第九章:4
青紫の壁面には、牙を剥く龍のレリーフがかかっている。上から見下ろす文様が、口を開けてビルに入るものたちを呑み込まんとする。五本の爪を誇示するように、指を開いていた。
黄龍――黄は土を意味し、土は皇帝や皇位、中央を表す。そして龍は力の象徴であった。
「西のシンボルか」
と省吾がいうと同時に、車が停まった。
「西なら白で、鉄だろうに。黄なんて、趣味が悪いぜ。そんなに自分中心が好きなんか、支那人」
「降りろ」
鉄鬼は省吾の言葉を無視して、告げた。命じられるままに、省吾が車を降りると黒服2人が強く腕を引いた。
「痛え、この野郎」
思い切り睨みつけるが、黒服たちは意に介さないように省吾を連行する。おそろしく、機械的な動作だった。漆黒を湛えたサングラスは省吾の方を見ることなく、真っ直ぐ前方を見据えている。それでも圧し付けた銃口は、寸分違わず省吾の左右の肺を狙っている。下手に動けば撃ち抜くという無言の警告が、引き金にかけた指を介して伝わってくるようであった。
冷や汗が伝う。
こいつらは確実に、訓練された人間だと確信した。そこらのチンピラとはものが違う、それは全身からにじみ出る圧力が物を言っている。省吾には、わかった。
命令が下れば、その0.5秒後には引き金を引き、省吾を撃ち殺す。そう言う風に、擦り込まれている人間だ。もちろん、省吾が逃げようとすればその瞬間にも。銃弾が肉を割ってめり込み、骨を砕けば柔らかい臓器を傷つける様が、脳裏に焼きつけられる。
嫌なイメージを、拭った。
「大人しくすれば、死ぬことはない」
鉄鬼が、省吾の心のうちを見透かしたように言った。「あと、今度余計な事を言ったら侮辱したとみなす」とも付け加えた。
ビルの前には、数人の黒服たちが立像の如く不動の姿勢で控えていた。
階段上から見下ろす視線は、嘲笑を含んでいる。愚者を笑う目、生殺与奪を握った権力者じみていて、気に食わなかった。かといって、このまま黒服を突き飛ばしてこの男を締め上げたところで、次の瞬間にどうなるかは目に見えている。
「……ちっ」
忌々しさ、不愉快さ、幾ばくかの恐怖も、今はとりあえず飲み込もう。機会を、伺うんだ。省吾はそう、言い聞かせた。どの道あの女、レイチェル・リーには会っておく、必要がある。
「行ってやろうじゃん」
乾いた唇を舐めた。
内装は、外観に反してシンプルだった。金に飽かせてひたすら豪奢にするというわけでもなく、かといってストリートに放置された廃墟や蟻塚めいた集合住宅でもない、至って普通のオフィスビルといった感じだった。廊下には黒服たちが、2メートルおきに立っており、天井から監視カメラが睨みを利かせている。あのレンズの向こうに、ここのビルの管理者がいるのだろうか、と思った。
廊下の突き当たりで鉄鬼は立ち止まった。
「どうした」
「しばらく待て」
と鉄鬼が命じると、突き当たりの壁の一部に手のひらを置く。すると、甲高い電子音が鳴って壁の一部が陥没し、果たして人一人が通れる通路が洞穴の昏さを以ってして生み出された。省吾が呆気に取られていると鉄鬼が
「初めて見たって面だなあ」
「そりゃあ、まあ」
田舎者だからな――などと思っていると
「静脈照合だ、魔法じゃあないぜ」
くつくつと喉を鳴らして笑う。鉄鬼は自らの巨体を屈めるようにして通路に入り、振向いて「早く来い」という。
「お前たちは、そこに」
鉄鬼が言うと、やっと黒服たちは省吾を放した。両腕の縛めが解けて、ほっとする。鉄鬼の後を追うのに、省吾は鉄鬼の広い背中を見た。
(今なら殺れるかもな)
などと思う。武器はないが、この狭い通路ではあの巨体は不利に働く。襟を取って、後ろから締め上げるか、あるいは後ろから金的を蹴り上げれば……
もっとも、実行することはない。敵地の真ん中で、下手に抵抗してもねらい撃ちにされるだけだ。それに、この男とて易々とやられたりはしないだろう。背中から醸し出す殺気が、物語る。なにを武器にするのか、どんな戦法を取るのかも分からないが、この男は俺たちと同じ匂いを感じる。手を出したところで、ダメージを負った体で対処できるか――今は従った方が良い、と判断した。
通路が切れると、控え室のようなところに出る。省吾の後ろで、壁が閉ざされた。
「んだ、ここ」
と省吾が、声を洩らす。無機質なオフィスビルかと思っていたのが、一変して豪奢な構えを見せた。
足元が埋りそうな絨毯が敷き詰められていて、高い天井からシャンデリアが吊られている。豪奢な、部屋だった。壁には古い時代の水墨画が掛かっていて、調度品はこれも時代がかった武具や骨董品が備え付けられていた。清代か、一番古いものは漢代のものも含まれているように見える。文化遺産の類は大戦で殆どが失われたのだが、あるところにはあるものだ。
「ここで待て」
鉄鬼がそういって、ソファに座るように促される。合成革でなく天然素材を使っているようだった。鉄鬼が部屋の奥に消えるのに、省吾が座りこんだ。調度品から照明から、金無垢の煌びやかさがどうにも目に付く。
(落ち着かない)
と思うのは致し方ないこと。戦前は土の匂い、戦中と戦後は血の臭いのあるところに常に身を置いていた省吾にとってはどれも馴染まないものだった。クラブや売春窟も馴染まないことには変わりないが、あそこはそれでもまだ不条理な暴力とそれに抗する力の流れが目に見えて横たわっていた。
だがここには、暴力めいたものは感じられない。高級感が漂う室内は、それまで経験したことのない空気を嗅いだ。つい先ほど、車の窓から垣間見た夜の《西辺》とも違う、ここには手垢にまみれた金の臭いは感じない。もっと高尚なもの、宝石をあつらえて絹糸を重ね合わせた質感が部屋中に満ちていた。落ち着かないわけだ、掃き溜めで育った自分はクソの塊のようなもの、そんな自分が金と財宝の中に放り込まれているような状態なのだから。
「真田省吾さん」
と呼ぶ声がして、振り返った。女の声。
年齢は、省吾と同じか一つ二つ下といったところ。太股のきわどいところまでスリットの入った、真紅のチャイナドレスに身を包んでいる。黄金の刺繍は、昇り龍だった。茶色がかった髪色を束ねて、ポニーテールにしていた。屈託無く笑う姿や仕草に、あどけなさが残る。まさか、こんな子供が『黄龍』なわけないよな。そんなことを思っていると、少女が近づいてきて
「ようこそ、おいでくださいました」
恭しく、古代式に拝礼した。左の拳を右手で包む拝礼は、最大の敬意を示す。
「何だよ、あんた」
「レイチェル大人から、あなたをもてなすように申し付けられまして」
少女はそういって微笑んだ。子供っぽい笑み、だがどこか妖艶で危うい色香を漂わせている。例えるなら娼婦、それも高級コールガールのそれに近いものがあった。まともに顔を見ることが出来ず、ついと目を逸らした。
「とりあえず」
と少女は、省吾にもたれかかった。細い指がジャケットの裾に掛かる。と、少女の髪から白梅の香りが漂ってきた。
甘い匂いが、脳裏にイメージを焼きつける。
思わず、手を払った。
「何すんだよ!」
と叫ぶ声に、自分自身で驚いていた。思いの他、大声でいってしまった。少女は怯えたように肩を奮わせて
「いえ、その……傷の手当をと……」
視線を泳がせて、おどおどする様は明らかに子供だった。当たり前だ、こいつは俺と年齢は変わらないはず。だったらなぜ、白梅香なんか身につけている。
この匂いは、あの時と同じ香りだ。瞼の裏に蘇るのは、かつて見た夢、記憶の残滓。戦争が始まった日に感じた、母親の――少なくとも、子供がつける香ではない。白梅の香りが漂うのに、その匂いが臓物の臭気に変わるような心地がした。胃が反転して、吐き気がこみ上げてくる。麻薬常習者が味わうフラッシュバックにも似た、記憶の逆流が起こる。
「あ、あの……」
「近寄るな」
と後ずさり、体内から生じる不快感を押し込もうと、飲み込む。動悸が早くなって、皮脂に混じった汗が全身を濡らした。
「どうして、その香をつけている」
額の汗を拭いながら、省吾がいった。少女は困惑したように答える。
「えと……これはそのう……」
「私があげたんだよ、その子に」
背後から声がするのに、省吾は声の主に向き直る。レイチェル・リーが、マホガニーのデスクに寄りかかってワイングラスの縁をなぞっていた。