第九章:6
「労働力として使われた、難民。その末路、お前とて分からぬわけではあるまい? 自ら生産に従事できなくなり、自活する力を失えばそこで民族は滅ぶ。この《西辺》では、かつて難民と呼ばれた人間達が、自分達の手によって生きることができるよう、産業構造を作り上げている。それが、お前が見た表の……」
「色街かよ、くだらんね」
省吾はそう、吐き捨てて
「そりゃあ、《南辺》の連中は奪うことしか考えていないだろうよ、この街のギャングスタどもは」
「彼らの殆どが、バックに企業がついている。お前も知っているだろう、『BLUE PANTHER』の後ろにいた連中を」
「“クロッキー”な、そもそも奴らの工場にぶち込まれたのが間違いの元だったんだ」
嘆息しつつ、首を振った。レイチェルは可笑しそうに唇の端を上げていった。
「彼らのルーツには複数あってな。企業が雇い入れたもの達は、一番新しい振興のギャングたちだ。ストリートにいる連中が主にそうだろう。もうひとつ、ここには大きな力が働いている。それが、お前達が『マフィア』と呼んでいる東の主だ」
レイチェルがワインの瓶を傾けるが、省吾はいらないというように首を振った。少し、残念そうな顔でレイチェルは自分のグラスに注ぐ。クリムゾン・レッドの液体が、シャンデリアの金色の光を反射して淡い迷光を放つ。
「この街、いや戦前から存在する地元のヤクザが、未だに力を持っていてる。総督府にも影響力を及ぼしていて、実質この街を支配しているといってもいい。『マフィア』と理事国の癒着、それこそがこの街の体系だ。私達は、それに反抗するために『黄龍』を作った。この《西辺》に巣食うギャングを駆逐し、取りこんだ結果、難民達のゆるやかな滅亡を阻止するためにな」
「つまり、『マフィア』は元々ここにいたヤクザ連中ということになるのか。それほど力をもっているのか、『マフィア』は」
「連中のことは、不透明なことが多い。ただ一つ言えることは、理事国と『マフィア』が結託していることは確かだ。暴力と恐怖によって難民達を押さえつけ、自活する能力を奪う。ゆるやかな滅亡だ、民族のな」
それを変えるために、とレイチェルがいった。変えるために、私達がいると
「難民なんて、馬鹿な生き物だよ」
レイチェルが吐き捨てた。
「こんな状況でも、慣れてしまえば人間なんて家畜みたいなものだ。自ら変革させようともせず、現状に甘んじてしまう。自分の力で何とかしようともせず、いやそもそもそういう気すら起きない。その点、あいつはまだマシだな。力の限り足掻く姿勢は、共感できなくもない。ただ、あのやり方ではいずれ限界がくる」
「あいつ、って」
雪久のことか。言うと、レイチェルは無言で頷いた。
「2年前かな、あいつらを『黄龍』に引き入れようとしたんだ。だがあいつらは、私の申し出を断った。力による変革を望んだのだが、いくら機械の眼を持とうとも個人が出来ることは限られている。私はできるだけサポートしてやったのだが、あの男はそれを」
レイチェルが視線を泳がせたのに、つられて省吾もその方向を見る。《西辺》のビル群の向こうに、青く光る摩天楼があった。《西辺》よりもさらに飛び抜けて高い、構造物群の中に聳えるのは象徴的な電波搭。戦前に建造されたものだ。アジア随一の建造物であった、と記憶している。
「『マフィア』に、対抗するつもりか?」
やがて省吾が口を開いた。
「彼らのやり方は巧妙だ。武器を取り上げ、抵抗する力を削ぎ、生かさず殺さず、確実に難民達を奴隷化している。それが出来るのも、広大なネットワーク、莫大な資金源……そんな連中に、正面から向かっても徒労に終るだけだ。ここまで『黄龍』を大きくしたのも、そういうことだ」
レイチェルは再び、視線を戻した。
「あんたも、『皇帝』の座を狙っているのか?」
「お前、そんなものが本当にあるとでも?」
言って、今度は声を上げて笑った。表情がよく変わる奴だ、と思いつつ
「何が可笑しい」
「誰も、その『皇帝』の存在を確認した人間はいない。それ自体が、虚構であるという可能性は考えなかったのか?」
「いや、考えようにも……」
日が浅いからな、俺は。そう言って口ごもる。
「『マフィア』を統べる人間は確かにいるだろう、でもそいつを引き摺り下ろせばこの街を支配できるなんてまやかしだ。今言ったように、『マフィア』と戦勝国は密接に関わりあっている」
ここまで説明されれば、分からぬ馬鹿ではない。ここを支配しているのは、もっと大きな力であって、いち組織がどうこうできる相手ではないということも、戦争が起きる仕組みや闘争の背景にあるものが、単純な力対力ではないことも――全て、先生から教わったことだ。自分に生きる術を教えてくれた、師から。先生がいなければ、俺はここにはいなかった――
「なら、『皇帝』とは一体なんだ。街のギャングスタ共が言っているあれは」
「まあ、それを論じるよりも先に、だ……真田省吾」
レイチェルはグラスを置いて、腰かけていたデスクから飛び降りた。つかつかと近寄って、省吾の真正面に立つ。
いきなり、顔に手を伸ばした。
「な、ちょ……」
狼狽する省吾が抗議しかける、その唇を指で塞ぐ。細い指だった。引き締まった手首と線の細い腕、その延長線に帰結する薄い肩。とても雪久を吹っ飛ばした人間の物とは思えない。
「一度しか言わない、『黄龍』に来い」
囁くように、レイチェルがいった。己の体温が急上昇するのを感じつつ――これだから金にからかわれたりするのだ――やんわりとレイチェルの手を払って
「今日はよくアプローチを受けるな、俺」
「そうなのか?」
「さっき、あの野郎に誘われたばっかりだよ。何で俺、なんだ?」
詰まりそうになる、喉を震わせて言った。
「別に、俺でなくとも」
「今は一人でも、有望な人材が欲しいところだからな。あの朝鮮人たちが何をたくらんでいるのか分からぬ今は」
「それで、なんで俺なんだよ」
「たった一人で、青豹の『突撃隊』を退けた『疵面の剣客』、この《西辺》にも届いている。それに」
と言って息をついて
「知りたい情報が、あるのだろう?」
レイチェルが言うのに、驚いて顔を上げる。レイチェルの、刃めいた瞳が鋭くなるのを見る。
「私が雪久に仕置きしているときも、ずっと私を目で追っていた。私の出自をあれこれ聞いてくるあたり、人を探しているのか?」
「ん、まあな。あんたによく似た、女を探していて……」
「ふうん、隅に置けんなチェリーボーイ」
「違えよ」
どうも、最近同じ事ばかりネタにされている気がする。
「私がその目当ての女かどうか、確めに来たというのか? ご苦労なことだな。私がその目当ての人物だったら、どうするつもりだったんだ?」
それは、と省吾は言葉に詰まった。先生にあったあとのことなんて、何も考えていなかった。
「一目……会うだけでよかったんだが……特にどう、ということはない。ないが……」
言って、レイチェルの方を盗み見る。作り物めいて整った顔立ちは、酒のせいかほんのり色づいていている。薄桃色の唇が綻んで、蟲惑的な感じに映る。瞳が潤んでいるように見えるのは、自分も酔っているからだろうか。
「まあ、生きているかも分からんから。ただ、噂で聞いた程度のことだ。この街にいるかもしれない、ってことを」
「なるほど。こんな時代だからな、一度生き別れたら再会することなんて稀だ。どんなに小さな手がかりでも、それに縋りたいということか。それで、なぜ私が目当ての女だと?」
「金って、あの野郎にいろいろ吹きこまれたんだ。拳法使いの女、アジア系という条件に当てはまる人物がいると。それが……」
「拳法使い、ねえ。半分、当たっているかな」
「半分?」
と言ったとき、いきなり省吾の目の前が銀色に光った。何事か、と後ずさり右半身で対峙した。刃の気を、感じる。
「何を」
する、と言ったとき再びレイチェルの手が伸びた。
反応、できなかった。レイチェルの手に握られたものが、喉に突きつけられている。もう2,3ミリ、動かせば肉を斬り裂けるという位置にある。それは匕首だった。
「拳法だけではない、状況に応じて使い分けているだけだ」
レイチェルが白い歯をこぼして言った。菱形の匕首の腹で、省吾の頬をぴたぴたと叩いた。いまさらながら、冷たい汗が省吾の背筋を駆けた。どこに隠していたというのだろうか、確かに匕首は暗殺に使われるぐらいだからどこにでも隠せるのだが。それにしても
(今までずっと隠していたのか、手の内に)
恐怖よりも驚愕に値する、その事実。武器を持っていないかのように振舞うことは、意外に難しい事なのだ。武器を隠し持っていることは、どんなに平静を装っていても大抵は挙動で分かるものだ、ナイフの一本でも心のどこかでその武器を意識してしまうものだから。もちろん、それを見破るには鋭い観察力と洞察力が必要となる。省吾は常に、誰が狙っているか分からないという常在戦場の心構えでいるから、自然と相手を観る力がついたのだ。
その省吾をもってしても、見敗れなかった。
「何を面食らっている、この程度で驚いていたらこの先きついぞ」
レイチェルはそう言って、匕首を収めた。
「俺の知る先生は――」
省吾は喉に、ちくちくとした痛みを抱えながらいった。
「そうやって、不意打ちしては俺の反応を楽しんでいるようなそぶり見せていたっけ。丁度あんたみたいに、いきなりナイフを突きつけたりな」
喉に手をやる。皮一枚切れて、血が滲んでいた。手の内で力の調整が出来ている、相当な手練れである証拠だ。レイチェルは匕首を指で回し、袖の中に隠して
「お前の師は、どうやら相当厳しかったようだな」
そういって、またデスクにより掛かる。懐から煙管を取り出した。
「返事はいつでもいいぞ」
と、煙を吸い込みながらいった。
「うちに来るのか、あのチームで雪久と共闘するのか、それともどこにも属さずに野垂れ死ぬか……お前の好きにしな。帰りはあっちだ」
煙管で指し示した方向に、鉄鬼がいた。壁の一部が、ぽっかりと口を開けているのを見るに、おそらく入り口と同じ仕掛けが施されていたのだろう。襟を正して、省吾は
「どうもご馳走さん、でも多分、入らねえよ」
といった。
「あんま、群れるのは好きじゃねえんだ。『黄龍』にも『STINGER』にも、当然『OROCHI』にも。俺がいるべきは、そんなところじゃない。俺は一人でも――」
一人でも――そう、しなければならない。誰とも関わらないし、関わってはいけない。でないと痛い目を見るから。そう、決まっているから。
だから、答えは最初から否、であることなど明白であった。俺は一人で、それはこの先もずっと変わらない事実。
「それならそれで構わないが、気が変わったらいつでも来な。ああ、それと」
レイチェルが思い出したようにいって
「そこの3人、雪久に返しておいてくれ。“Xanadu”で拾ったのだが」
指し示す方向に、見慣れた三馬鹿……ではなくて
「お前達は……」
憤然たる面持ちの黄と、悄然と生気の抜け切った顔したリーシェン、それに申し訳なさそうに顔を背けたヨシの姿が、それぞれあった。