第八章:16
打ち破った壁を抜け、天井裏を這うように進んでようやく非常階段に至った。
「確かに、退路を確保しろとはいったけど」
頭から被った埃を払いながら、雪久はぼやいた。
「なんでこんな通りにくいところを」
「最短ルートだけどね」
電動ドリルを、電源入れっぱなしで回転させたヨシが笑った。
「この会談を降りれば、彰たちが待っているという寸法さ」
ヨシは非常口を開き、先に行くよと声をかけて錆びた階段を下りていく。下りきったあとは、闇に隠れて見えなくなった。
背後からの黒煙が、雪久をせきたてているかのよう。火の手も迫っている。あのバカ、火薬の量間違えやがったな。ヒューイを引っ張りながら、ヨシの後を追う。
「……お前たち、こんなことしてなんになる」
黙っていたヒューイが口を開いた。
「こんなことで、俺たちを出し抜いたつもりだろうがな、『黄龍』を甘く見るなよ。ボスが一声かければ、《西辺》中が動く。《南辺》とは違う……」
「うるさいよ、いいから歩け」
雪久がせっついた。目が、据わっている。
「てめえもどうせ、姉御に頭が上がらねえんだろうが。万年二番手がよ」
ヒューイの首を掴み、腕をとって怒鳴った。
「な、なんだと……」
「姉御のことだ、あんたを見捨てることはしねえだろうよ。あのババア、そういうところが意外と甘いからな。あんたが俺らの手中にある限りは、姉御も手出しはしない。必ず、取引に応じるはずさ。必ずな」
非常階段を下りると、クラブの裏口に出る。ペンチであちこち切られたようになっているフェンスを潜り抜けると、彰がまわしたであろうジープ――ハマーH3が停まっているのが目に止まった。
だが、肝心の彰の姿がない。
「彰?」
呼んでも返事がない。どこに消えたのか。ヒューイを連れてきたら、すぐに脱出する算段だったのに。もう一度、呼んでみる。
「あーきーらくーん。どこだー?」
ふいに、物音がした。どさり、と砂袋を投げ入れたときと同じ音。ヨシの声が、聞こえたようにも思えた。
「ヨシ? どうした」
不審に思って、車の裏側に回る。
何か固いものを踏みつぶした感触。乾いた音を立てて割れたそれは、眼鏡のフレームだった。
なにか蠢いている。目を凝らして見た。
「彰?」
まず、足元に彰が横たわっていた。その後ろに、リーシェンと黄が折り重なって倒れている。その奥、後ろ向きになって誰か立っていた。
紺色のパーカーを羽織った、大柄な男。背中にはアルファベットで『STINGER』の文字が刻まれている。男は、ぐったりとなっているヨシの首根っこを掴んでいた。
「雪久、やばい……逃げろ」
彰がうめきながらいった。雪久はしゃがみこみ、彰を抱きかかえる。レンズの破片が額に刺さっていた。
「なにがあったんだ、彰」
彰が何かをいおうと、口を開いた。だがそれより先に、大柄の男の方が話しかけてきた。
「和馬雪久」
街灯に照らされた顔。アジア系のようだ。無精髭の、やる気を感じさせない緩んだ口元、垂れた目じり。
「貴様がやったのか」
そう訊くと、男はちょっと小首を傾げて
「張り合いがなさ過ぎて、ウォーミングアップにもならなかったがな」
などといった。
皮膚が、粟立つ。血が逆流し、心臓が締め付けられる。筋肉がうねるのがわかった。
(こいつ――)
男はぬらりとした足取りで雪久に近づいてきた。つま先に重心かけ、腰をすえた姿勢。やたら威勢のいいチンピラと違い、両肩が落ちている。つまりなで肩。肩をいからせて虚勢をはる、かませ犬共とは別の空気をまとっている。
「結構いいセンいってるぜ、お前の策。いきなり龍の懐に飛び込んで、No.2を攫うなんざ、クソ度胸がなきゃできねえし。だけど、どんなにいい作戦でも事前に情報が漏れちゃ意味がねえ」
男は喉を鳴らすように笑った。笑いながら、ヨシの頭をつま先で小突く。雪久の左眼が、再び紅く光りだした。
情報が漏れたら、だと。雪久は立ち上がり、拳を握った。
「知っていたというのか?」
「なんつったっけ、お前んとこの赤髪の……まあいいや」
赤髪、燕か。雪久の拳が自然に戦慄く。あのくそ野郎、情報を売りやがったな――歯軋りする雪久を見上げながら、彰がいった。
「雪久……ここはいいから行け……。早くしないと、本部の連中が」
「どのみち奴は、俺たちを無事に帰す気はないらしいが?」
男の体から溢れる殺気を感知し、足を広げて、構えを取った。
「ヒューイのおっさん、ちょいと待ってな。こいつを地獄に送ってから、相手してやっからよ」
左拳を前に、突き出す。男はハンドポケットのまま、近づいた。
「ほほう、やる気だな。いいぞ、少年」
などと男がからかう。
雪久の左眼が、男の“体内”を走査する。『千里眼』の対人格闘モード、X−RAYで体つきを解析する。
骨格が異常に発達している。体の表より、裏側の筋肉。常人が鍛えにくい深層筋肉、大腰筋、内転筋の発達具合が伺える。
脈動する、巨大な筋肉。
(これだけの筋肉量。パワータイプか)
ならば、こちらはスピードで勝負するよりない。右足にためた力を放出、ステップを踏む。
だが。それは誤算。
ふいに、男の姿が消えた。
「は?」
今度は雪久の眼前に、靴裏が迫ってきた。鼻っ柱を、砂鉄入りのグローブで殴られたような衝撃が襲う。衝撃は脳を揺らし、首の骨を軋ませるにほどだった。
思わずのけぞった、雪久の目に夜空が写る。それを背景に、今度はスニーカーの踵部分が見えた。
『千里眼』発動。脚の軌道を読む。踵落とし、このままでは鉄槌が雪久の顔面を砕く。
しかし、この体勢では避けられない。
振り下ろされる。両腕で顔をカバー。細い体は、簡単に地面に叩きつけられた。
「ごあっ、はっ」
背中を、いや全身を強く打ちつけられる。体中を蟻千匹が這いずり回っているような、痺れが皮膚を駆ける。脳髄が強く揺り動かされたためか、像がぼやけて見えた。
「どうしたよ、坊や。終わりか?」
男が雪久を覗きこんでいる。雪久、飛び起きると同時に男に右回し蹴りを打った。男はスウェーバックで難なく避ける。舌打ちしながら、間合いをとった。
先ほど男が立っていた距離から、実に7,8メートルは離れている。あんな距離から、一足飛びで間を詰め、そして……雪久を蹴り飛ばしたというのか。
(パワータイプではない)
いや、力で押すタイプであるが、身のこなしは軽い。発達した筋肉は鎧となるが、それが枷になる。だがこの男、その筋肉によって動きが鈍重になることはない。
「いやな奴」
ようやく頭がはっきりして来た。ぼやけていた像が、かっちりと、収まった。
男が手招きしている。
「なろっ!」
走りながら、右の前蹴り。男はそれを右手一本で防いだ。
もう一回。左足で、跳躍。身をひねって軸足を蹴り足に、回し蹴りに変化させた。すなわち蹴りの二連撃。これは予想していなかったのか、男の顔にまともに入った。
よろけた隙を、見逃さない。渾身の右拳を、男の腹に打つ。男は半身になって避ける、その反動を利用して回し蹴りを打つ。
その蹴りは空を切っていた。雪久は地を這うように伏せ、左足で男の軸足を刈った。
それもまた空振り。
男は跳躍し、難を逃れた。雪久が立ち上がると、男はすぐ脇に降り立った。右中段蹴りが、雪久のわき腹を狙う。『千里眼』でその動きを読んでいた雪久は、すぐに後ろに下がった。
追い打ちの左上段。蹴った勢いを利用した、後ろ回し蹴りだ。さらに右、左と回転しながら蹴る。休む暇を与えない。最後は避けきれず、右肘で防御。骨が軋んだ。
「逃げんなよ、チョッパリ」
追撃。前蹴りが襲う。大きく退くと、顎先にあたった。
逃げる雪久。背中に、壁。追い詰められた。とどめとばかりに、男が横蹴りを放ってきた。
横に飛ぶ。男の蹴りは、レンガの壁を砕いた。雪久は転がりながら、レンガの欠片を拾い上げる。それを男に投げた。男は、まさかそんな攻撃がくるとは思っていなかったのだろう。顔を、背けてしまった。
すかさず、頭を低くし、遮二無二男の胴に体当たりを繰り出した。雪久と男は、もつれ合うように倒れた。
男に馬乗りになろうとするが、首をつかまれ、雪久は投げ飛ばされてしまった。
「ほ、やるねえなかなか」
埃を払いながら、男は立ち上がった。雪久が蹴った頬に、痣が出来ている。
そう痣、たったそれだけだ。
一方の雪久は――最初の一撃ですでにダメージを負っていた。『千里眼』で観たとはいえ、読み間違いが仇となった。
「機械の目も、万能じゃねえんだな」
けらけらと、男は笑った。
「蛇の大将、このまま名も知らぬ男に殺られるのも心苦しいだろう」
「別に……」
興奮する心を鎮めるべく、深く息を吐いた。腕が、上がらない。
「金、それが俺の名。お前を葬るものの名だ」
金の顔には余裕が伺える。右半身に構えた。
車も人質も奴の後ろ。少し、いやかなり手間取るだろうな――何て夜だよまったく。ひとりごち、雪久もまた構える。
金が向かってくる。雪久は息を吸い込み、下腹部に力を溜めた。
「雪久、時間が、ない……」
後ろの方で、彰がうめいた。
「五分、あと五分だ……早くしないと……奴らが来る」




