召喚魔法
とても静かな場所だった。
広い場所だが俺と目の前の女性以外の姿を目撃することはなかった。天には穴があきそこから光が入り、俺はちょうどその真下にいる。
壁紙は破れ、それが床に散らばり、本棚の本は一部地面に落ち埃を被っていた。ここはどうやら廃墟と呼ばれるような場所のようだ。何故こんな場所に俺はいるのだろう。
「私の召喚に応じて下さりありがとうございます」
女性はそう言い、俺の前で膝を折り、頭を垂れた。
召喚?
何を言われているのか分からず、俺は女性を凝視する。女性は黒髪に紫色の瞳をしていた。その目の色が本物かカラーコンタクトなのかは分からないがとても変わっている。俺が住んでいる場所では、黒目が普通なのでそう思うのかもしれない。外国人だったら、案外普通にいる可能性もある。
「何を言っているんだ?」
「私を守っていただく為に、貴方を召喚したのです」
「だから、召喚って何だよ。ここは何処なんだ?!」
まるで演劇の一場面のセリフをしゃべるかのような女性に俺は苛立ちながら疑問をぶつける。すると、女性は困ったように首を傾げた。
「どうやら召喚する際に行われる知識のインストールが失敗してしまったようですね。本来なら、異世界から召喚された場合は何故呼ばれたかや、この世界の情勢、主である私の事については最初から分かるようにされているのですが」
「何だよそれ。インストールって、パソコンじゃあるまいし」
そんな簡単に頭の中に情報が入れられるなんてあり得ない。というか、頭の中をいじられている様な事がもし本当に可能ならば気色が悪い。
つまりは俺の記憶に偽りを植え付ける事も可能という意味なのだから。
まあどちらにしろ、この女の頭が電波でおかしいという可能性の方が高いのだけど。
「ほかに不具合がないか確認をしたいのですが、貴方の名前を教えてくれませんか」
「何であんたみたいなおかしな奴に俺の名前なんか――」
話しながら、俺は自分自身の中の違和感に気が付いた。
別にこの女に俺の名前を伝えようと考えたわけではない。それでも自分の名前を思い浮かべようとして、分からなかった。
待て。おかしいだろ。
「そうですか。では頭の中に思い浮かべるだけで構いません。貴方の年齢、住んでいた場所、親兄弟の名前、友人の名前、付き合っていた女性が居るのならその名前がちゃんと浮かぶか確認をお願いします」
女性にいわれるままに、俺は自分の年齢や住所などを頭に浮かべようとするが、まったく出てこない。親、兄弟もだ。彼女や友人がいたのかどうかも分からない。
予想もしていなかった事態に体がガタガタと震えた。
俺は今、何処とも知れない廃墟に居るという事と目の前に女性が居る事しか分からないのだ。何も分からない。
「何だよ、これ……」
不安で、体が崩れそうになると、女性は俺を抱きしめるように俺を支えた。
「やはり記憶回路の方にも異常が出ているのですね」
記憶回路って何だよ。
召喚って何だよ。
どうして俺はここに居て、俺は誰で、君は誰で――。
混乱で気持ちが悪くなってくる。
「状況を知りたいので、もう一度聞きます。貴方の名前は何ですか?」
「……知らない」
今度は突っぱねる気力もなくて、素直に答えた。何も分からない状態で、今はこの女しか頼れないのだ。もしかしたら、思い出す方法を知っているのかもしれないと。
「年齢は?」
「知らない」
「家族構成を教えて下さい」
「分からない……」
「彼女の名前は?」
「居たのかどうかさえ分からない」
知らない。分からない。
俺の中には何も詰まっていない。女に答えるたびにその事実をつきつけられる。
「そうですか。どうやら、召喚時に記憶のアンインストールが行われてしまったようですね」
「戻せるのか?!」
何も知らないというのは恐怖だ。
俺はすがるように女の顔を見る。
「記憶のバックアップがとってあるならばできるのですが、それがないと難しいです。新しく知識の入力は可能ですが」
そんな。
つまり、俺の記憶はもう戻らないという事。どうしたらいいのか分からず、涙が溢れた。記憶がないので惜しいものだったのかも分からない。ただ、ただ、悲しい。
「申し訳ありません。ですが、貴方を召喚したのは私です。貴方の面倒は私がみます」
「お前の所為で俺は記憶を失ったんだろ?!」
俺は女の体を付き離して離れる。
今は彼女しか頼れる相手が居ないが、もしかしたら、彼女以外の人ならこの状況を打破する方法を知っているかもしれない。
「俺はお前には頼らない」
「……そうですか。ですが、私は自分の身を守る為、廃墟と化したこの町に居ます」
「えっ?」
「ですから、ここから次の町へ行くには、かなりの距離がありますが大丈夫ですか?」
廃墟とかした町?
俺は弾かれたように割れたガラスの破片が散らばる窓際に走る。そこから見える景色の中に、人らしいものは誰もいなかった。
「次の町までの間に魔物もいます。無事襲われなければいいのですが」
「何で?!」
「初めに言った通り、私は私を守ってくれる従者が欲しくて召喚を行いました。私はこの廃墟に隠れ住んでいます」
意味が分からない。
「貴方が私を守りたくはないと拒否するのでした致し方ありません。新しい召喚を行います」
貴方なんて不要です。
そう言われたような言葉に、俺は恐怖を覚える。こんなわけの分からない状況で1人にされてしまったら……。
水も食料もない。
この世界がどういう世界なのかも分からない。それなのに、この町にはこの女以外に誰もおらず、俺が助けを求められるのは――。
「助けて……」
「声が小さくて聞こえません。そして主は私です」
「……助けて下さい」
彼女しかいないのだ。
俺はプライドも何もかもなくし――そもそも、プライドなんてものがあったのかも分からない――彼女に助けを求めた。
彼女がこの状況を引き起こした原因だとしても俺が今頼れるのは彼女しかいないのだ。
「私と契約をし、私を守る従者となるなら、貴方の願い出を受けましょう」
「守ると言われたって――」
俺には何もないのだ。
下手をしたら足を引っ張るのは俺の方かもしれない。
「貴方が召喚された時に戦い方については入っているはずです。私と契約をしないのならば、そちらも消させてもらいますが。私を殺しても同様です」
確かに、頭の中で記憶を探ると、ちゃんと戦う術は残っているようだった。
「道具も貸し出しましょう。さあ、どうしますか」
俺は最初に彼女がやったように、地面に膝をつき頭を垂れた。これしかない。俺は彼女を守るしか、今は生きるすべがないのだ。
「貴方の従者にして下さい」
「よい子です」
そう言って、彼女は幼子にするかのように、俺の頭を優しく撫ぜた。
◇◆◇◆◇◆◇
○月×日
魔王に捕えられた。
どうやら薬品を嗅がされここへ連れてこられたらしい。戦う道具はすべてとられてしまったようだ。残された手帳に現状を書き残そうと思う。仲間は大丈夫だろうか。
○月△日
1日1回、良く分からない注射をされているようだ。
その度に薬品で眠らされているらしい。手に痣ができているのでその事に気が付いた。特に今のところ何の不調もないが、気味が悪い。
○月□日
捕まってから何日から経った。料理は眠っている間に用意されるようで、あれ以来誰も見ていない。喋る相手も居ないと、喋り方を忘れてしまいそうだ。……いや、俺は本当に正気だろうか。
普通なら不安でたまらないはずなのに、注射の気味の悪さがあるだけだ。
○月◇日
最初に俺を連れてきた女が現れた。
気分はどうだと聞くので、最悪だと答えておく。久々の会話だったが何とか喋る事ができた。彼女はそれだけ言って去っていった。
○月▽日
今日も彼女は来なかった。
彼女が誰かも分からないのに、気が付くと彼女が来るのを待ちわびている俺がいる。彼女以外話す相手が居ないのだ。おかしくなりそうだ。むしろ、もうおかしくなっているのだろうか。
×月○日
彼女が俺を召喚すると訳の分からない事を話してきた。
貴方が私を待ちわびているのが分かったからだそうだ。言っている意味が理解できない。
×月△日
彼女が俺に質問をしてきた。
俺の名前、俺の年齢、家族――。とても考えなければ名前すら出てこない状況に居る事に気が付いた。彼女は満足気に帰っていった。
×月□日
俺はルシフェル。年齢は25歳。
毎日書くようにしているが、友人や恋人の名前は前のページを見なければ書けなくなってきた。そして名前を見ても顔も浮かばない。
俺が記憶している他人は気がつけば定期的に合っている彼女だけになっていた。
×月□日
年齢が分からなくなった。怖い。
彼女に問い詰めると、記憶をなくす薬を俺に投薬しているのだと笑いながら話した。そしてこの記憶もどうせ消えると。
×月◇日
名前が書けない。
どうしてここに居るのかも分からない。俺に会いに来る女性が誰かも分からない。俺の世界は彼女だけしかいない。
次は彼女はいつ来るのだろう。1人は寂しい。会いたい。
――彼が書き残した最期の記録まで読んで、私は手帳を閉じた。
「これで貴方は私のもの」
しばらく会いにいかないようにすれば、彼は私の顔も忘れた。
記憶のない無垢な貴方は、私が言った言葉を鵜呑みにし信じるだろう。
この世界に召喚魔法なんてない。私がでっち上げた妄想だ。本当にあるのは、偶然開発された記憶を消す新薬だけ。
私が彼女という設定で思い込ませるというのも面白いが、それよりも彼の中で私しかいない状況を作り出し、傾倒するように導いていく方が良いと思いそうした。作られた感情よりも、自分で導き出していったと思い込んだ感情の方が、より彼の中に馴染むだろうから。
私を守っているのは自分の意志でだと思い、それが彼の中のすべてになればいい。それが私が望んだ新しい彼《勇者》だ。
私《魔王》を好きになってくれなかった彼《勇者》の最期の言葉を、私は火の中にくべた。




