第八章:19
かつん、とアスファルトの上にヒールが鳴る。レイチェルの足元に、ヒューイの顔があった。女はつま先で、ヒューイの額を小突いた。
「ボス……」
ヒューイが少しだけ顔をもたげた。レイチェルは冷ややかな目で、見下ろしている。
「無様だな」
最初に出たのはそんな言葉だった。良く通る声。
「お前には幾分期待していたのだがな……第2ブロックからわざわざ来て見ればガキの始末もつけられない我が腹心のふがいなさ、と」
「いや、ボスこれは……」
ヒューイがなにかいいかけると、レイチェルはヒール部分でヒューイの肩を踏みつけた。苦痛に声を上げてのた打ち回るヒューイに、追い討ちをかける。今度は顔面に突きたてた。
「言い訳は、豚のさえずりよりも耳障りだ。保身のために脳細胞を使う暇があるなら、今後の身のふり方を考えろ。しがみつく男は見苦しいぞヒューイ」
顎を蹴飛ばすと、ヒューイは白目を剥きながら気絶した。吐血が女の足にかかり、ストッキングにシミとなって付着した。
車から、黒服たちが降りてきた。レイチェルは男たちに、「連れて行け」と一言命じる。黒服の何人かがぐったりしているヒューイを担ぎ上げ、もう何人かはレイチェルの脇を固めるように立った。
「さて」
レイチェルが向き直った、それと同時に。
周囲から、一斉に金属音が響いた。スライドコック、弾を装填したという合図。いくつもの銃口が、省吾と彰とユジン。まだ倒れている黄たち。そして――雪久とその後ろの金に向けられた。
「動くなよ。彼らは私以外の人間を撃つ事には、微塵ほどの戸惑いもない。私が合図したら、全員」
その続きはいわずとも、わかる。否応なしに、省吾たちはホールドアップさせられた。 ヒールを鳴らしながら、レイチェルはゆっくりと雪久に近づいた。雪久はワイパーを投げ捨てる。やがて、二人の距離は1メートルほどにまで縮まった。
沈黙が流れる。雪久とレイチェルは向かい合い、にらみ合っている。無機質な視線、まるでどちらの表情がより冷たいかを競い合っているかのように。
唐突に、レイチェルの張り手が飛んだ。
雪久の顔が右に弾かれた。左の頬が、赤くなっている。レイチェルはさらに、右の頬も張り、押し殺した声で怒鳴った。
「バカ者がっ!」
雪久は抵抗せず、二発とも受けた。殴られた頬を撫ぜ、睨む視線はそのままに一言いった。
「ご挨拶だな、姉御」
唾を吐きながら
「久しぶりだってのに」
「なら、もっと激烈に歓迎してやろうか? それこそ1年ぶりの再会にふさわしいほどに。ここにいる全員が、お前を狙っている。合図があれば、蜂の巣だ」
黒服たちを見やる。全部で30人ほど、拳銃とライフルが並んでいる。銃口の先に、雪久の心臓がある。
当然のごとく省吾たちにも銃が向けられている。しかし省吾にはそれより気になることがあった。
「あの二人、知り合いかなんかか?」
声を落として、彰に訊いた。彰は頷いた。
「昔、ちょっとね。梁たちとつるんでいた頃に」
「ああ、そう」
なにがあったか、とは聞かない。おそらくあの二人の間には、因縁めいたものがあるのだろうが省吾にはどうでもいいことだった。
目の前では、二人の口論が続いていた。
「狂犬が。私は《南辺》で好きにやることは許可したが、こっちに来てまで暴れていいとはいっていない」
「だまれ、年増が」
べ、っと血の唾を吐きかけた。レイチェルが、眉をひそめた。
「俺が何かするのに、いちいち指図すんなよ姉御。あんたは保護者か、俺の」
いうと、レイチェルが嘆息した。
「雪久、分をわきまえろ。ここではお前など塵芥に等しい。『黄龍』は、刃向かったものは誰であろうと容赦はしない」
誰かがハンマーを起こした。雪久の視線が、横に流れる。
「元からそのつもりだ、姉御。あんた、俺のことを洟垂れ小僧と思っているみたいだけど。俺が、戦争も出来ないガキだと」
雪久の口の端が、歪む。レイチェルは肩をすくめた。
「いままで、少しの無茶は大目に見てきたが……今日ばかりは私も庇いきれないぞ」
「かばう? 何語で話してんだよ姉御。いっとくが、取り巻きに命令しても無駄だぜ。俺の“眼”はすべてお見通しだ。弾なんて、当たりゃしねえよ」
雪久が、左手で手招きした。
「手間のかかる……」
レイチェルがふっと、口元を緩ませた。
「変わらないな、あの頃から。この状況でも顔色ひとつ変えない、恐れ入ったよ」
が、すぐにもとの険しい表情に戻る。懐から、五連発のリヴォルバーを取り出した。S&Wのチーフスペシャルだ。
「立場上、このまま見過ごすわけにはいかないんだよ雪久。《南辺》で大人しくしていれば良かったものを」
「どうするってんだ?」
雪久が、構える。黒服たちが、動く。
「ガキには、躾だ」
レイチェルが、いった。「手出しは無用!」
雪久は身を低くし、飛んだ。
レイチェルが銃を向ける、がそれを捨ててしまった。そしてそのまま、右半身に構えなおした。
雪久は左足を踏み込み、右正拳。
レイチェルの右腕が揺らぐ。腕全体が柳のようにしなり、雪久の腕に絡みつく。拳は大きく左に流れた。
雪久、今度は左拳を打つ。
レイチェルの腕が、半円を描いた。ゆったりとした動作、見えない球体の表面を腕全体でなぞっているかのようだ。
腕は、雪久の突きに張り付き、攻撃を受け流す。突きの軌道が外されると、雪久は勢いを殺しきれずに体を崩してしまう。
突き、蹴り。かすりもしない。レイチェルは自分からは動かず、完全に後の先をとる動きだ。
化勁、か――省吾はその動きには見覚えがある。一心無涯流の鍛錬は、まず武器から入り、徐々に体術の修行にシフトしていく。その体術の稽古で、最初に教わった打撃を流す技術。「先生」は、大陸の武術にも通じていた。あらゆる武術を、一心無涯流の体系に組み込もうとしていたのだ。
(なるほど、こういう動作は読みにくいのだろうな)
赤く燃える『千里眼』を眺めながら、思った。先手をかける相手には、攻撃を予測して避けるという『千里眼』は有効だろう。しかし、最初から応じる攻撃、後の先をとる戦法をとる相手はおそらく想定していないはず。戦場の弾を避けることを主眼として造られた兵器である以上。
「案外、早く終わるかもな」
そしてそれは現実となった。
雪久が蹴りを放った。レイチェルは後ろに下がり、それをすかす。
「見よう見真似にしては、上手いな。でもまだ、甘い。腰が入っていないぞ」
レイチェルがいった。雪久はムキになって、追いかける。
「ていっ」
雪久の左足が、胴を打つ。鋭く疾い、中段回し蹴り。レイチェルは右腕でそれを受ける。
受けたと同時に、レイチェルは反対の腕で脚をとる。手を膝裏に回し入れ、蹴り足を流流す。雪久の体が大きく崩れた。
後退、たたらを踏む。自分が何をされたかわからない、という顔をしている。
「力任せに殴ってもだめだ。ただでさえお前は体が足りないんだから。もっと虚実折り混ぜた攻撃をだな……」
などと、余裕綽々といった様子でいう。汗一つかいていない。雪久の方は口を開け、肩で呼吸している。
「うるせえよ、さっきから」
それでも退くことを知らない。
雪久の拳とレイチェルの掌が交わった。触れ合う瞬間、雪久の剛の拳にレイチェルの腕がふわりとかぶさった。
雪久の右手を弾き、腕を差し入れ雪久の右肘を封じた。
手の先が、螺旋を描く。雪久の腕に、蔓のように巻きつく。
やがてレイチェルは腕を折りたたみ、肘を突き出した。肘打ち、というより体当たりに近い。
肘の先端が胸に刺さる。体を折って雪久は後退した。
「終わりか?」
唇がほころぶ。レイチェルはどこか、楽しんでいるようにも見えた。
「息があがっているぞ雪久。どうも、鍛え方が足りないようだな」
「黙れ、ビッチ」
「だから、あれほど研鑽は積むようにいっただろう。なんなら、もう一度稽古を――」
「黙れっていってんだ」
ヤケクソ気味に拳を振り上げた。拳頭が触れるか触れないかのタイミングで、レイチェルは体を開いた。
拳が空を切る。雪久は前のめりになった。
レイチェルは体をぴったりとつけ、雪久の肩を押した。軽く、添える程度に。雪久が
「体を崩した方向」に向かって。
レイチェルが踏み込むと、ヒールがかつりと鳴った。
その瞬間、まるで1トントラックにぶつかったかのように、雪久の体が吹き飛んだ。足が完全に地面を離れ、空中に放り投げられ、省吾の目の前まで飛んできた。
地面に、左耳をきっちり下にして叩きつけられる。肩がすれ、血が滲んだ。
「雪久!」
と彰が呼びかけるが、雪久は気絶しているようだった。ぴくりとも、動かない。
「彰」
レイチェルが、声をかけた。
「そいつを《南辺》に持ち帰れ。そして、二度とここには足を踏み入れるな」
「……許してくれるとでも?」
彰がいった。声が、上ずっている。
レイチェルは顔色ひとつ変えず、頬についた血を拭った。
「二度目はないぞ、いいな」
レイチェルは黒服たちに、銃を下ろすように命じた。ここでようやく、銃口から放たれる圧力から解放された。
安堵感からか、ユジンが膝から崩れ落ちた。
「おい、大丈夫か」
省吾が手を差し伸べてやる。歯を、震わせていた。数十門もの銃口に狙われていたのだ、その緊張感は並大抵ではないはず。そういう場数を、ユジンは踏んでいなかったと見える。少なくとも――機械兵に追い立てられる以上の修羅場は。省吾と違って。
「大丈夫よ」
とユジンがいった。差し出した手に、案外素直にすがりついて立ち上がる。まだ膝が震えていたが。
それにしても――足元に転がる雪久と、数歩先のレイチェルを見比べる。雪久の体は華奢なほうだが、さりとてレイチェルが特別体が充実しているわけではない。体重ならば、若干だが雪久の方が勝るであろう。
(それが、ここまで飛ばすなんて。あの)
じっと観察していると、レイチェルと目があってしまった。
刺すような視線が、向いてくる。省吾は目をそらさない。瞬きもせず。水銀を湛えた瞳が、省吾を見つめていた。
「本当なら」
レイチェルが視線をそらした。
「この場で射殺するのが普通だ」
「ええ、感謝しますよ。レイチェルさん」
彰が慇懃な態度でいった。皮肉たっぷりに
「ここじゃ、我々の生殺与奪は貴女が握っているわけだ。まさに神にも等しい。ただし、《西辺》限定でね」
「口の減らない」
レイチェルがわずかに微笑んだ、ようにも見えた。
「それに、今夜はゲストが多い。お前たちばかりに構ってもいられない」
そういって、レイチェルが振り返る。視線の先には、金の姿。