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監獄街  作者: 俊衛門
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第九章:5

 レイチェルはゆったりとした衣服に身を包んでいた。薄桃色の衣を着て、心なしか表情を和らげている、ように見える。照明の下で見ると、レイチェルの整った顔立ちがさらに際立っていた。

「どうした、そんな野獣みたいに牙を剥き出しにして。白梅は精神を落ち着ける効果があるんだ、もう一度嗅ぐか?」

「どうして俺に、あの香を」

「どうして、といっても」

 レイチェルは少女に下がって良い、と告げた。少女はぎこちなく拝礼して、部屋の奥に消えた。

「台湾から取り寄せたものだが、あの香水。気に入らなかったか?」

 気に入らないもクソもない、と省吾はひとりごちた。あの白梅の香りは、省吾にとっては忌まわしいものでしかないのだから。白梅香が血の臭いに変わった時から、殺しあいと闘争の道を行く事になったのだ。トラウマ抱え込むには充分過ぎる。

 あの白梅の香りが鬼門であることを知る人物は、省吾以外ではただ1人しかいない。

 まさか、それを知っていたんじゃないよな――そう再び、疑念が頭をもたげ始める。母親のことを話したことがあるのは、『先生』唯一人だった。

「どうした、呆けた顔して」

 レイチェルがいうと、省吾は詰め寄って

「あんたぁ……ここに来る前はどこに?」

「私か? 台湾にいたがな」

「なら、台湾の前は」

「それを訊いてどうする」

 というとレイチェルはワインのボトルを取った。

「コルトン・シャルルマーニュの2002年物だ、るか?」

 赤ワインをグラスに注いだ。

「はぐらかすんじゃねえよ」

 グラスを差し出してくる。果実の酒精が鼻腔をくすぐって、生唾を飲み込みそうになるのを堪えた。質の悪いアルコールの匂いではない。混ざり気のない、本物の酒だ。だがここは

「いらねえよ」

 物欲しげな視線になっていたら事だ、とばかりに省吾はついと視線を逸らした。遠慮するな、とレイチェルがさらにグラスを寄越す。

「酒と女は、早めに済ませた方がいいぞ」

「お、女て……」

 さっき同じようなこと聞いたな、と思っているとレイチェルが、蠱惑的で艶めいた唇から笑みをこぼした。グラスを持つ指は、とてもギャングを束ねているとは思えない。あまりに細くて、しなやか。その指が、ふと省吾の顎に伸びた。

「な、ちょっと……」

 動揺する省吾の唇を、レイチェルの指がそっと押さえた。凍えるように、冷たい肌をしていた。

「この街じゃ、済ませる事は済ませておかないと後悔するぞ。女を知らぬまま死ぬのも、やり切れんだろう」

 指が頬を撫ぜる。鼓動が早くなり、顔が熱くなるのに慌ててその手を払いのけた。レイチェルはニッと笑って

「図星か」

 からかうようにいって、レイチェルがグラスの縁を、爪で軽く弾いた。そういえば金にも同じことをいわれたな、などと思い出す。そんなにわかりやすいのか、俺は。

「飲まないのか」

「敵から」

 と省吾は、ようやく落ち着きを取り戻した。鼓動が収まるのを確認して

「受け取ったものに口つける、気は無い」

「敵? 私がか?」

「味方ともいえないだろう。なら、敵だ」

 グラスを押しやり、これはいらない、ときっぱりといった。レイチェルが目を眇めた。

「用心深いのだな」

「当然だろう、こんな時代」

「ふうん?」

 唇をほころばせる。良く笑う女だ、と思った。あの黒服共を従えているとき、雪久や金といった外部からの敵に対しては絶対零度の鉄壁さを誇っていた、完全なる冷徹さ。その完璧さに混じって垣間見せる、自嘲するような笑み。寂しげに響く。その表情だけ見れば、《西辺》最大勢力『黄龍』のトップであるとは、到底思えなかった。

「用心というより、肝が小さいのかも。思ったよりも小心者なんだな」

「何とでも言えよ。とにかく俺は……」

 つと、レイチェルの指がグラスに伸びた。何をするのかと思って見ていると、グラスを口元に近づけて

「いい酒なんだがな」

 一口、含む。そのまま、グラスを――今しがた口をつけた箇所を省吾の方に向けて差し出した。

「毒は入っていないぞ、ほら」

 レイチェルの口紅がグラスについている。どうした、飲まないのかと挑発的な視線をくれてくるのに、収まりかけた熱が再びぶり返すのが分かった。

 顔が燃えるように、熱い。

「お、お前なあ」

 からかわれているのを自覚している、それなのに体は正直というかなんというか……視線を逸らすのが、精一杯だった。

「そ、そういうことを……」

「どうした? 毒は無い、といっているだろう」

「そうじゃなくて……ひ、人が口つけたモンを、の、飲めるかっていってんだよ」

 強く言おうとして、どもってしまった。レイチェルは、なにか物珍しいものを見るような目で

「そのぐらいの事でうろたえるなんてね。純過ぎるのも却って毒だよ、坊や。女に尻込みするような獣なんて、牙を持たない。持てない。怖気づいて、綺麗な体で棺桶に収まるつもりかい? 案外その時は近いかもな」

 はっきりそうと分かる、軽蔑を含んだ声でいう。「お前には、この街で生き残ることはできない」といっているのだ、この女は。俺が、女も抱けない腰抜けだと――再び燃え上がるのは、気恥ずかしさとか羞恥の類ではなく、馬鹿にされたという思い。自尊心を傷つけられた獣が、牙を剥く。

(馬鹿にすんな)

 と念じつつ、グラスをひったくった。赤い液体を一気に――口はつけなかった――喉に流し込んだ。

「飲んだぞ」

 省吾がグラスを、テーブルに叩きつける。酒臭い息を吐き、やや胡乱な目になって

「クソアマが」

 省吾のやぶ睨みにも動じる気配はなく、レイチェルは余裕の笑みをかましてくれる。いちいち気に食わない、と舌打ちした。

「いい飲みっぷりだな、坊や」

「坊やってのは止めろ、年増女」

「そんなに老けてはいないよ、まあガキ共からすれば結構な年に映るのだろうが。先週、26になったところだ」

 年齢まで似通っている。それはそうと、と省吾は切り出した。

「あんたは、ここに俺を連れてきた。まさか、酒を酌み交わすというわけでもあるまいよ。何かあるんだろう? 話とか」

 省吾はそう、問い詰めてやった。レイチェルは吊り上がった眦を緩めると、そのまま視線を窓の外に落とす。つられて省吾も、外を見た。ネオンの光芒、色彩が波打つ。

「お前」

 と切り出した声は、張り詰めていた。それは経験不足な青二才をからかう口調ではなく、先に雪久と対峙したときのような、緊張と威厳を含んだものである。自然、体が強張るのを感じた。そうして話す分には間違いなく、『黄龍』の女ボスという感じなのだが。レイチェルはたっぷり10秒間、沈黙を挟み

「どう思う?」

 唐突にそういった。どうって何だよ、と省吾が問うより先に

「この街を。お前さんの目には、どう映る?」

「なぜ、それを俺に訊く」

「この街にいると、ひと月もすれば街の色に染まってしまうからな。まだ日が浅いんだろう? ここに来て」

 丁度1ヵ月かな、と省吾はいった。本当はもう少し、経っているのだろうが面倒なのでそう答える。

「多分、染まっているよ。俺も」

「まあ、それでもまだ染まりきってはいない。そういう人間から見れば、この街はどう映るのかと思ってな」

「どう、って」

 最悪だろう、と難民としては平均的で面白みも無い感想を述べてやった。

 そりゃあ、そうだろう、と省吾の脳裏に浮かぶのはここ1ヶ月の事。工場にぶち込まれて、『BULE PANTHER』の“クライシス・ジョー”、『突撃隊』、『鉄腕』――と。何度、死にかけたか。鉄臭い血と熱せられた金属が肌を焼く感覚すら蘇ってくる。顔の切創が、疼く。

 だが同時に

「俺のいたところだってロクでもないが、ここはそういう所でも天国に見える」

 同時に、あいつらの顔が思い浮かぶのはなぜだろうか。雪久と最初に戦ったときの、狂気めいた顔はともかくとして――彰の人を食った笑みや、100人と戦ったときの、燕の憔悴して死にそうになっていた姿。首を切られる瞬間の、苦悶の顔をつくることすらできなかった李や「ユジンを頼む」といって消えたチョウ。そして、ユジンの涙が――フラッシュバックのように脳裏に焼きつく。

「やはりそう思うか」

 レイチェルがいうのに、省吾はゆるゆると首を振って幻影を払った。他愛もないこと思い出して、昔を懐かしむような年じゃなかろうに、と思って

「思わないのか、あんた」

 そうだな、と含むような笑みを浮かべた。物憂げな風情を漂わせて、睥睨する瞳はビルの谷間に尾を引くテールランプを追っている。

「ここにいると、ここがどんなに腐ったところかなんて分からなくなる。澱んだ水に棲む魚がいるようにな。慣れというものは恐ろしい」

 慣れ。確かに、この街を異常と思わなくなった辺り省吾も「慣れ」始めているのだろうか。

「待遇や環境、能力。向上を望むのが人間というものだろう。善くしようとして、足掻いて、自分の置かれている境遇や自分に足りないものを埋めようとする。だが、ここに長くいれば……そうした人間的な部分など不要な物、と刷り込まれてゆくものだ。腐った水も、それが心地よいと感じればその環境に適応してゆく」

 それが、成海というシステムだ。言い切ると、吐ききった呼気が吸気に変わった。音がするほど鋭い吸気、武道家の呼吸だ、と思った。人は、空気を吸い込む瞬間に居着く。出来るだけ呼気を長くして肺の中の空気を押し出す。限界まで吐ききった瞬間、素早く腹のそこに空気を飲み込む。呼吸は爆発力であり、心を鎮める働きもある。武の要だ。

「人間的、とか。そんなものは人それぞれだろう」

「ある程度は似る」

 レイチェルはそういって

「ここの色に染まれば、先ずは奪うことを覚える。当然だろうな、奪われるくらいならと思うだろう。そして快楽、支配。すべてはそこからだ」

「支配なら、まさに今のあんただ」

「私は、違う」

 レイチェルは強い調子でいった。低音から発せられた声は、毛ほどの反論も許さないといわんばかりの気迫を伴っている。

「ここでは支配など、存在しない。外を見て、どう思った」

「どうといわれてもな」

 と言いつつ、外に目を移す。ネオン煌びやかな《西辺》の灯が瞬くのを視界の端に捉えた。

「民族を滅ぼすのには、何が必要だと思う『疵面スカーフェイス』」

 レイチェルが、唐突に訊いてきた。

「何が」

「戦後、東アジア諸国の政治体制が崩壊して大量の難民が発生した、現在。国連の人員整理の一環として特区が形成された。この成海も、そのうちの一つだ。亡国の民の保護、及び自治こそが国連の特区構想だった。しかし、実情はそうではない。分かるな?」

「多少は」 

 戦勝国、つまりは常任理事国による委任統治が特区全体で行われているということは省吾も理解していた。都市一つとっても、複数の理事国に共同統治されていて各国の利権がせめぎあっている。各国の企業が進出し、難民という安い労働力を確保して生産に従事している。

 それこそが、成海市始め、特区全体の構造であった。


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