘んじるよりないだろう、行動できるわけが」
雪久がいっていた。難民は嫌いだと。ユジンがいっていた。この街に住む人間には希望はないと。そしてレイチェルは、変えようともしない難民達は愚かだと。
彼らの言葉は、真実なのかもしれない。けれど
「あんた達はいいよ、戦う力もあるし。『マフィア』や、そのほかのギャング達に対抗する力ってのは備わっているだろう。でもそれができない奴だっているんだ、リーシェンや黄だってどうしようもないくらい、普通すぎるほど普通な人間だろう。そんな奴はどうすればいいんだよ、なあどうしろってんだよ」
そういって、ヨシは頭を抱えてしまった。
無力――変えようとしないのではない、変えられないのだ。戦わないのではない、戦えないのだ。自分のように、戦うための術を見につけた人間は生き残れるだけ幸運な部類に入っているのだろう。それを持たない人間の方が、この街では大多数なのだ。ヨシのような人間がいるということ、そのことを誰もが見落としている。変えようとするものも、それを阻止しようとする人間も――その狭間でどれほどの力なき人間が、犠牲を強いられているかなんてことは知らない。関心も払わない。そういうもの全て、高みにいるから気づかないのだ。
犠牲になったことがないから、和馬雪久やレイチェル・リーといった人間はきっと、己の進むために足元を見たりはしないから。
知らないから、きっとこういう人間の声に耳を傾けたりはしない。リアルな響きを伴う叫びは、永遠に届かない。強者の影で弱者が流した涙など。
「……出るぞ、ヨシ」
省吾が声をかけた。
「出よう」
「ん、ああ……すまない。なんか取り乱して」
「いや」
別に構わんよ、といった。ヨシが紙幣を差し出すのを押しとどめ、もう払ったというというが
「いや、最初におごるっていったのはこっちだし」
ヨシはそういって、省吾の胸ポケットに紙幣をねじ込んだ。どうしようかと思案したが、ここは厚意に甘えることにする。
店を出ると、翳りのある笑みでヨシがいった。
「すまんね、旦那。愚痴っぽくなって、でも聞いてくれてありがとう。それじゃあ」
といって路地にかけてゆく。その背中が闇に消えるのを、見送った。省吾が息を吐く。と、白くなった息が闇に溶けた。冷え込むな、そろそろ冬かと思う。
無力というなら、自分だって無力だ。先生を守れなかったことや、失った全てを悔やんでいた。己の無力さを呪ったのは、一度や二度ではない。
だけど、失った事を悔やんでいられるうちはまだ甘かった。自分一人、不幸になった気でいて、結局省吾も見えていなかったのだろう。ヨシやリーシェンたちのような人間の等身大の姿を。
――変える力のないものは、死に行くしかない。いつもそうだ、強いものが勝つ。それが、理。絶対の不文律だ。そうして、省吾も生きてきた。
闇が濃くなる、遠い残響を聞いた。




