第八章:18
振りかぶった拳は、わずかの差で届かない。拳頭に金の髪が触れた。
「んなヘナチョコじゃあよ、当たらんよ」
金の太い脚が、唸る。股関節から動き出し、膝を鞭のように柔らかく。大振りかつ鋭い金の蹴りは、一陣の風を伴って猛威を振るう。死神の鎌にも似た一撃必倒の回し蹴りが、雪久の顔面を刈る。
体を仰け反らせ、やり過ごす。反らした勢いのまま、金の顎を蹴り上げた。金は、雪久の蹴り足を左手で掴んだ。
「惜しいな小僧」
足首を鷲掴み、雪久を投げ飛ばす。壁に叩きつけられた。
間髪入れず金、左中段蹴り。しゃがみこんで雪久は避けた。
二撃目、蹴り足を戻さず、天空に振り上げて踵落としに変化。雪久、これを両腕で受け止めた。
両腕に圧力。衝撃が足元に伝播し、膝が折れる。雪久は抱きつくように、金の左足を、いまブロックした蹴り足をとった。
片足を掴まれた、不安定な状態。それでも金は笑っている。
「んで、どうすんだ?」
不適な笑みを浮かべる面に、頭突きをかます。金の鼻が潰れた。もう一度。雪久の白銀の髪が、赤く染まった。
「らっ!」
足を払い、押し倒す。
金は地面に仰向けに倒れる。すぐに手をつき、倒立姿勢になった。逆立ちのまま、雪久の顔面を蹴った。
『千里眼』は軌道を読んでいた。顔を背けると、蹴りは空気を裂く。摩擦熱で、肌が焼けた。
再び立ち上がる金。今度は左蹴り。その動きも予測済みだ。
金が蹴りこむより先に、壁に足をかけて跳躍。上空、金の蹴りよりさらに高くに身を躍らせた。
滞空時間が長い。空中で止まっているかのよう。金が少し、驚いた顔をしている。
回転の力を利用し、渾身の蹴り。雪久の靴裏が金の顔面を捉えた。倒れこそしなかったが、金の巨体は大きく傾いた。
――次で決める。
着地と同時に、雪久は走った。走りながら右拳を突き出す。金の顔面めがけて。
金の肉体――わき腹の、前鋸筋が動いた。深層筋肉である前鋸筋が“動いた”とわかるのは、『千里眼』のX−RAYのせいだ。ここはボクサー筋と呼ばれ、突きを放つ際に使われる。武の心得はないが、雪久は経験で知っていた。
まずい。
次に上腕と胸筋が反応、金の右拳が突き出される。一連の動作は、スローモーションのように感じられた。
避けなければ――そう念じた瞬間、頬に圧力がかかった。
ご、っと骨同士が当たる音。雪久の顔が弾き飛ばされ、体が吹き飛ばされた。
雪久の体は車のボンネットに叩きつけられていた。フロンガラスが四散、首筋から背中にかけて、ささくれる痛み。
「その眼、便利だけど」
金はコキコキと首を鳴らしながら近づいてくる。雪久は脳を揺さぶられ、意識が半ば飛んでいる。
「ってえ……」
顔をもたげると、目の前に金の顔があった。
「しかし、残念なことに体がついていってないな。そして肉体でなら俺の方が強い」
雪久の胸倉を掴み、拳を振り上げた。
「この場で引導、渡してやるよ」
「うっせえ、カマ野郎。俺がこの“眼”だけしか取り柄がないとでも?」
雪久がいった、直後だった。
金の顔に唾を吐きかけたのだ。
顔、というより目を狙ったといった方が良い。唾には血液と、そして折れた歯が含まれていた。それが目潰しの効果を生んだ。
「あ、あああっ。くそっ」
金が仰け反った。チャンス到来。
雪久は車のワイパーを掴み、無理やり引きちぎった。先端部分を、金の顔に斬りつける。金の頬に血が滲んだ。
「武器はどうだ」
たまらず金は後退。ワイパーは刀のように走る。下がる金に、無茶苦茶に叩きつけた。振り下ろされるたび、ビュッ、と風を切る。
叩かれた箇所の服が裂け、皮膚が切れて血が噴出す。雪久はワイパーを突き出した。
首筋を、わずかに抉る。金は大きく、間合いをとった。両者走り、互いに仕掛ける。
虚空に二つ、弧を描く。
雪久はワイパーを長く持った。尖った方で切りつけると、それは鋭利な刃物になる。金が首をそらすと、頭髪が弾け飛ぶ。次に手首を返し、突く。同時に金が前に出た。
先端が皮膚を切る。半身に切って切っ先をそらす金。そして蹴り。
つま先が、雪久の胸に埋まった。肋骨がたわみ、内臓に圧迫。白目を剥いた。
すかさずワイパーを逆手に持ちかえる。そして、金の足首に突き立てた。
苦痛と驚句にうめく声。引き抜くと、血潮が筋となって宙に舞う。また、距離をとった。アスファルトに赤い雫が垂れ伝う。
「狂犬……が」
肩で喘ぎながら、呟いた。
『千里眼』は、傷の深さも見通せる。刺し傷は、骨まで達していた。それをかばうように、金はもう一方の足に重心をかけて立っている。雪久はワイパーを振りかぶり、身を低くした。
獲物を前に、狩りの姿勢に入った獣のごとく。
飛び出す。同時に、ワイパーをブーメランのように放り投げた。照準は金の顔面だ。
それを金は、
「かっ」
手で弾き飛ばした。
それは、囮に過ぎなかった。
四本足の肉食獣が、水牛に飛びかるかのように。地を這うような低空タックル。金の脚――重心をかけている方にぶち当たる。全体重を、ぶつけた。
ずっ、っと金の体が後ずさる。雪久、両腕で脚を抱え込み、持ち上げる。金の上体が、崩れる。
ついに、地面に、仰向けに倒れた。
「うらぁ!」
ワイパーを拾い上げ、倒れた金の体の上に飛び乗る雪久。馬乗りになり、さらに無茶苦茶に殴りつける。金の頬が、腫れ上がった。
そして――止めとばかりにワイパーを振りかぶった。逆手に持った、切っ先の下に金の喉がある。
一気に、突き下ろした。
「お前の負けだ、『千里眼』」
白い光芒が、折り重なる二つの人物に刺さった。
さらに複数、前後から光の帯が雪久と金を照らし出す。影が、いくつも地面に映えた。
「な、何?」
幾重にも映える、濃淡入り混じる影。狼狽する雪久を突き飛ばし、金が立ち上がった。不適に、笑っている。雪久も腰を上げたものの、強すぎる光が戦意を削ぐ。金は、手を出すでもなく、そのまま突っ立っていた。
彰に駆け寄った省吾、ユジンもまずその眩しさに目がくらみ、立ちすくんだ。
「くぅ……」
世界が反転したような心地がした。黒一辺倒の闇が、いまは昼間のように照らされて明るい。自分の影が長く伸び、
光の正体は、車のハイビームだ。いつの間にか、黒い高級車の群が二人を、正確には倒れている彰やヒューイたちを取り囲んでいた。
「なんだよ、これは」
「終わりだ……」
彰がうめくのを聞いた。省吾は彰に肩を貸してやった。
「何が終わりって?」
省吾が訊く。彰は答えず、またいった。
「あの人が」
そのとき、車のドアが開く音がした。省吾が目を細めて見ると、車の一台から一人、降り立つのを確認した。
(女……?)
逆光に照らされたシルエットは、男のものではない。肩から腰にかけての曲線は、なだらかだ。足音から、ヒールを履いているのがわかる。しかし、その身のこなしは常人のものとは違う。膝を使い、腰から上を全く揺らすことなく、歩いている。
その女は、カツカツとわざと足音を立てるように、雪久のもとに歩いていった。
「何……?」
ようやく、目が慣れた。
黒いスーツの女、黒髪をショートカットに切りそろえてある。
その佇まい、息を飲んだ。
高い鼻とシャープな輪郭、キッとつり上がった眦。それはナイフのように鋭く、完璧に作りこまれた石膏像のようなはっきりとした顔立ち。唇は、固く結ばれている。
長い手足、すっと伸びた背筋と柳の腰。スーツの上からでも、際立っている。線が細く、無駄な肉がない均整のとれた体つき。女は傲然と胸をそらし、意志の強そうな目で膝を突く雪久を見下ろしている。
瞳は深く、澄んだ宙。肌は、照らされるライトの効果もあるのだろうか、一点の曇りもなく、白い。
高貴、なおかつ妖艶。脆さと強靭さが、渾然一体となっている。そんな印象を受けた。
「遅かったか、チクショウ」
隣で彰がうめいた。
「何モンだ、あの女」
隣では、ユジンが表情を強張らせているのが見て取れた。顔面は蒼白で、目に怯えの色が浮かんでいる。
「ヒューイ・ブラッド、奴を手中にすることが出来ればまだ対等の立場になれた。だがそれより前に、あの人と対することになるなんて。よりによって……」
彰は顔を歪めた。それは苦痛のせいか、それともあの女を恐れているのか。
「いきなり、『黄龍』の頭と、だなんて」
――『黄龍』の頭は女だ。
金の言葉が、頭をよぎる。《西辺》に来た目的、それを思い出す。
あいつが、あの女が……
「レイチェル・リー」
彰がいった。
「あの人の名、だ」
次回まで、10日ほど開きます。ごめんなさい。