第一章:8
血管が切れる音が、聞こえたようだった。
ニヤケ面が消えた。二重顎の顔は紅潮し、目は血走っていた。拳を震わせている。
「いい度胸している」
声が、若干上ずっている。それは怒りからか、それとも屈辱からか。
「付け上がるなよコリアン……隷属民の分際で!」
右手のレミントンを向けた。引き金が引かれ、ショットシェルが排出される。その散弾はユジンの頭を吹き飛ばし、ミンチにされた肉と血が飛び散る――
はずだった。
音が、続けざまに3回、聞こえた。
はじめ、ジュークのうめき声。続いて骨の砕ける音。
銃声が響いたのは一番最後だった。
それは、一瞬の出来事であった。
ジュークがショットガンを構えるより先に、間合いに踏み込んだユジンがその棍をしごき、男の腹を突いたのだ。
肋骨が砕ける音が、10メートル先の省吾の耳にも聞こえた。散弾はユジンの体にかすりもせず、むなしく虚空に散った。
男は白目をむいて、泡を吹き倒れた。
後ろの男達が色めきたった。アジア人の、自分達よりも遥かに体格で劣る小娘が白人の男を倒した。しかも銃器ではない、棒切れ1本で。
崩れ落ちる巨体の向こうから、1人の修羅が現れたのを、彼らは見た。
水銀のような目が、男達を見渡す。凍りついたその目に、彼らはひるんだ。
右手の棍は、突いた格好のままピクリとも動かない。だが、その先端はすでに次の獲物を狙っている。
ユジンの全身から、陽炎のように立ち昇る重圧。放たれる気が、男達の心に入り込み、動揺を誘う――
「この野郎!」
男達が一斉に射撃を開始した。10のガンファイアーが、沿道に咲いた。
だが、弾道の先にユジンの影はなかった。
既にその足は地を離れ、驚異的な跳躍を以って宙を舞っていたのだ。上空に身を踊らすその姿は、光と風に遊ぶ妖精のようである。
男達の頭上を飛び越え、背後に着地する。
着地一番、ユジンが後ろの男を叩き伏せた。男は血とトカレフを舞い上げ、地面にキスをする。
男達が、口々に何かを叫びユジンを撃つ。だがそれらはことごとく返り討ちにされた。皆、銃を構えることが出来ても撃てないのだ。引き金に指をかけるよりも早く、ユジンの棍が彼らの顎を砕き、喉を突く。おまけに彼女の巧みな体捌きで、照準を合わすことが出来ない。飛び交う銃弾は、ユジンではなく周囲の土の壁に突き刺さっていった。
10人の男達の中で、ユジンは棍を旋回させて次々と彼らを打ちのめした。流れるように、黒い水がたゆっているかのように――
気づけばすべてが終わっていた。彼女の足元には、死に体となった白人10名、転がっていた。
「こ、この化け物が」
ジュークが腹を押さえ、落としたレミントンに手を伸ばした。ユジンはそれを蹴飛ばす。
「隷属民呼ばわりされるほど、誇りを失ってはない」
うずくまるジュークを見下ろしながら、最後に棍を彼の背中につきたてた。男の意識が飛んだ。
「すごい……」
省吾が部屋から出てきた。目の前の光景に、感嘆の声を漏らす。
11挺の銃をものともせず、いとも簡単に片付けてしまった。銃器を相手に、かすり傷一つ負っていない。
(こりゃさっきやり合ったらやばかったかな……)
武器の扱いに長けているということは、体術にも優れているということである。省吾自身も武器と徒手、両方の術に通じているからわかる。あのまま格闘となっていれば無事ではすまなかったであろう。
「お前、これほどの技術をどこで会得したんだ?」
「私の格闘術なんて我流よ。独学で見よう見まねで振り回しているだけ。あなたみたいにきちんと習ったわけじゃないわ」
返り血を拭い、答えるユジンの顔から戦士の気配は消えていた。
(これが、我流?)
しゃがみこんで、白人たちの傷を観察した。無駄な傷痕はない。一撃で、的確に急所を狙い、仕留めていることがよく分かる。並みの腕では出来ない芸当だ。
省吾は彼女の背中を見た。
『OROCHI』
あの少年と、全く同じデザインのジャケット。記憶は曖昧であるが、少年のものにも同じ文字があったと思われる。
(チーム『OROCHI』……か)
「で、どうするの? さっきの続きをやる?」
棍を、省吾に突きつけた。血が、ついている。
「いや、遠慮しとく」
もう結構とばかりに首を振った。何度も言うように、彼は不利な戦いはしない主義なのだ。
「なら、私と来てくれる?」
にこやかに、手を差し出した。
(仕方ないか)
省吾はその手を握り返した。
第一章 完