第八章:9
『招寧路』は、南と西をつなぐ連絡線でもある。『夜光路』と並び、成海の街の動脈となり機能している。
《南辺》と《西辺》は、もともと別々の都市であった。戦後の行政整備で、荒廃した周辺の街を合わせ、再開発した。その結果として生み出されたのが成海市である。統合された後も《南辺》と《西辺》は、それぞれ独自の道を歩みつつある。隣接する地区であっても、まったくといっていいほど性格が異なる。
「大きく違うのは、その産業構造だろうな」
金は運転席で大欠伸をかきながらいった。
「南の方は、戦前は工業地帯だった。だから、その名残で工場やらなんやらあるだろう。西は歓楽街、つまりは売春宿や風俗が多いんだがそれはおそらくあの辺一体が賭博場やらカジノが集中してたことに由来するんだろうよ」
金が説明するが、省吾の関心は別のほうにあった。
「なあ」
「あん?」
「あのさ、ちゃんと運転してくれねえかな」
「んあ? なんだって?」
「だから」
左手をポケットに突っ込み、片手でハンドル操作して運転する金に、先ほどから肝を冷やしっぱなしである。
「喋くるのは構わないけど、それで運転の方がおろそかになったんじゃ困るんだよ。事故ったらどうするんだ」
省吾がいうのにも、金は心配ないというように肩を竦めて見せた。
「こんな街じゃ、人を轢いたところでだれもなにもいわねえよ」
交通ルールなど皆無に等しいこの街では、事故や轢き逃げなどは日常茶飯事のことだ。事故を起こしても保証などは得られない。
「そうかもしれないが、白人ギャングの車にでもぶち当たったらことだぞ」
数日前、省吾の家の近くで大規模な事故があった。白人の運転するジープが商店に突っ込み、3人が死んだ。
白人は酒に酔っていた。誰の目から見ても、非は白人のほうにあったのだが彼が罪に問われることは無く、逆に白人の方が
「ボディーが傷ついた」といって修理代を要求したのだ。家族を殺された店の主人は、同時になけなしの金を支払った。払わなければどういう目に遭うか、分かっていたから。
ここで通用するのは掟や秩序ではない。力が強いもの、声の大きいものが、勝つ。
「そうなったらなったで、仕方ない」
「……いや、なってからでは遅いだろう」
金の運転は、かなり荒い。ブレーキも加速も、急に行うものだから体が上下左右に揺さぶられる。酔いそうだ。
「『黄龍』の歴史は、浅い」
突然金が切り出した。
「は、はあ?」
省吾は胃の中が掻き混ぜられるイメージを頭に描きながら、訊き返した。
「台湾からの連中が《西辺》で旗揚げしたのが3年前。その後、勢力を伸ばし西のギャングを統合して『黄龍』をつくり上げた」
「その連中は、なぜ西に拠点を置いたんだ。南や東へ勢力を伸ばそうとは思わなかったのか?」
「東は知っての通り、『マフィア』がいる。成海市のみならず、国連の上層部とも通じているような奴らだ。手を出すことは難しい。一方、南だが……」
ドン、と衝撃がボディーを揺らした。何かがぶつかったようだ。まさか人ではあるまいな。
「ここを支配していた『マーダー・ローズ』、その次に支配権を握った『BLUE PANTHER』は奴らと密約をかわしていた。不可侵条約、とでもいうべきか。ともかく南と西は互いに手を出さないとしていたんだ」
《南辺》と《西辺》ですみわけが出来ていた、というわけだ。
「縄張り(テリトリー)を細かく決めることで、衝突を避けていた。そうやって体制を整え、いずれは南や東に攻め入るつもりだったのか分からんが……ここに来てイレギュラーが発生した。なんだかわかるか」
ここまで説明されて、分からぬ莫迦ではない。
「『OROCHI』か」
「ああ。密約を決めていたのは豹の方であって、蛇ではない。『OROCHI』なんてあんな無茶苦茶なチームが、今後どう動くか誰にも予想できない……だから、今のうちに潰しておこうとしたのかもしれんな」
「それが先日の襲撃というわけか」
ようやくこの街の地図を、読み解くことができそうである。
「龍はここの所ずっと眠ったままだ。何があっても手を出さないし、傍観者を気取っている。その奴らが動くとなれば、この街の様相も大分変わるだろうが……」
金は急に、省吾の方を振り向いた。
「お前にゃ、関係なかろう。蛇の行く末には興味がなさそうだし」
そうだろう? と金が訊くのへ省吾が頷いた。
「俺は、先生のことが分かればそれでいい。『OROCHI(あの連中)』がどうなろうと……」
どうなろうと……ふと、ユジンの顔が脳裏に浮かんだ。
『夜光路』で、チョウの死に涙する姿。ユジンがいった、『この街を変える』といった言葉。
もし、『黄龍』が南に侵出したなら……『OROCHI』とぶつかることになったら。彼女は、どうなるのだろうか――。
馬鹿馬鹿しい、と頭に浮かんだその考えを打ち消した。そんなことは関係ないだろう。なぜ、いまあいつが出てくるんだ。
窓の外の景色が、変わってきた。今まで目だっていた工場群が消え、煌びやかな電光を掲げた建物が立ち並ぶ区画に指しかかる。
「っと、もう《西辺》に入ったな」
金が車の速度を落としたことで、外の光景をよりはっきりと見ることが出来た。
《南辺》ではおよそ考えられなかった派手なネオン街が広がっていた。目にするのは遊興施設、カジノ、売春宿。そこにあることをことさらに主張するかのような極彩色の看板を、いくつも掲げている。妖しくも毒々しい、赤や紫の光が目に痛い。光の下に集うのは、女たち。秋空には涼しすぎる、胸元まではだけさせた薄着で客をひく。男たちは甘い蜜に群がり、金を落としていく。
「どうよ、《西辺》ってのは。工業地が広がる南が『陰』なら、ここは『陽』ってとこかな」
金がおどけたようにいうが、省吾の耳には入っていないようだった。圧倒されている。
「眠らない街だ」
人通りも増えたため、金は車の速度を落としている。華やかな通りには似合わない武骨な車を、道ゆく者皆がもの珍しさに振り返った。
「かつて、東洋一の歓楽街と呼ばれた街が、お前さんの故郷にあったそうだな。だがこの《西辺》はその比ではない。毎夜毎夜、この街だけで億単位のカネが動く。人の欲ってのは際限ないが、ここならどんなド汚い欲求でも受け止める器ができているだろうよ。まあ、その分堕ちていくやつも多い」
揺らめく原色の光の海、影絵のように浮かび上がる人の群れ。煌びやかな光の中に肢体をくゆらせる女たちの、息遣いが伝わってくるようである。熱が、渦をまく。
「どうだ? 気にいったか。南からは遠いから、通いつめるのは無理だろうがな」
「誰が通うか」
街灯の下にいる、紫のドレスを来た娼婦と目が合った。色目を使って、省吾を誘う。思い切り睨みつけると、ぎょっとして目線を外した。
「肌に合わん」
憮然として、腕を組んだ。
「それで、俺らはどこに向かっているんだ?」
「すぐそこだ」
ハンドルをきって、角を曲がる。クラクションを鳴らして、角ばったボディーの英国製4WDに群がる煩い蝿を追い払った。女達が嬌声を上げて、道の脇に逃げる。
「西の、殆どのクラブや売春宿は龍の息がかかっているが……今から行くところは『黄龍』の直接経営のところだ。いろいろと趣向を凝らした、《西辺》一のクラブだぜぃ」
金はなぜかにやけた面をつくっている。なにがそんなに面白いと訊くと、金はますます顔を崩していった。
「お前さんにゃ、刺激が強すぎるかもしれんがな」
次回は5月29日(木)更新です。