第八章:13
レンガの壁が、つづいている。アメリカ製の車が、その壁つたいに縦列駐車されていた。
壁の向かい側には、フェンス。ステンレスが格子状の境界をつくり、上には有刺鉄線が張られていて乗り越えることはできない。その向こうが、“Xanadu”。ヨシはそっとフェンスに手をかけ、ビリジアン・ブルーの目で格子の中を覗いた。
やがてクラブの裏口が開かれ、ヒスパニック系の、縮れ毛の男が出てきた。顔を隠すよう、ヨシは帽子を――浅葱色の作業帽、架空の会社名が記されている――目深に被る。
『毎度です』
典型的なジャパニーズイングリッシュの前に、男は一瞬合点がいかぬような顔をした。
『みねえ面だな、新入りか?』
『いつもの奴が、今朝方腹壊しちまいましてね。いまも、ケツから止まらないみたいでさあ』
なるべく、下品に荒々しく。口調に少しでも、気負ったところをにじませてはいけない。気取られる。今はただの作業員1、だ。
『ふうん、しかし別に悪いとこなんざねえぞ?』
『定期点検ってやつでさあ、旦那』
まだ怪しんでいる。思わず生唾を飲み込んだ。ごくり、という音が男に聞こえたかもしれない。
頼むぜ、だまされてくれよ――祈る心地だった。ここに入れるか否かで、今日がうまくいくか決まる。
出来なければ、末路は想像するだけ無駄だろう。この場で頭を吹き飛ばされるか、ミスをとがめられて雪久にしこたま殴られるか。殴られるだけならまだいい。あの男は歯止めが効かないから。何をされるか。だから男が
『ふん、まあいいだろう』
といったときには心底ほっとした。が、安堵したことで顔が緩んでは困る。『すいやせんねえ』とかいいながら、すばやく男の前を素通りした。
とりあえず、条件は一つ達成、である。
「ちょろいもんだな」と黄がいうのを、ヨシは視線だけで黙らせた。
「あまり騒ぐんじゃない。ここは敵の群れのど真ん中だぞっ」
小声で、ぴしゃりという。
他のスタッフに見つからないよう、脚立で天井によじ登る。押し上げると、天井の板は簡単に外れた。
天井裏にもぐりこむ。電気系統の配線が、神経か血管のように絡み合っている。赤や黒のコードが折り重なる。
ヨシは手を伸ばした。直下にいるリーシェンに向かって。
「しかし、こんなものを作るなんて。彰、なに考えているでしょうかね」
リーシェンはボストンバックの口をあけた。
鉄の円筒――長さは50cmほどで、鉄パイプを短く切ったものである。両の切り口は詰め物で密閉されている。パイプは水道管の一部であったり、太い配管だったりいろいろ。
「さあな。でも、実際すげえよ彰は。ありあわせのもので、こういうのをちゃっちゃと作っちまうんだから」
そういって黄は、バッグの中のそれをヨシに手渡してやった。全部で3つ。それが終わると、自身が背負ってきたデイバッグから同様のパイプを取り出した。
「こっちは下だ、リーシェン。とりつけろ」
リーシェンはそれを、配電盤の横にガムテープで固定する。
「彰、こんなのどこで覚えたんでしょう?」
ふと、リーシェンがいったのに黄が訊き返す。
「何だ?」
「ワタシと同じようにここに流れた、彰。難民、こういうの作るの慣れてないそれが普通ね」
難民であるのに、あれだけの科学知識や技術力はおかしい。リーシェンがいうのに、黄は「もっともだ」というとともに付け加えた。
「しかしまあ、いいじゃんかそんなことは。あいつのおかげで俺たちゃ、数の不利を埋められるんだから。結果オーライだって」
「はあ……そういうものですか」
最後のパイプを、取り付ける。これで完了だ。
「黄、リーシェン」
天井裏から這い出してきたヨシがいった。埃を頭からかぶっている。
「二人はそのまま出て行ってくれ。手はずどおり、裏手に車を回すんだ」
「へ? 二人って?」
「俺っちはまだやることがある」
そういうと工具箱から――電動のドリルを取り出した。
そろそろ飽きてきた。目の前で走る鞭と、うねる肢体を眺めながらユジンは飲みかけのコークの瓶を指で弾く。照明がガラスに反射して、ユジンの顔が歪んで映りこんでいる。
二階のテラス席は、スモークガラスに覆われて見えない。あの中に、雪久と彰がいるのだろう。何を話しているかわからないが、自分に下された命は「待機」だ。何を話していようと、何が進行していようと。ただ、待機。合図があるまでは。
(ま、別にいいけどさ……)
コークの瓶を、テーブルの向こうに押しやった。体温とフロアの熱で、すぐにぬるまってしまう。押しやった格好のまま、テーブルにつっぷした。ステンレスの卓上に頬を押し当てると、鉄の冷たさが身にしみる。異常なまでに火照った体から、熱を奪ってくれる。
しばらくこのままにしてよう……そう思ったものの、どうもここの連中は話好きが多いのか。頭上から声が降ってきた。
「一人かい? 姉ちゃん」
顔を上げると、目の前に青いバンダナの白人男がいた。ウッドランドのタンクトップから覗く、筋肉質な腕には蛇のタトゥーが彫られている。男は断りもなく、ユジンの真向かいに座った。
露骨に迷惑そうな顔をするユジンに、男はかまわず喋る。
「こんなところに、チャイニーズの女がいるたあな。ここで客とってんのかよ?」
客、ときた。ユジンのことを、売女であると思っている。
「私はそういんじゃないんだけど」
「へえ? じゃあ男と一緒か?」
「一緒といえば、一緒かも……」
男がいうのを、すべて上の空で返す。男はというと、顔を近づけていきなりユジンの肩を掴んだ。
「いいもんがあるんぜ? ちっと抜けねえか。ここなら……」
そういって、二階のテラス席を指差す。
「あそこがいいだろう」
さらに声を潜めて「質は保証するぜ」といった。
「なにを期待しているのかわからないけど」
ユジンは男の手をやんわりと払いのけた。
「火遊びしたいなら、ここで堂々とすればいいのに。かわいそうな子、隠れてやらないとママにしかられちゃうのよね。スモークガラスの向こうじゃなきゃハイになれないんだったら、どこでやっても同じよ」
「は、な……」
「それと、クスリをキめなきゃ犯れないチキン坊やってことはよくわかったけど、あんまり吸引り過ぎるとあっちの方も勃起たなくなるわよ。ほどほどにしな」
いちいち図星だったのか、言い返すことなく男は固まってしまった。
「馬ぁ鹿」
そういうと、ユジンは席を立つ。そこでやっと、男は自分が馬鹿にされていることに気がついたのだ。
警告なしだ。背を向けたユジンを、羽交い絞めにする。だが両腕が細い体を抱え込む刹那、ユジンの肘が顎に直撃した。それがカウンター気味に入り、脳髄を揺らす。全く声を上げることなく、男は倒れこんでしまった。
「考えることがバレバレ。あと、青って嫌いなのよね私」
だらしなく床に転がる白人男を、蹴飛ばしてみる。なんだか、むなしさが込み上げてきた。
なにをしているんだろう――普段なら、ここまでイラつくこともないだろうに。この間、彰に言われた。『少し変だ』と。そんなことはない、といったのだがどうもそうではないみたいだ。まるで自分の意識と体がバラバラに機能しているような居心地の悪さをずっと抱えている。
(やっぱ、あの娘が来てからかな)
雪久はいつもあの娘――宮元舞を見ている。本人は意識しているのか否かわからないが。
舞に向ける視線が、自分に向くそれとは違うことを、ユジンは悟っていた。昔の仲間、ということだけでは説明がつかない。何か、特別なもの。今日のことだって、あの娘一人のために《西辺》最大勢力に噛み付こうとしている。舞一人のために。
そんなこと、わかりきっていた。なのになぜ自分は、ここにいる?
嫌われたくないから、なのだろうか。自分の意思をまげてまで、まだ雪久に好かれようとしているの? 雪久の気持ちは、とっくに……。
「いてえな、姉ちゃんよ」
どすの効いた声が、腕の圧迫とともに現れた。振り向くと先ほどの男が立ち上がり、両腕を鷲掴みにしている。
「あ、あらあ。気がついたの?」
振り向くと、屈辱に燃える男の顔が迫る。鼻が潰れていた。
「こ、の……てめえはなんだ、ジャングルから来たのかよ。ああ? それともトラキアの奥地から来たのかコンチキショウ」
「微妙に古いわね、それ」
「だまれくそ女」
今度は早かった。太い腕を首に絡ませ、あっというまにユジンの行動を抑えてしまった。
「っ……!」
喉を圧迫され、空気が押し出される。声をあげようとすると、もう一方の手で口をふさぐ。生臭さが、鼻をついた。必死に抜け出そうともがいたが、男の力は緩む気配はない。
周りの人間が、囃し立てていた。他の男は、口笛を鳴らし、女は笑っている。パーティーの余興か何か、とでも思ってるかのように皆、高みの見物を決め込んでいる。
「来いよ」
男が耳打ちした。吐息が耳たぶに吹きかけられる。背中がささくれ立つのを、感じた。
「来いよ、チャイニーズ。お仕置きだ」
半ば引きずるように、男は二階席へ向かう。あそこには雪久がいるはずだ。
いやだ、こんな姿見られたくない――!
手足をばたつかせて、拘束を解こうと抵抗した。今の姿、こんな失態を雪久が見たらなんというだろう。作戦前に、余計な騒ぎを起こしてつかまるなんて。きっと雪久は許してくれない。冷たく見下ろして、こういうのだ「使えない奴」と。そんなのはだめだ。いまの私にとって、雪久に認められる唯一の手段。信用なのに。それがなくなったら私は――!
「あんだよ、そういえば男がいるっつったな。まあ気にすんな。すぐに俺のがなきゃ生きていけねえ体に――」
鈍い音が響いた。それとともに、唐突に開放され、ユジンは床に放り投げられるような形になった。
うつぶせに倒れこむ。なにがあったのか、先ほどまで自分を拘束していた男が仰向けに倒れていた。
顎が砕けている。葉が2,3本、床に散らばっていた。周囲が騒いでいるのが聞こえた。そして顔を上げると
「俺が、その男だバカヤロウ」
真田省吾が、掌底を突き出した格好のまま立っていた。
どうも、更新遅れてすみませんでした。次回は一週間後になります。ご容赦を……。