第八章:17
眼下に、大小のビルが林立している。
巨大なネオンの看板が、ビルというビルにかかっている。男を誘う歓楽の灯、原色の光が宵闇に滲む。毒々しくも、艶やかな《西辺》の街並み。
ガラス越しに女が一人、灰色のビル群を見下ろしていた。
女のいる部屋は豪奢そのものだった。年代ものの骨董品、武具が壁際に配置され、清代の書家が書いた屏風が飾られている。一番奥には、巨大なマホガニーのデスクが鎮座している。女は、そのデスクに寄りかかりながら、ぼうっと下界を眺めていた。
足元が埋りそうな絨毯に跪き、男は先ほど入った連絡を目の前の女に伝える。憂うような瞳で睥睨し、淡々と告げる声に一言「そうか」といった。
「つまりこういうことだな。私の庭を勝手に荒らしまわっているクソガキどもがいても、庭師はそれを収められない、どうしようもない無能男であることが計らずも証明された、と」
女は長いキセルの端に、そっと口をつける。ため息とともに、煙を吐き出した。卓上に座り、呆れたようにいった。
「どいつもこいつも」
女はほそっりとした体を黒いスーツに身を包み、胸元を開けている。デスクに座ったまま足を組みかえると、下着が見えそうになる。男はやや視線をそらしながらいった。
「そのいい方ですと、ミスタ・ブラッドの方をより責めているようですが?」
野太い声が響いた。巨大な山のような体が、跪いている。声の主は、厳つい髭面をさらに険しくした。
「責めているわけじゃないさ、鉄鬼。ただ組織として強固なものにするのであれば、責任の所在は明らかにしなければな」
「ブラッド氏を、左遷するのですか」
鉄鬼は、灰皿を差し出した。女が灰皿のふちをキセルで叩くと、吸殻が落ちた。
「ま、それも視野に入れて……それよりもガキどもだ。まったく、北の方もうるさくなってきたというのに余計な問題を。『牙』といい、奴といい……手がかかるな」
頭が痛いことだ、などと呟いて女は立ち上がった。
「仕方ない、ガキには灸を据えてやらねばな。車を回せ」
いって、茶色のロングコートを羽織る。
奪った拳銃で、ガラスを撃つ。二度、三度撃ってようやく割れた。
「いいぞ、ユジン」
省吾が手招きしたが、
「なんでこんなとこから逃げるのよ……」
ユジンがこぼした。
入り口には、男性用を示す絵が掲げられている。省吾は「脱出口がある」と誘ったが、行き着いた先はクラブのトイレだった。
「ここ、男子用……」
「だな」
省吾はまるで意に介しない。さもありなん、といった様子で答える。
「別に不足はねえだろ、逃げられりゃ。入り口は黒服どもが固めてんだから」
「それ、本気でいってんの」
ホールドオープンした銃で、残ったガラスをうち砕くとそれも投げ捨てた。窓の縁に足をかけ、後は飛び降りるだけという段にある。外を確認しつつ「早くしろ」という。
額に手をやりながら、嘆声をもらした。
「もうちょっと、あなたデリカシーってものをね……これでも、私は女なんだから」
横目で、右の壁に並んだ小便器の列を見やる。欠けたセラミックの便器はところどころ黄ばんですらいた。
「なにか不満か?」
「そりゃあそうでしょうよ。そこの個室でナニがされていたか、私だって想像つくわよ……」
「なーにいってんだか、まさか生娘じゃあるめえよ」
そういうのに、ユジンは耳まで真っ赤になりながら叫んだ。
「あ、あのねぇ! そういうことを、平然と口にするんじゃないわよっ。訴えるわよ!」
「誰にだよ、ったく……死にてえんならそこにいろ。まあ、ここもすぐに見つかるけどな」
背後で銃声がした。ユジンの体が、硬直する。
「ぐずぐずしてっと、追いつかれる」
マシンガンの連射音が聞こえる。
「急げよ」といって、省吾は窓の外に消える。ユジンも割れた窓に足をかけ、外に飛び出した。
アスファルトの上に着地し、一言いった。
「帰ったら、さっきのセクハラ発言について言及させてもらうわよ」
「そいつは無理だな。あんたとは偶にしか会わないし」
スライドがホールドオープンになった銃を、投げ捨てた。
「仲間になれば、毎日だって会うでしょ」
「お前、まだそんなこと」
「何度でもいってやるわよ」
警棒を構えなおし、ユジンは身を低くした。あいている左手で、手招きする。
「チームのためだもん、あなたには戦力になってもらう」
「……ああそうかい」
嘆息して首を振り、ユジンの後を追った。
「私が陽動になってね」
路地裏に身を潜めながら、ユジンがいった。
「なんと?」
「今日のこれは、幹部の一人を拉致することにある。照明を落とし、下の階を私がかき回し、その隙に雪久が拿捕。彰が事前にここの構造を調べ、絵を書いた」
クラブの外では、男たちの怒号が飛び交っている。『黄龍』の、兵隊だろうか。おそらく省吾とユジンを探している。
火の手が建物の後ろからあがっている。かすかに、肉の焦げる臭いさえした。
「お前一人で? 陽動をしたというのか?」
普通、そういった工作はもっと大人数で――少なくとも一人でするものではないと思っていたが。
「そんなことを……たった一人で」
失敗していたらどうなっていたというのだろう。うまくクラブの外には抜け出せたものの、この後も一人で逃げなければならない。
「雪久がやれといったのか」
「この作戦は、極秘だからって」
「だからって、なんで一人でやらすんだよ!」
通りの男が振り返った。慌てて口を手でふさぐ。黒服の男はすぐに別方向を向いた。
「大声出さないでよ。見つかっちゃうじゃない」
ユジンが小声でとがめるのに、省吾はすまん、と小さく謝った。
「でも、他にも人はいるだろうが。一人でやらすことはないはず。しかも逃げるのも勝手に逃げろって……そいつは無責任すぎやしねえか」
「そう? でもまあ、逃げ足は速いほうだから私」
「そういう問題じゃ……」
いいかけてから、つといいようのない違和感を感じた。
省吾は、アスファルトに“影”が落ちている――
夜だから、“影”など出来るわけはない。しかしたしかにあった。人のものとも獣のものともわからない、なにか蠢くものが地面に。上を見上げた。
“Xanadu”の屋上に、今度ははっきりと人型の影が動いた。小柄な像、すぐにそれは見えなくなった。
なんだあれ……?
「省吾? どうしたの」
ユジンが問うのに、省吾はなんでもないといって向き直った。同時に今見た像のことは、意識の中から消えた。
「この先の下水道から逃げる算段になっているわ。省吾、あなたもそこから逃げたほうがいい」
ユジンはすばやく、しかし慎重に路地裏を駆けていく。省吾も後に続いた。
いきなり、前を行くユジンが立ち止まった。省吾はユジンの背中にぶつかった。
「おい、なにしてんだ――」
「なんで」
ユジンは宙の一点を見つめたまま、固まっている。顔から血の気が引いて、蒼白になっている。
「なんで、まだいるのよ……雪久」
「は?」
省吾は、ユジンの背中越しに覗きこむ。その光景に、省吾もまた固まってしまう。もちろん、ユジンとは別の意味で。
雪久が、誰かと激しく殴り合っている。足元に、彰や黄が血まみれになって倒れていた。雪久と対しているのは、大柄な男。その顔に、見覚えがあった。
「金……?」
そこには、省吾をこの《西辺》へと導いた男の姿があった。