《現実世界》⑬ ”帰路”
ちょっと短いです。
「あら、誰か来ていたの?」
茜が見まいに訪れてから約一時間が経った。今度は日々貴の母親が個室に姿を現した。訪問者の存在は、部屋に置き去りにされた品物から導き出されている。患者の家族である母親はそれを意外そうに見つめていた。
「……まあ、ね」
「何だか珍しいわね。お母さん、日々貴の友達は小学校以来見てないわ」
「…………」
バイオリンの練習に人生をかけてきた少年は、母親のぼやきに口を噤んでしまう。事実ではあった。だが、面と向かって言われた際の動揺は大きい。
「冗談よ。友達ぐらい、いるものね」
日々貴は無表情を貫いたまま、無言を返した。笑ってみせる余裕が全くなかった。
茜が座っていた椅子に、母親が腰を落ち着ける。両手で林檎とナイフを持ちながら、その場で赤い皮を剥き始めた。
しゃりしゃり、と音が鳴る。四等分した林檎の皮を一つ切り取ると共に、彼女は近くの白い平皿に置いた。
「……ねえ、日々貴」
手元の果物に注意を向けながら、母親は口を開く。
「バイオリン、やめたってかまわないのよ」
「え?」
日々貴はその言葉に反応した。顔を持ち上げて母親の表情を窺おうとする。だが、林檎を見下ろす為に傾けられていたせいで、良く見えなかった。
「こんなことになるまで、無理しなくたって良かったのよ。バイオリンをずっと続けてきた日々貴にとっては辛いかもしれないけど。……でも、お母さんにとっては日々貴の方が大事なの」
刃物を持つ手を微かに震わせながら、日々貴の母は告げた。
「気付かなかった私が今さら母親面しても仕方ないわよね。だけど、もうこんな思いはさせないで。……息子が死にかける話なんて、もう聞きたくないわ」
初春手前の交通事故と先日の自殺未遂。この半年の間、日々貴は二度の危険にめぐり合っていた。
「母さん……」
瞳を潤わせる母親を前に、言葉が無くなる。
一つ分の林檎の皮が全て向けた。誰にも手を付けられる気配がないまま、みずみずしい果肉は白い皿の上で晒される。
「誰も責めないわ。日々貴はもう、充分に頑張ったもの。……だから、ね」
項垂れているので母親の面持ちは全く分からない。彼女の声は床下へと落ちて、厳かに広がっていく。それだけが日々貴に向けられた感情の暗示だった。
日々貴は近かった左腕を宙へと持ち上げた。そして、間髪入れずに力を抜いてベッドの上に戻した。
林檎を掴み取る為に伸ばしたのは、反対側の右腕。
乱暴に林檎を引き寄せては、豪快に前歯で齧る。しゃりっ、と力んだ音が日々貴の方へと直に伝わった。口内でもひんやりとした感触を覚える。日々貴は勢い込んで二口目に取り掛かった。等分された林檎は即座に平らげられていった。
「母さん、ごめん」
咀嚼しながら、日々貴が声を絞り出す。
「私はバイオリンを止めない。止めたく、ない」
「日々貴……?」
「心配をかけたのは反省してる。……それでも、私はもう一度夢を見たい。……いや、もう見てしまっているんだ」
借り物の右手を強く握り締める。日々貴は自分の身を案じている母親と正面から向き合っては、その口を静かに開けた。
「だから、お願いします。母さん」
声を張り上げた日々貴の顔が微笑と覚悟に彩られる。
「もう一度、私に――――」
質素な白い病室に決意が響いていった。
「それにしても、よくあんな雑誌知ってたね?」
白藤総合病院から帰る道中。定期的に出ているバスの中で、茜が湊へと尋ねていた。
「別に……」
短い返しを携え、湊は口を閉ざす。授業終了直後の時刻が関係してか、周囲に人は居なかった。だが、二人は席に座らず立ち尽くしていた。
走行音が周囲を駆ける。移ろいゆく窓の景色を背に、茜は華やかな声色を使う。
「やっぱり湊君って理系なの? 何か雰囲気がそれっぽい」
「うん……」
「でも、私は物理とか数学って苦手なんだよね。ま、どの教科も成績は悪いけど」
「そう……」
一方的な対話が繰り返されつつ、時間は経過していく。
やがて、二人にとって見覚えのある校舎が視界に入り込んだ。バスが既に出御高校の傍まで近づいていたのだ。
「ようやく着いたね」
降車地点までの少ない時間を察した茜が鞄から携帯を取り出す。斜めに位置する湊もごそごそと支払の用意をしていた。
「…………やっぱり、もったいなかったんじゃない?」
同行者の財布を見かけて、茜は尽きない疑問を発する。
「何が?」
「お見舞い。お金が無駄になってない?」
湊は茜を追って白藤総合病院まで来ていた。だが、日々貴の病室には入っていない。その懐から往復した分の交通費を消しただけだった。
「…………」
瞳を細め、沈黙を挟む。湊が答えを言うまで更に十秒はかかった。
「本当は来るつもりなんて無かったよ」
「ええ……。ちょっとひどくない、それ?」
微塵の情も無い言葉に茜が呆れ返る。だが、湊はそれを気にする様子も無く続けた。
「気になる事が、あった」
湊が携帯を掲げて先に交通費を払った。自立型走行バスの支払機がちゃりんと音を鳴らす。それにならって、茜も財布機能を持った携帯の裏面をかざす。
停留所へと二人が足を踏み下ろす。乗客の少ないバスが背後で再び発射していった。
「どんなことが気になったの、湊君?」
場を改め、茜は訊いた。
「…………いや」
首を小さく横に振り、湊は喉元まで込み上がっていた言葉を飲み込んだ。
「やっぱりいいや」
「えーっ!? 何か気になるよ! 教えてよー!?」
騒ぐ茜を余所に湊は歩き出す。捨てきった質問を背中に受けながら、出御高校へと戻っていった。
校庭で部活動に励んでいる生徒の声が、バスの停留所まで届いていた。湊と茜も部活動の最中だった。用事を終えたであろう後輩が部室にて待っている。不機嫌で頬を膨らませた部長が湊を追いこした。
「もういいもん。結那ちゃんとこ、先行ってるから!」
足を躍らせ、茜は校舎の方へと駆けていった。
――彼女が遠ざかった後の僅かな瞬間。
「…………」
湊が小声を吐き出す。そして、眼鏡の奥にあった黒い瞳を鋭く尖らせた。一秒にも満たない時間。夢の世界でしか現れない筈の目付きが、そこには宿っていた。
恐らくですが、次でMN編は終わりとなります。なるべく早めに更新したいと思います。




