《現実世界》⑪ ”地上”
夏休みにようやく入りました。最新話です。
地上へと墜落する。
伸ばした腕が風を切り、真下へと日々貴の頭が傾いていった。その両目は大きく見開いていた。掲げた指先は閉じる事も出来なかった。
日々貴はただ固まっていた。胸の奥に湧いた感情や、自らに訴える本能。それらを置き去りにして、墜落してゆく。
「い」
今になって、日々貴の口が横へと歪んだ。目尻に薄らと涙を浮かべる。張っていた腕の先で、更に指を伸ばした。
「――や――だ…………!」
そこまでが、言葉を発せる最後の期間だった。
小さな肉体は地上へと落ちて、激しい衝撃を背後に響かせる。
「――大丈夫っ!?」
聴き慣れない華やかな声が、耳に届いた。
「……………………え……?」
目を白黒させて、室月日々貴は呆けた。
四階から真っ逆さまに落ちた。その後、地面に激突した筈だった。少なくとも全身に重度の苦痛が広がっている筈である。
「何で」
だが、日々貴は肉体の無事を自然に感じ取っていた。痛みが無い訳ではなかったが、生死を左右する程でもない。確かに、生きていた。
「……間に合い……ましたね」
先程とは異なる小声が、傍で呟かれた。数人が日々貴を囲んでいるのだ。
鈍痛と麻痺で半身が上手く動かせず、日々貴は目だけを用いて周囲を確認する。三人の姿があった。二人は女子生徒だった。もう一人は背の高い男子生徒で、その顔に僅かな見覚えもある。
「……う」
日々貴が背中を付けている場所を掌で擦った。すぐに柔らかな感触が返ってきた。舗装されたコンクリートどころか、土が詰まった地面ですらない。
瞳を降ろすと、真っ白な色合いが映る。日々貴の真下に引かれているのは、何枚にも重ねられたマットだった。この学校では体育の授業にて使われている。主に室内の運動――体操等で使われている筈である。少なくとも、屋外にある様な代物ではない。
「どう……して」
鈍痛に苛まれた身体のまま、日々貴が疑問を発する。
「……感謝しろよ、お前」
横たわった日々貴の頭上で、大柄な男子生徒が息を切らしながら話しかける。
「俺達がこいつを用意してなきゃ、お前……今頃死んでたんだぞ」
そう口にする顔には大量の汗が浮かんでいた。他の女子生徒二人も、酷く疲労した様子が窺えた。
「間に合って良かったよ~」
茶髪の女子生徒が息を吐いて安堵する。そのまま、日々貴と同じマットの上へと両膝を着かせた。
「……っ」
続いて、もう一人の女子学生も脱力してしゃがみ込んだ。
「疲れ……ました……」
次々と脱力していく様から、日々貴は事の裏側を読み取った。この場に集まった三人がマットを引いていたらしい。進行形で汗を掻いている彼等の状況が時間の紙一重を告げていた。後少しでも早かったら、マットの枚数が足りずに日々貴は落下の衝撃が殺しきれなかった筈だ。
そこまで考えてから、日々貴は自分の左手で視界を塞いだ。
「……あいつ……!」
弱く歯ぎしりを鳴らす。
後頭部をマットに埋めてから空を仰いだ。指の隙間から見える光景の中に、日々貴を引っ張っていた腕の影はもうなかった。
「まだって……そういう意味か」
――日々貴が落下する直前。鈴夜湊は「まだ駄目だ」と口走った。そこには彼女達によるマットの準備が終わっていないという意味を含んでいたのだ。
「……くそ」
目頭に皺を寄せ、日々貴は真上を睨み付けた。日の光にしばらくは全身を晒す。僅かな温かさに身体中が貫かれていった。
背中にはまだ鈍痛が残っている。少ない筈の筋肉からは悲鳴を訴えられていた。安心に沈み込もうと、危害が削がれていく。日々貴の瞼はゆっくりと重くなった。視野を暗闇に染めつつ、音も無く閉ざされる。
安らかな顔つきを浮かべ、室月日々貴はマットの上で気を失った。
「……間に合ったか」
鈴夜湊は窓枠の並んだ壁にしゃがみ込み、額の汗を手の甲で拭った。攣りかけた足を床上に伸ばす。
「……良かった」
顔中で張っていた緊張が和らぐ。
室月日々貴を救ったマットは、出御高校の倉庫に収納されている物だった。普段は一年に一か月程度、この時期における体育の授業にしか使われない。更に、鍵さえ刺さるのが難しい倉庫に仕舞われているのだ。鍵をかけない状態で放置するのは容易かった。湊に収納を命じた教師も数日の間だけ承知している。
くたびれている年代物のマットだったが、何枚も重ねたので十分な役割を発揮したらしい。室月日々貴が唖然としている顔がすぐに思い返せた。
「しかし……疲れた」
顎を持ち上げ、湊は喉から声を絞り出す。
「流石に……あっちの様には上手くいかないか」
頭に添えていた手を離し、両目の先に置く。先程の影響で震えていた。片方の掌で手首を掴んだが、すぐには納まらなかった。
「でも」
腰元に腕を下げて、湊が瞳を細める。
「今度は……何かを出来た……よな?」
瞳を薄く閉ざし、誰も居ない空虚に訊ねる。その直後に教室の扉が勢い良く開いた。事態に気付いた教師達が雪崩れ込んでくる。忙しい足音が次々と積み重なり、騒動の規模を際限なく広めていった。
「……まだまだ、終わりそうにないな」
双肩をがっくりと落としながら、湊は細くて長い息を吐いた。
ようやく伏線が回収できました。MN編の序盤における体育話はこのために書きました。無事に回収できて満足です。




