第八章:11
沸き立つ群衆に背を向けた。狂った嬌声と音響は雑音でしかない。押し寄せる、重低織り交ぜられた音の波にからめ取られそうになる。煩わしさの渦を振り払うように、首を振った。
金は戻って来ない。消えてから、もう1時間はたつ。相変わらず、ステージでは怠惰なショーが繰り広げられている。
うねる肉体、走る鞭、フロア中が加熱する。
場違いもいいところだ。薄着で擦り寄る商売女、興奮したチンプみたいにはしゃぐ男たち。ステージを中心に饗宴が繰り広げられ、刹那の快楽に身を任せる。することもなく、壁に背をつけているのは省吾ぐらいなもの。居心地は、すこぶる悪い。
「適当に、時間を潰すとはいってもなあ……」
することもない。ふと、フロアの隅の暗がりに目を落とした。省吾と同じように、壁際にたむろしている集団がいる。ステージには目もくれない。やがて、顔をフードで隠した男が小さな袋を取り出したのが見えた。もう1人の男――こちらは革のジャケットを着ている――がドル札を差し出した。フードの男は素早く、それを懐にしまった。
――あんな粉で、いくらむしるつもりだろう。
最初は数ドル、良心的な価格。最初の一回が、泥沼。薬にはまると、次が欲しくなる。吸ったら次、また次に。それにあわせて、値もつり上がる。1グラム100ドル越えるころには、それなしでは生きていけない体になる。そうなれば、あとには――餓鬼か畜生に身を落とした、いばらの道しか残されていない。
熱気に当てられ、火照った体を冷やすべくコークを口に含んだ。炭酸は抜けきり、既にぬるくなっていた。甘味料が、喉の奥で膜をつくったようにべたつく。こんなもの、飲めたものじゃあない。
瓶の半分以上を残して、側にあった卓の上に置いた。誰かが、片付けるであろう。
置いた瞬間、瓶を取った者がいた。
「おおい、勿体無いことするなよ」
日本語が聞こえた。振り返る。その人物は、省吾に飲みかけのコークを差し出した。
「お、お前……」
その人物には、見覚えがありすぎた。おそらく、この街でもっとも多く会話しているであろう男。ここ数ヶ月で、うんざりするほど顔を合わせてきた。
「このコークに含まれるカロリーがどれほどのものか、計算したことはあるか? 一日に必要な糖分の3分の1をこれ一本で賄えるんだ。そのコーク一本で無駄な皮下脂肪ためるやつもいれば、たったそれだけの栄養も摂取できない人間がいるんだぜこの世の中には」
「だったらなんだよ」
「つまり」
その人物は瓶を省吾に押し付けた。
「食べ物は粗末にするな、ってことだ」
そう告げるのに、省吾は溜息で応じた。「食べ物じゃなくて、飲み物だ」
相変わらずと言えば、こちらも相変わらずである。眼鏡の蔓を指で押し上げ、九路彰が意味深な笑みで存在を主張していた。省吾の飲みかけコークとは別に、彰も同じ瓶を左手に握っている。蓋は、開いていない。
「何してんだよ、こんなところで」
差し出された瓶を受け取ることなく、省吾が訊いた。
「なに、ちょっとした出張だよ」
「《南辺(巣穴)》に飽きたのか?」
「冬眠にゃ、まだ早いしね」
彰が「はやくとれ」と言わんばかりに瓶を振った。半ばまでつまった赤茶色の液体が、チャプチャプとせかすように音を立てる。省吾は無視を決め込んだ。
「逆に、俺からも訊きたいね」
諦めたのか、彰は瓶を下ろした。
「何と?」
「南からここまで、何キロあると思っている? 車(足)も持たないお前が、どうやってここまで来たんだい?」
「や、どうやってと訊かれても……」
車で、というと彰は怪訝な顔になった。
「誰の?」
「誰でもいいだろう……俺のことなぞ、問題じゃあない。それよりなんだ、その“出張”って」
すると彰は、黙って二階のテラス席を指差した。スモークガラスに覆われているが、そこはこの店ではVIP席とされている。金だけあって、他に行く場所も無い。さりとて、ステージの直ぐ下で他のギャラリーに混ざるのは癪――そういう類の連中が行くところだ。高い金をはたいて、見るものといえば延々と繰り返される退廃的なSMショー。観る場所が違うだけで、やることは下の連中と変わらないというのに。
「お前もヤキが回ったか」
「何を思ってその科白を吐いたのか知らんが、別に遊びに来たんじゃあない」
省吾がいうのに気を悪くした様子は無い。彰は、時計をちらりとみて「そろそろかな」と洩らした。
「ここは『黄龍』の経営しているクラブだ。知っているか?」
「え、ああ……」
それは承知の上である。だからこそ来たのだ。この乱痴気騒ぎに放り込まれたのは、本意ではないが。
「今日、ここに『黄龍』の幹部連中が来ている。この間の襲撃についていろいろ聞きたい事があってさ、龍のトップの奴らと話をつけにきたんだ」
「襲撃、って」
「あれだよ、刀を……」
省吾の顔が険しくなっていくのに気がつき、彰はそこで言葉を切った。
「あー……舞が撃たれたあの時の、さ。あれ、仕掛けてきた奴らが龍の奴らなんじゃないかーって話を、しに……」
「ほう」
「いや、あのさ、その顔止めてくれないか?」
彰が、泣きそうな顔で訴えた。「怖いよ」
「蒸し返すお前が悪い」
「むずかしい男だな。ともかく、今日はお前とやりあっている暇はない」
時計の針は、もう直ぐ2時を指そうとしていた。彰は件のコークを差し出していった。
「まあ、とりあえずこれ」
「捨てろ、そんなもの。大体、飲む気が失せたから置いたんだ。だから」
「ああ、そう。じゃあ、これは……ユジン!」
日本語から広東語に切り替わった。彰が呼ぶ方向に、省吾がぱっと振り向いた。
「なに、彰。ってあれ? 省吾?」
すぐ後ろに、ユジンが立っていた。省吾との距離は30センチもない。振り返ると鼻面を突き合わせるような格好になった。
目の前に、ユジンの顔がある。反射的に、とびのいた。
「な、おまっ……」
いきなりの出現に、うろたえる省吾を見てユジンは飽くまで平静を保っている。首を傾げて、訝しげな顔になった。
「どうしたの? そんなに驚いて。私の顔になんかついている?」
「や、そうじゃなくて……どうしてここに」
「俺が来ているんだあから、ユジンがいてもおかしくはないだろう」
彰が愉快そうにカラカラと笑った。
省吾は、彰を睨みつけ次にユジンの方を見た。
ユジンの格好は、はっきりいって目の毒だった。周りにあわせているのか、露出が多い。
「なんて格好してんだよ」
太腿も露なホットパンツを穿き、黒のタンクトップという出で立ちである。サイズが合っていないのか、いくらか窮屈そう。それが、彼女の小ぶりだが形のいい胸を締め付け、体の線を強調している。
目のやり場に困り、省吾はついと目を逸らした。
「顔が赤いぜ」
彰がにやつきながら、顔を覗き込み、続いてユジンの方に向き直った。
「ユジン、そろそろ俺は行く。あとは頼んだよ」
「そ、早くして欲しいものね。さっきから視線が痛いのよ」
「そうかもね」
そういって彰はコークの瓶を、ユジンに渡した。件の、省吾が飲み残したものだ。
「おいそれは……もがっ」
省吾が口を開いたが、彰はそれを手で塞ぐ。
「じゃ、また」
そういい残し、群集の中に消える。人影が2,3度、揺らぐと姿は消えていた。雑踏の中に、溶け込んでしまったかのように。
「……あー、えっと……」
気まずい沈黙が流れる。省吾とユジン、相対する形となった。
「えーっと」
「久しぶりね、元気してた?」
無表情で、ユジンが訊く。その口調は、長らく会っていなかった友人を――もっとも“友人”になった覚えは無いが――懐かしむというものではなかった。ただ儀礼的なもので、真に相手を気遣うものではない。いやに、冷たく響く。事務的な、淡々とした口ぶり。
(なんか、機嫌悪いのか?)
最後に会ったとき。仲間の死を悼む姿からは、かけ離れている。今のユジンは、ものいわぬ機械を思わせた。そこの在るだけの、人としての体温が感じられない。
「省吾にこういう趣味があったとはね……」
ユジンはふうっと息を吐くと、ステージの方を見やった。
「は、はあ?」
「省吾はどっちなの? Sか、Mか。なんとなくサディストっぽいけど、私生活じゃあわからないわね……」
「い、いや違うって」
どうも、そういう性癖があるととられているらしい。省吾は慌てて否定した。
「俺だって遊びで来てんじゃねえよ。ここで彰に会ったのは偶然だ、偶然」
「別にばらさないわよ。愉しみ方は人それぞれでしょ」
「いや、ここは俺の名誉のために全力で否定させて貰う。お前にそんな誤解されたまま……」
そこまでいったが思い直し、口を閉ざした。
「何よ」
「……何でもない。ところでサディストっぽいとはどういうことだ」
喉の奥にいいかけた言葉を飲みこみ、話題を変えた。ユジンは退屈そうにステージを眺め
「なんとなくよ。まあいいわ、あなたの用事がなんであれ」
彰に渡されたコークの瓶に口をつけた。
「え、おい……」
瓶、というのはつまり省吾の飲みかけであって……
「ちょ、待てそれは!」
止めようかと思ったが、遅かった。
赤茶けた液体は、あっという間にユジンの口中に流し込まれた。瓶の液体が減るたびに、ユジンの白い喉が上下する。呆然と省吾が見ている間に、コークは飲み干されてしまった。
「なに、どうしたのよ」
ユジンの声で、我に返った。
「あの、そのコークは……」
「ぬるいわね。口直しに、新しいの買って来る」
未だ固まっている省吾の脇をすり抜け、ユジンは新たなドリンクを求めるべく立ち去った。
鼓動が、早くなるのが分かる。顔が熱いのは、フロアの熱気のせいばかりではないだろ
次回は6月7日(土)更新です。




