現実世界② ”痛み”
久しぶりにE・Dを投稿しました。実に一か月ぶりです。主な敵の正体が明らかになる話です。どうぞ、お楽しみください。
《現実世界/出御高等学校》
キーンコーン、と昼休みを告げるチャイムが鳴った。
「ちょっと来なさい」
チャイム音が途切れた直後に三原茜が語り掛けたのは鈴夜湊だった。彼は丁度自分の席にて昼食の弁当を用意している。
「へ……?」
困惑の表情を浮かべる湊だったが、茜は無言で彼の腕を掴みとった。
「ちょ、弁当が……」
「じゃあ、それも持ってきて!」
茜は有無を言わさず湊を教室の外に連れ出した。おぼつかない手つきで弁当を抱える湊が教室の扉を潜り抜ける。
「な、何の用……?」
先を行く茜の口は一向に開かない。彼女の勇ましい足取りが人口の多い廊下で強く反響していた。
しばらく無言で引きずっていたが、茜がようやく言葉を返した。
「昨日の話」
湊が眉根を寄せる。だが、彼は瞬時に額の筋肉を緩めた。
「あ、ああ……。掃除のこと? 昨日は手伝ってくれてありがと……」
「違うって分かってるんでしょ」
急に彼女はその場で立ち止まった。細くなった茜の目付きが振り返ると同時に湊の視線に連結する。頬を引き攣らせた湊が小さな歩幅で何度も足踏みした。
勢いを抑えきれなかった為、前のめりとなった湊の顔が茜の顔に接近していく。
「……う……」
湊の顔に汗が一滴流れた。
端正な顔立ちに面と向かった緊張が湊の全身に満ちる。頬を少し赤らめては茜の双眸から逃れるように顔を背けた。
そんな彼の耳元に茜が静かに唇を近づけた。
「……断罪……裂剣……」
生暖かい風と禁断の呼称に湊は豪雨の様な汗を発した。体温の上昇が外見から読み取れるが、その表情は真っ青だ。
彼の蒼白な顔面を引き出した張本人は満足そうに微笑んでいる。
「私はここで話してもいいけど……君はいいの?」
ざわざわ。
周囲は購買や食堂へ出向く生徒で溢れている。先程の茜が言った呼び名は誰かに聞かれた様子はなかった。だが、男女が顔を近づけあっている現状は道行く人々にかなり注目されている。
観念したような溜息が湊の口から洩れた。
「行けば、いいんだろ」
「それでよし」
目にも鮮やかな木の葉がそよ風に吹かれて騒めきあう。
雲一つない晴天の下。購買から離れた古びたベンチの上に茜と湊の姿はあった。彼らは人目に付かないという条件を考慮し、利用しにくいこの場所を選んだのだ。
誰も使用しないことからベンチには多くの葉が積もっている。使用にこぎつけるまでの清掃に多少の苦労はかかってしまった。
「ようやく座れるよ」
用心深く掌で茜はベンチ上の埃を払った。そして労働の末に腰を深く落ち着かせる。
「ほら、君も座りなよ」
「うん」
湊は茜から一人分離れた位置へと力なく座り込んだ。
「……じゃ、早速話してくれない?」
屈託のない笑顔で尋ねる茜。そんな女生徒を前に、連れ出された男子生徒は口を詰まらせた。
「えっと……その」
淀みだらけの口調がしばらく続いた。湊は膝の上に乗せた弁当に時折視線を向けている。彼の覇気が足りない瞳が茜と膝上の包みを交互に往復していた。
「食べながらでもいいよ」
多少溜息交じりの了承を茜が出した。彼女も途中の道程で買っておいたパンを取り出した。ばりっ、とパンの袋が勢いよく開けられる。
「…………」
もぐもぐ。湊が食事に全精力を傾ける。先刻よりも音の響きは減ってしまっていた。
「ちょっと」
小さな口によってパンが自身の体積を奪われる。その甘い味わいを通して戒めの言葉が飛び交った。
「話してって言ったでしょ? 私、昨日から気になって眠れなかったんだよっ」
「睡眠中の話……だよね?」
主食であるご飯を飲み込んだ喉が矛盾を指摘した。湊の弁当は肉で野菜を巻いたおかずを含め、色とりどりの料理が詰め込まれていた。
傍目から手が込んでいると分かる箱を見つめ、茜が何気ない質問を出す。
「……それ、お母さんが作ってくれたの?」
こくり、と湊が頷く。
「美味しい?」
「…………」
湊が次に起こしたのは沈黙だった。苦虫を噛み潰したような表情が一旦浮かび、双眸が茜を睥睨する。大人しそうな双眼には他者を拒絶する光が宿っていた。
矛先である茜が上半身を逸らす。
咥えていたチョコ入り菓子パンを即座に降ろした。隣から突き刺さる眼光が彼女の体裁を正したのだ。一見して礼儀を整えた女生徒と茜は化す。だが、湊から湧き出る威圧は衰える様子がなかった。
「あの黒いアバターのことを訊きたいの?」
黒い箸を弁当箱の上に横たわらせる湊。そんな彼の発言が核心を突いていると茜が気づいたのは数秒後となる。
「……え、あっ。うん……」
女生徒の背中が縮こまる。茜が伸ばしていた背筋は段々と曲がっていった。その体勢は隣に座る柔和そうな少年と酷似していた。
「結局あれは何だったの? 傷を治したと思ったら、……君はすぐにどっかへ行っちゃったし。説明ぐらいはして欲しかったんだけど」
「説明はした、よ」
「え?」
茜の黒い瞳が丸くなった。
「もしかして……あの『悪夢』とか言っ」
少年の人差し指が少女に向かって突きつけられた。
「それ」
――悪夢って知ってる? という言葉を湊は尋ねるでもなく、ただ虚空を相手に呟いた。
少女がその単語を口内で数度反芻し、静かに首を左右に振る。茜は悪夢という単語が秘める不気味さに改めて鳥肌を立てていた。
湊が顔を上げ、晴れ晴れとした蒼天を視野に収める。彼は首筋を吊り上げつつ、悪夢という存在の話を始めた。
「……単なる都市伝説なんだけどね。プレイヤーのストレスとかが極限にまで達すると、E・Dで操作するアバターにまで影響が出るんだって」
淡々とした調子で語られる情報を茜の両耳が受け取る。
「そして、その影響はアバターの外見まで変化させるんだ。全身を黒い霧状の物体で包み込み、悪魔のような体形に変化させる……」
「それって……!」
茜の表情が強張り、声が裏返った。対する湊は口調を変化させずに相槌を返す。
「そう。昨夜のアバターが、多分それなんだ」
「あれが、悪夢だって言うの?」
膝元に置かれた昼食を茜自身の手が変形させる。不自然に力が入った両腕によって菓子パンは被害を被っていた。
「…………うん」
悲惨な状態となった物体と面を下げた湊の目が交差する。しかし、それ以上は何も切り出さずに食事を再開した。すっかり冷え切ってしまった主菜を彼が箸でつまんで持ち上げている。
茜がすかさず声を上げた。
「んで?」
硬い部位に行き当たった少年の奥歯が音を立てる。細かくする為の咀嚼を維持し、同時に無言で首を傾げた。
「何できょとんとするのよ。私が訊きたいのは、その後!」
湊の呆けた態度に茜が憤慨する。
彼女の言葉も暫く噛みしめた後、彼はぶっきらぼうに言い放った。
「俗物」
女生徒の頬が引き攣る。一蹴されたことが悔しいと感じていたのは明らかだった。
「……はあ」
観念に近い空気を茜が吐く。次いで仕返しとばかりに唇を瞬かせた。
「君、……そんなんじゃ友達いないでしょ」
がりぃ!
湊の前歯が勢い余って箸と激突した。舌の上へと料理を運んでいた腕が微動だにしていない。彼は問答するように表情を暗くしていった。
対する茜は既に潰れてしまった菓子パンの相手をしている。中身がはみ出た昼食は彼女の口周りを茶色く汚していた。
「…………慣れて……ない……んだ」
「へ?」
ポケットからハンカチを取り出した茜が付着したチョコを拭き取る。その最中に湊が何かを告白していた。
彼は顔をしかめ、二、三回空ぶった会話を行う。広げた黄色いハンカチをしまう少女の機会を見計らい、少年が実践を試みた。
「慣れてないんだよ。こういう、食事と会話を一緒にやるっていうのが」
「こういうのって慣れるものなのかなあ?」
「そうだ……よ。僕にはとても真似出来ない」
茜が湊に苦笑を見せる。
「真似って……自然にやればいいじゃない。そもそも誰も真似なんてしてないと思うよ? ……ていうか、友達と一緒にお昼食べてたら」
そこで彼女は微笑を曇らせた。
「だから……その友達がいないんだよ」
「ああ……」
二人の間に乾いた風が吹き抜けた。湊は弁当の具材が飛ばされないよう、咄嗟に弁当箱に蓋をする。茜は額に手を当てながら、パン入りの袋をしっかりと握っていた。
突風と掠れた木の葉が雑音に近い曲を奏でた。
短い時間。空気の通り道にだけ重い圧力がかかっていた。
「……やっぱ、別人だよね」
少年の首が静かに隣を向く。
「昨日も言ったけどさ……。君のはもう二重人格ってレベルだよ」
だって、と茜が付け加えた。
「断罪裂剣のクリム……だっけか? E・Dでの君は凶悪な犯罪プレイヤーに平然と立ち向かっているのに。……こっちでの湊君は、臆病すぎるよ」
「臆病、ね」
硬質の物体が二つ擦り合う音が細やかに響く。湊の重々と閉じかけていた口は空気を吸い込む為に開いた。深いとも浅いとも言えない呼吸が行われる。
「別に他人と関わるのが怖いってわけじゃないんだよ。ただ、他人と出来る限り関わりたくないんだ、……鈴夜湊の場合は」
少年の威圧感に晒された茜の肌から汗が流れる。湊は然様な彼女の異変に気づく気配もなく、己の分身について語った。
「けど、E・Dでの僕は――クリムは違う。自分で言うのもなんだけど、あそこでの僕は強いんだ。僕の願いを、叶えられるぐらいに……」
「願い?」
湊の頬が初めて緩む。密やかに沈黙を弛緩させ、はっきりと告げた。
「……正義の味方だよ」
最後の一片となった菓子パンが茜の喉奥へと飲み込まれた。茜によって立てられた大きな音は湊の目標を打ち消すように重なり合う。
黒い大剣を装備する騎士が掲げる夢。それを耳にした少女の身体が、寒気に襲われたかのようにぶるりと震えた。
「命乞いをしている人を……簡単に斬ろうとするのが、正義の味方なのかな」
末尾の抑揚は上がるところか底に達するまで下がっていた。投げられた反論がベンチの真上を通過する。そして、少年の目付きが鋭く研ぎ澄まされた。
「十分に正義だよ。何も本当に人を殺すわけじゃないからね。ああいう犯罪者は一度死ぬ恐怖を味わなければ、反省もしないんだよ」
「でもっ」
少女は言葉の熱に絆され、ベンチから腰を持ち上げた。
「相手だってそれなりの事情があったかもしれないじゃない! 例えば、家庭の事情とかでストレスが溜まってたり――」
「関係ない」
少年が座っていた席に居たのは鈴夜湊ではなかった。巨大な刃で犯罪プレイヤーを一刀両断する騎士、クリムが茜と会話をしていたのだ。
彼女を仰ぎ見る顔の先にて、二つのレンズが陽光を放射線上に反射した。
「それで他人を傷つけた事が許されるはずもない。ストレス? そんなもの誰だって抱えてるんだ。悪行をやれば即座に退場させる」
湊の瞳から怒りの輝きが漏れ出る。事情を知らない他者であれば、殺意と言い換えても相違はない代物だった。
「それが、俺の信じる正義だ。余計な口出しはするな」
少女の指先からパンの入っていた袋が風に乗る。くしゃり。茜の足元に集められた木の葉が意味もなくクッションの役目を果たした。
直後にて湊もようやく食事を終える。口に溜まっていた空気を吐き出した。彼は茜が落とした袋に目をつけ、慣れた手つきで葉っぱの海から救い上げる。
「落ちたよ、三原さ……っ!」
少年が驚愕に突かれる。
先程まで言い合っていた茜が涙腺を壊しつつ、顔を赤くしていたのだ。
「ん……」
両目の端が涙で潤んでいるのは明らかだ。今にも零れそうではあるが、眉間をきつく寄せることで何とか耐えていた。
「うー……あー……!」
鈴夜湊に戻った少年が女生徒の泣き顔を前に狼狽える。両手がせわしなく動いていた。彼は必死に最善の態度を追求し、最後の策を実行した。
「……ごめん」
直角に近い角度で湊の頭は下げられた。
「――何で、謝るのよ」
「その、流石に言い過ぎたかな……って」
「違うもん。他人の私が、余計なこと言っただけだもん……」
少女の瞳が酷く歪んだ。涙の蓄積が限界に達しようとしていたのだ。
「えとっ」
危機を察した湊が切羽詰まった呂律で謝罪を重ねようとした。
「そ、それもふぎゅめて、ごめんぬぁざいっ!」
悲しみの雫が落ちるよりも早く、世界には静寂が訪れた。
「……………………は?」
茜は目前で起きた事故によって我慢すらも忘れていた。彼女の双眸にうっすらと付着した水滴も既に枯れている。
だが、顔を染めるという豹変は終わってはいなかった。
今度は湊の番だった。
「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
両掌で少年が必死に自分の顔を隠す。茜はそんな彼の表情を覗こうと、軽やかに視線を合わせようとした。
激しく湊は抵抗する。背筋が折れそうな程に面を下げ、彼の靴寄りに高度を落とした。
「もしかして噛んだ?」
「もしかしなくても……噛んだ」
手に遮られたやり取りではあったが、湊の声が震え、発音が乱れていたのははっきりしている。
程なくして、湊の頭上に少女の笑い声が降りかかった。
「……あ、あははははっ!」
盾代わりに用いていた掌の向こう側にて、茜が満面の笑みを浮かべていた。
「うー…………」
陰鬱な視線で茜は睨み付けられる。唸る湊は恥辱に顔を赤らめていた。落涙の様子は見られなかったが、その口元はくしゃくしゃに歪んでいた。
「あー、ごめんね。今のは私の方が悪かったよ」
呆気らかんと打ち明ける茜に先刻の悲嘆は見当たらなかった。
「君の言うことにも、一理あるんだよね。現に私だって襲われたんだから……。本当にごめんね、湊君」
深く曲げていた背中を少年が伸ばす。その間にも彼の視界が茜から外れることはなかった。不自然な具合で垂直になってから、湊の眼は少女から大きくずらされる。
「う、うん……」
小さい首肯を行う湊の両耳は、林檎の果実を彷彿させるくらいに赤かった。
「僕の方こそ……ごめん」
「いいよ、もう。お互い様ってことで」
柔和な顔つきで少女が了承を出す。閉ざした口が自然と微笑の形を整えていた。
……キーンコーン。
昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。正確には授業再開の十分前を示す音響だ。
二人は同時に校舎の方角を向く。茜と湊が同じ時計を同時に視野へと触れさせた。
「じゃあ、話はここまでにしよっか」
茜が口早に退散を切り出した。湊も重ねて首を縦に振ろうとする。
「つ!」
膝に力を込めた湊が急に崩れ落ちた。片膝を地面に降ろし、彼の全身が蹲る。
「ちょ! どうしたの!?」
脇腹に手を押し当てる湊へ近寄る茜。彼女の両目には真っ青になった湊が映っていた。
「お腹、痛い……」
「え? 何か、悪い物でも食べたの……?」
「違う」
湊が素早く弁当箱を手元に寄せて隠す。
「じゃ、じゃあ……。私と一緒に食べてストレスで胃が痛くなった……とか、そんなまさかね」
「それもちょっとあるけど……違う」
「あるんだ! 少しはあるんだ!?」
腹痛に歯を食いしばりつつ、湊は厳かに立ち上がった。
「悪いけど、保健室に行ってくるよ。……先生には」
「……あ、うん。私から言っておくね」
蒼白な顔色ながらも、彼は狂いない足取りで歩を進めた。ざり、ざり、と踏みゆく木の葉も不自然な律動の音を聴かせなかった。
少年が数歩歩いたところで、少女が唐突に声を張り上げる。
「……湊君、ありがとねー!」
呼び止められた湊が立ち止まった。御礼の主を顧みて、首を不思議そうに傾げる。
脇腹に触れていない手にはパンが入っていた袋が握られていた。湊は無意識に持ち帰っているゴミを数秒眺め、二、三度首を縦に振った。
「気づいてないな、あれ」
不満げに呟き、茜は瞼を緩ませる。しかし、湊の言動が未だに終わっていないことに気づいた。半身を引き下がらせているのだ。
背後の茜へと彼の正面は戻された。
「さっきの続きって訳じゃないけど!」
大声で断罪裂剣は告げる。
「本当にこれ以上は悪夢に関わらない方がいい」
「どうし……て」
忠告を一身に受ける茜の注意は湊の脇腹へと集まっていた。少年の体勢が半身であることから、その箇所が距離的に茜と最も近かったのだ。
「ここ、覚えてる? 君に直してもらったところ」
「え」
少女の瞳が瞬く。
「……痛いんだ。あの悪夢にやられた場所が。E・Dの中でも――」
犯罪プレイヤーにも悠々と勝ち誇る騎士団のクリム。そんな断罪裂剣としての険しい顔つきが、起こりえない現象に裏付けを与えていた。
「現実でも」
夢と現実。
悪夢は二つの不可侵領域を痛みという武器で侵略する脅威だった。
次回もなるべく早く投稿したいと思います。感想もいただけたら、更に執筆速度が上がるはずです。どうぞ、E・Dをよろしくお願いします。次回も現実世界から始まります。