第一章:6
野菜の切れ端の浮いたスープとパン。
いかにも粗末な食事。しかし、工場ではパンと水しか与えられていなかった省吾にとっては十分すぎるほど豪勢に見えた。加えて、この数日の間彼は飲まず食わずであった。鼻腔をくすぐる匂いが、食欲を掻き立てる。
しかし、荒地でかつての師に教わったことを省吾は忘れていない。出されたスープを舐め、慎重に毒見をした。
今まで毒で死にかけたことは二度ほどあった。二度とも、道を行くものが「親切」にもくれた食べ物に付着していた。三日三晩、下痢と嘔吐に苦しみ「先生」の煎じてくれた薬草で一命を取り留めた。
以来、人から出される食べ物はまず毒見をしてから食べる習慣がついた。
「疑りぐり深いのね」
興味津々、といった様子で省吾を見るユジン。その視線に気づき、省吾はじろりと睨みつける。
「なんか、面白いのか? なら見物料を要求する」
「1分1セントでどう?」
「単位が違う。1ドルだ」
不機嫌そうにスープをすする省吾を見て、ユジンはさらに視線を浴びせる。本当に、なんでこんなに緊張感がないんだ? この娘は、と省吾は訝しみながらも匙を動かす。どこの馬の骨とも分からない男を拾って、貴重な薬品を使って――何を考えている。
「ねえ、『先生』ってだれ?」
口を開いたのはユジンだった。
「はあ?」
「さっき、うわごとで『先生、せんせーい』って」
「な……」
顔面に血が昇る音が、聞こえたようだった。自分でも顔が熱を帯びてゆくのが分かる。熱い。汗まで噴出してきたようだ。
「なにを言ってんだ! そんなこと」
「何で赤くなってんのよ。もしかして、恋人かなんか……」
「んなわけあるかぁ! 文字通り俺の師匠だ!」
勢い余って、椅子から立ち上がってしまった。
狭い部屋全体に、響く声で省吾は怒鳴る。途端、貧血気味の体が悲鳴を上げた。
再びの立ちくらみが、彼の身に降りかかる。ふらつく体を、どうにか椅子に預けた。
「あ……ごめんなさい。悪気はなかったんだけど」
「いや」
すぐに平静さを取り戻した。
情けない、と自分を責めた。この程度で、何を激昂しているのか。
「なるほど。『先生』ってマスターのことだもんね。じゃああの格闘術もそのマスターに習ったの」
「ああ」
抑揚のない声で、省吾は答える。
戦前、とある古武術道場の師範代であったという「先生」のもとで、幼い省吾はその技術のすべてを伝授された。柔術、剣術、拳法を含む総合武術とやらで、厳しく、時には己の師に殺されかけながらも、必死に修練した。
さらに「先生」が軍にいた頃に習得したという軍隊格闘術も教わった。彼女の言う「勉強」の殆どが、そうした格闘訓練であった。
お陰で、今日まで無事に生きてこれたのだ。多くは護身のためであるが、時には強盗の道具としてなど、あまりほめられた使い方はしなかったが。
「なるほど、強いわけだ。でも何でそんな人がおとなしく工場の下働きなんてしてたの?」
「そんなもん、食うために決まっているだろ」
ユジンの、真っ直ぐな視線から目をはずす。決して彼が女に慣れていないというわけではない。
――こいつの目、何もかも見透かされているようだ。
彼女の目に、いいようもない危機感を感じたのだ。
「ふうん……でもまあ、これで確信したわ。あなたには価値がある」
「価値って、何だよ」
「あなたを助けた、理由はね」
にんまりと、笑いながら言った。
「あなたが欲しかったからよ」
その瞬間。
省吾は、口に含んでいたスープを盛大に噴出してしまった。
「……そういうことは普通女からは切り出さないものだ」
袖元で口元を拭く。
「俺は文無しだ。客をとりたいんならもっと羽振りのいいヤツに頼みな。ぼったくりは御免だぜ」
ちらとユジンの顔をうかがった。目と口を丸くして、唖然たる面持ちでいる。やがて少し怒ったように「汚れちゃったじゃない」と言って布巾でテーブルを拭いた。
「言ってる意味が分からないんだけど。そうじゃなくて、私たちの“チーム”に入ってもらいたい、って事よ」
「あ? “チーム”?」
「この街では『ギャング』なんて呼ばれているけどね」
ギャング――省吾の脳裏に、港での出来事がフラッシュバックする。
青いバンダナ、シャツ。銃とナイフ――
「お前、奴らの仲間、って訳じゃないよな」
「そんなわけないじゃない。あれは戦勝国民で構成された白人系。私の言っているのはアジア系のギャングよ。私たちみたいな弱い立場の人間はね、同じ境遇のもの同士集まって徒党を組んで奴らに対抗しているの。そのためには銃に勝てる――あなたのような人間が必要なのよ」
改めて、ユジンの顔を見る。
先ほどの笑みは消えていた。真剣な、切実な願い。そんな色が、表情から見て取れる。
(この女、真顔もなかなか……っていやいや何を言っている俺は)
「断るね」
「え」
「銃に勝てるなんて、そんなのは妄想だ。たまたま、手の届く範囲にいただけであって間合いの外から撃たれたら意味がない」
いくら肉体を鍛えたところで、鉛玉の前には人は無力である。
「まして……」
彼は続けた。
「お前の言うチームがどれだけのものか知らないが、『BLUE PANTHER』のようなギャングに無謀にもケンカを売る奴がいるチームなど、すぐに潰されるに決まっている。そうしたら俺に何のメリットもない」
「ならそのケンカ、勝てばいいんじゃない?」
「本気で、言っているのか」
省吾の目つきは、まるで研ぎ澄まされた刃のように鋭い。一方のユジンは……
瞳に、透き通った水脈が通っていた。その水は、淀むことなく流れる。
両者の視線が、空中で交わった。
「ちょうど、私たちは『BLUE PANTHER』と睨みあっている状態にある。いつ沸点を超えるか分からない。あなたのような力を備えた人材が欲しい」
ユジンの声は、真剣そのものだった。少し前までの、柔らかさは微塵もない。
「それならなおさらだ。不利な戦はしない。戦争は、勝ち目があるときにしかやらない主義なんでね」
ご馳走さん、と省吾は椅子を立った。
「そう、ならばいいわ。あなたに費やした時間と薬と食糧を返してもらうまでよ」
「はあ?」
「だってそうでしょ。これら全部ただじゃないんだから。チームに入ってくれないんだったら返してよ」
そういうことか。道理で気前が良過ぎた。
ならば、と省吾は笑う。馬鹿な女だ。自ら墓穴を掘るような真似を。
「チームには入らない。だが、返す必要もない」
省吾はフォークを逆手に持ち替えた、と同時に。
右足を、床に滑らすように踏み込み、テーブルを挟んで座るユジンの目の前に移動した。そして……
フォークをユジンの喉元に突きつけた。
「お前を殺せば、返さずともこの部屋のものはすべて俺のものになる。死人には必要ないからな。悪く思うなよ、お前が馬鹿だから……痛っ!」
決めの台詞は、省吾自身の悶絶の声で途切れた。
フォークを持った、彼の右手をユジンがひねりあげていた。
手首の関節は、完全に極まっている。もう数十センチ、ひねりを加えたら彼の手首は完全に外れてしまうだろう。
「見くびらないで欲しいわね」
とユジン。
「伊達に、女一人で生きてきたわけじゃないのよ。あなたが苦労してきた分、私だっていろいろ経験してきたんだから」
「っく、この!」
省吾は腕を振り払いどうにかユジンの関節地獄から抜け出した。バックステップで距離をとり、右半身の構えを作る。
「上等だよ……このアマ」
一方のユジンも立ち上がり、左手、左足を前にして左半身の姿勢を作った。突き出した手は掌を開き、右手は拳を作っている。後ろの足に体重をかけ、今にも飛び掛らんとしていた。
両者の間の、1メートルあまりの空間に、張り詰めた空気が流れる。互いに相手にかける重圧が、静寂と、目眩を伴う捻じ曲がった空間を現出させた。
徐々に、距離が近づく。もう10センチ、近づけばどちらかが仕掛けるであろう――というところまで来た。
闘いが始まる、両者がそう思った瞬間。
部屋のガラスが割れる音で、静寂は破られた。
ガラスを突き破った、それは火炎瓶であった。
床に当たって割れ、ワインの代わりにガソリンを撒き散らして一気に炎上した。