第九章:2
「それ取ってもらえます?」
と孫が言うのに、舞が救急箱から包帯を取り出す。孫が調合したという薬の液が、ガーゼに浸されていてユジンの右瞼に薄く刻まれた切創に当てた。
薬が傷口に沁みるのに、顔を背ける。痛みが滲んできて、傷口が燻るように燃えているように感じた。
「じっとしてて下さい。もう直ぐ終りますから」
と孫が言うのに、ユジンは
「ねえ、痕とか残らないかな」
「思ったほど、深くはないですから……それにしたって、あとコンマ何秒避けるのが遅かったら痕どころか失明ものでしたよ。よく、これだけで済んだものですね」
自分でも、よく体が動いたものと思う。あれだけ接近した状態で、気づいたら体が勝手に動いていた。
いや、違う――動かされた感覚がした。自分以外の、何者かに。あの女と揉みあって倒れて、縄標の先端が迫る、一部始終を上から俯瞰している自分がいて、その自分が腕を伸ばして刃の落下地点から自分の体をずらした。幽体離脱のように肉体から意思が離れて自分を守ったというか、そんな感じだ。一瞬だが、自分を見下ろしている自分がいたような気がした。
ところで、だ。
「舞さん、僕がガーゼ押さえていますから包帯巻いてください」
「あ、はい」
孫が言うと、舞がぎこちない手つきで、ユジンの頭に包帯を巻いていく。
「あのさ、なんであんたがいるの?」
ユジンが訊くと、舞は体を強張らせて、手を止めた。答えに窮しているらしく、口ごもって「あの……」とか「それは……」などと言っている。はっきりしなよ、すっきりしないわね――と思っていると、孫が横から助け船を出した。
「手伝ってもらっているんです。片手だと、どうしても不便するので。助手として」
「普段から?」
「助かってます」
そう言って、にっこりと笑った。舞の顔を見やる。舞は、視線を横にそらして俯いた。目を合わせるのを拒んで、下を向いたまま包帯を巻いていく。
なにが気に食わないんだよ。
「いいよ、あとは私1人でできる」
ユジンは強引に、包帯を奪い取った。慌てる舞に、
「私なんか、軽症よ。あんたに看病されるほどのことはない」
「いやー……ユジンさん、今回一番ダメージ負ってます。軽症違いますよ、絶対」
孫が言って、肩の傷を看だした。
「実際、直撃は避けたものの、こういう小さな傷でも死に至ることはあるんですよ。出血によって意識を失わせ、ショック状態になる。だから、達人の勝負って一撃で決まっちゃうんですって」
「つまり、私が下手だってこと?」
「あいや……そういうことじゃなくて……」
「そういうことじゃないの。悪かったわね、無駄な動きが多くて」
いってからしまったと思った。ユジンがいった言葉に、孫はばつが悪そうに下を向いていた。気まずい空気が流れる。突っかかる気はなかったのだが、口が過ぎたか。
(まずいなぁ……)
なんとかフォローしようかと思ったが、うまく言葉が出て来ない。
どうしようか、と考えていたところへ、入り口の方から声がした。
「やけに絡むなぁ」
と間延びした、倦怠感を伴った声。ユジンが振向くと、彰が救護室の壁に寄りかかっていた。
「彰、傷はいいの?」
「平気、と言いたいところだけど割りと痛むね、蹴られたところ。あの『STINGER』の頭、酷い馬鹿力だ。まあ、それ言ったら雪久なんか俺の何倍も蹴られているんだけど」
雪久の名が出たのに、ユジンは身を乗り出して
「雪久は、大丈夫なの?」
「おっと、食いついたね」
彰が意地の悪い笑みを見せた。
「意外と大したこと無いみたいだ。金とレイチェル、2人分――さらに2人とも手練と来ているから、相当ダメージ負ったかと思ったけどね。直撃の瞬間、体を緩めて力を逃がしていたみたいだ、恐れ入る。武の心得なんて、全く無いのにねえ」
と言って、彰はどこか遠い所を見るように、視線を泳がせた。
「この街に来た時は、今以上に勢い任せな喧嘩殺法だったんだけど。レイチェルに言われたこと、それでもちゃんと聞いているんだなあ、あいつ」
あの雪久とレイチェル・リーの会話は、雪久と彰、レイチェルとの間に何か因縁めいたものを伺わせるものだった。雪久は、レイチェルに善い感情を持っていないようだったが、少なくともあの女は――自分の知らない雪久を、知っている。そしてこの彰も。
「何かあったの?」
「何が」
「いやだから、あの……雪久と、レイチェル・リー」
「ん、ああ大したことは無いけどさ」
それならどうして、そんなに懐かしげに語るの、とユジンは思った。雪久がこの街に来た、その経緯も知らないし彰と出会い……宮元梁とつるんでいた時のことも。
自分の知らない雪久、ただそれだけのことなのに。どうしてか、胸を食む。
「あ、あの。肩の手当てを……」
おどおどと舞が、ガーゼと包帯を手にしてきた。ああそうだ、こいつもそうだったな――ユジンの知らない雪久を知っている、一人。宮元梁の妹で、この子を救うために、雪久は……。
「いいよ、もう」
とユジンは舞の手を払いのけた。ガーゼと包帯が床に散らばるのを、舞が慌てて拾い上げる。
「そんなに深くないから」
「そう、無碍にするな」
と彰がいった。
「今回は大活躍だったから、手厚く看病してやらないとな」
「大活躍、ね」
とユジンは自嘲気味に言った。
「満足に足止め出来ず、『STINGER』からの刺客1人斃せないで活躍もないわよ」
「それは別に、ユジンのせいじゃないだろう。むしろ、あんな簡易式の連結バトンで、あの女の腕砕いたんだから。大したものだよ」
「でも」
でも、そのせいで雪久が――そういうと、彰がぽん、とユジンの肩を叩いて
「気にするなって。今回のこの作戦、もともとちょっと無理があったんだ。それを1人で、あんなに奮闘して。ありがとう」
彰が笑っていった。なぜかその笑顔が、胸に突き刺さるようで
顔を背けた。
「私は……でも」
頭を振って、ベッドを飛び降りた。
「次の召集は?」
「5時間後」
「そう。じゃあ、ちょっと外の空気吸ってくるわ」
ユジンは、ベッドにかけたジャケットを羽織った。さすがにこの格好では肌寒い、秋口の、季節の変わり目では。クラブの中は、熱気に包まれてむしろ暑いくらいだったのに。
「あの、ユジンさん」
舞が呼び止めるのに、一瞥して。
「なによ」
刺々しい声でいう。舞は、やはり下を向いて
「その……手当てがまだ……」
煮え切らない。そういう態度が、癪に障るんだよ。
「いいって言ってるでしょ、放っておいて!」
そう、一喝する。舞が肩をびくっと振るわせて、首をすくめた。
「おおい、そんないい方ないだろうよ。舞に当たるなって」
彰がいうのも聞かず、外に飛び出した。自分でも、どうしてこんなに苛立っているのかわからなかった。ただ、胸の内にあるもやもやした感情を、吐き出したかっただけなのかもしれない。
雪久の過去、レイチェル・リーのこと……
今は、何も考えたくない。
後ろの方で、彰が「前途多難だ」という声が聞こえた。