第九章:1
更新遅れて申し訳ありません。第九章スタートです。
「何本に見える」
と彰が指を差し出すのに、雪久は3本、と答えた。
「気分は悪くないか、頭が痛いとか吐き気がするとか眩暈がするとか」
「ねえよ、別に」
「ちゃんと立って歩けるか? それと今が何年何月でどこにいるとか」
「しつけえな、なんもねえよ。てめえは俺の女房か」
うんざりしたように雪久が手を振った。どうやら、本当に何ともないようだ。彰はほっと、安堵していった
アジトに逃れたのは夜が明けたころだった。途中で目を覚ました雪久に、とりあえずは撤退する、と言うと案外素直に従った。2人は今、『OROCHI』の作戦室にいる。救護室のベッドは限られているので、比較的軽症の雪久は作戦室で傷の手当をしている。彰が応急処置を施す、その間。ずっと、雪久は不機嫌そうにしていた。
「あのレイチェルが本気出したら、素手で人殺せるってもんね。昔、シベリアで虎を絞め殺した、なんて話があるくらいだし」
「誇張しすぎだろ、それ。っていうか、話がまんま梁山泊じゃん」
「でもまあ、それぐらいすごいってことだよ」
彰は雪久の、すりむいた肩に包帯をあてがった。雪久は悄然として、生気の抜けた顔をしている。無理もないか、と彰は思った。これほどの大敗北を喫して、平気な顔をしていられるわけがない。ただ、敗北ばかりが原因ではないだろう。雪久にとって我慢ならないことは……
「クソアマ」
とコンクリートの壁を、拳で殴った。アジトの老朽化した壁の、塗装がボロボロと崩れる。壊さないでくれよ、と彰は言って包帯を巻く。雪久は唸り声を上げた。
「あの女、俺に情けをかけやがった……俺らぁ、本気であいつを、あいつらを食いに行ったってのによ。ガキみてえにあやした末に、おめおめと尻尾巻いて帰ることになるなんて」
「屈辱、っていいたいのか。俺らにはまだ、時期尚早だったんだよ。『黄龍』の喉元まで迫ることはできたんだけどねえ……」
できた、と彰が包帯を巻く手を止めた。雪久は黙って、ジャケットを着込む。白い素肌に直接、赤い布が被さって、白雪に血が滲んでゆくようなイメージが沸く。彰は部屋の奥に目を向けて
「ま、俺の鉄パイプ爆弾の威力が試せたことと、それなりの収穫が得られたことを喜ぶべきか」
という。視線の先には東洋人の女――自らの縄標に縛り上げられた『STINGER』の一人と見られる、明るい髪をした女が転がされている。
彰は近づき、顔を覗き込んだ。
「あんた、名はなんていうの」
「……玲南」
敵意むき出しの目で睨み、女はそれだけ答えた。よくよく見ると、整った顔立ちをしている。世が世でなければ、モデルとか歌手とか、容姿を生かした仕事にも就けただろうな、と思いながら
「玲南ね、最初ずいぶん暴れたから男かと思ったけど……名前はさすがに女の子だな」
広東語でいって、わざとらしく笑ってみせる。玲南の目つきがさらに険しくなった。
「てめえ、こんなことしてただじゃ済まさねぞ。倭人が」
「ふん? そういう口の聞き方していいのかな。自分の立場を考えようよ、玲南ちゃん?」
茶化すようにいう。玲南は歯軋りして、視線で人を殺せるなら殺してやりたいといった風情で食って掛かるが――両腕の縛めだけはどうにもならないようだ。身をよじって縄を抜けようとするが、もがけばもがくほど皮膚に食い込んでいる。
「自分の武器で縛られる気分はどうだい。丈夫な縄だよねえ、合成繊維に鉄線を編みこんでさ。それならば激しい戦闘にも耐えうるんだな。うちのユジンの棍を受け止められるほどに」
冷たく、見下ろした。玲南が何かいおうと口を開いたとき
下腹部に蹴りを入れる。
「がっ!」
内臓を圧迫された玲南が、胃液を吐いて体を折り曲げた。憎悪の色が苦痛に変わり、呼吸が止まる。息を吹き返すタイミングを狙って、また同じところを蹴り飛ばした。今度は声すら出なかったようだ。2度の蹴りで、玲南は完全に沈黙してしまう。
「情けないね、もっと根性見せたらどうだよ。ユジンとやりあったぐらいの根性をさ!」
骸のように動かなくなった玲南を踏みつけ、蹴り飛ばした。首から下、胴体を中心に――顔は勘弁してやるよ――内臓を穿つ。やがて玲南は、ピクリとも動かなくなった。
「は、そうとうダメージ負ったなあそれじゃあ。伊達にうちの2番手張っているわけじゃないから、彼女は。まあ、そのNo.2と対等に渡り合うあんたも相当な腕だな。そこは、認めてやるよ」
彰はしゃがみこんで、玲南の髪を引っつかんだ。鼻面つき合わせて、一言一言、含むようにいった。
「だけど、その腕を振るうことはもうないだろうね。これから行く場所、教えてやろうか。この《南辺》ってところは、青豹がいなくなってからというものの、人の出入りが激しいんだよ。大陸や台湾の方からも、色々とわけありな連中がさ。中には女衒窟から新しい女、仕入れに来た奴もいる」
彰は、わざと粘着質な声を出して
「気の強い女が好きな白人も多いからな。サドっ気の強い女に突っ込んで、よがらせるのが連中にはたまらないらしい。俺にはよく理解できないんだけど」
玲南は、そういうと青ざめた顔になった。顔の表皮から血液が抜け切って、表情筋をこわばらせる。おや、と彰が
「何をビビッている? まさか生娘ってわけでもないだろう、捕まったときからこのぐらいの覚悟はしていただろうに。あんたも知っているだろう、ここはそういう街なんだよ!」
と、玲南の髪をさらに引っ張り上げた。玲南の喉がさらけ出される。唇に顔を近づけて、彰は声のトーンを低くしていった。
「それともこの地下で一生暮らすのもありかな。皆、日ごろのストレスがたまっているからね。男所帯だと、性欲の捌け口がないからさ。あんたをここに繋いで――」
「そこまでだ、彰」
と雪久が、背後に立った。
「そういうことは許さない、いつもいっているだろう。女欲しけりゃ金で買え、金がなければギャングどもから奪って来い。弱い奴、いたぶってもつまらんだろう」
上から、見下ろしてくる。濁った黒い双眸が、触れなば切れんといった刃の気を帯びる。拳を握って、体の重心を前にかけ……戦闘体勢の一歩手前だ。彰は玲南を下ろして
「冗談だよ」
と、肩をすくめていった。
「分かってるよ、雪久がそういうの嫌いだって。ちょっとからかっただけだって。あんまり、世間を知らなさそうだったから」
こういうことは分かっている。雪久は、戦いになると敵には容赦なく、敗者にも非道な仕打ちも辞さない。が、それは自分よりも強大な相手に対してのみで、女子供に対しては驚くほど寛容だ。無抵抗の女に対する暴行を禁じているギャングが、この街のどこにいるのだろうか。女に対してはどこかで公平、筋を通しているというか……それが甘さにつながるという人間もいるが、ろくでもない無頼しかいない成海の街では貴重な存在だ、と彰は思っている。
もちろん、逆らう気は毛頭ない。
「それに、『STINGER』に対する有効なカードになり得るこいつを売り払う、わけないだろ? ちゃんと考えてるんだって、これでも」
「それが本音か」
雪久が構えを解いて、いった。淡々として抑揚のない声で。
「ま、そうともいうが……皆」
と、入り口付近で待機していた少年に声をかけた。
「人質を連れて行って。丁重にな」
15歳の韓留賢は、分かった、といって玲南を立たせた。玲南は安堵の表情を浮かべると同時に、彰の態度の変わりように驚いているようで、目を見開いていた。
「本当に売られる、とでも思っていたのかな。でも、場合によっては売られた方がよかったと、思うことになるかもしれないよ」
立ち去る背中に、そう投げかけた。
「さて」
と雪久にいって
「これからどうする? もう一度攻めるか。でも、次は奴らだって警戒しているよ。それに、人質だったらこっちも取られている状態だしね。黄、リーシェン、ヨシ。あいつらどうするよ、西に残したままだけど」
「無事ならな」
雪久は立ち上がって、入り口の方に歩いていった。まだダメージが残っているのか、少し、足取りがおぼつかない。
「俺ぁ、ちいとばかり寝る。次の召集は5時間後だ、その時にまた考える」
そういって、自室の方へと向かう。作戦室の隣が救護室で、その奥が雪久専用の寝所となっている。彰は、お疲れといって
思う。
前途多難だな、と。