《現実世界》⑩ ”伸ばす手”
最新話です。少し遅くなって申し訳ありません。
少年は校舎の壁に沿って落下を止められた。義手を掴んだ人物に宙で留められていたのだ。
「…………え」
少年――室月日々貴は両目を大きく開き、窓枠に有る顔を確かめる。
「間に……合った……!」
日々貴の手を掴んでいたのは、出御高校の生徒だった。眼鏡をかけ、目立つ要素も無い髪型や瞳が大人しい印象を放っている。
義手を握っている態度には若干の安堵が滲んでいた。額に汗を浮かばせつつ、懸命に日々貴を宙に引き止める。その顔は赤かった。全力で取り組んでいるのが傍目でも明らかだった、
「何をしている……お前」
突如として現れた男子生徒を睨み付け、言葉を投げかける日々貴。
「何でこんな事をしている。同情か? 私を可哀想な自殺志願者だと憐れんでいるのか?」
「……っ」
窓の内側に居る少年は答えなかった。歯を食いしばっており、口を開く余裕さえも持っていなかったのだ。
構うことなく、日々貴は言葉を滑らせる。
「いらないお世話なんだよ。……お前、あの時の奴だろ? 掴みかかった私を憎んでいないのか? 助けない方がいいんじゃないのか?」
ぶつけられる感情の渦に、眼鏡をかけた生徒が小さく眉根を寄せた。
「――違、う」
短く唇を開き、僅かな音量を発する。
だが、その声は肝心の日々貴に受け取られなかった。
「私はお前なんかに助けられても嬉しくない。……お前、何かを失った事があるのか? ないだろうな、お前なんか。目指したい夢も無い。かといって、現実で自慢できる事もどうせないんだろう?」
ぎぎぎ、と乗り出した上半身の下で建物が軋む。二人分の体重が架かっているせいだ。男子生徒の腕力が足りていない為に、日々貴を引き上げられずに引っ張られている。顔色も乗じて、無理があるのは明白である。
日々貴はそんな様子に声を荒げた。ぶら下げられた腕が揺れる様に、怒声を上空に叩き付ける。
「むかつくんだよ、お前みたいな人間は! ただ茫然と生きている! 夢も現実も直視していない! そんな奴に同情心で助けられるのはごめんだ!」
「――ぼ、くは……」
震えた声音が空に溶けて消えた。腕を掴んでいる生徒の半身が、窓枠を一段と超えてしまう。次いで、日々貴が佇む高度も低くなった。滑る様に下がった。そのせいで日々貴の手足が反射的に震えた。
舌打ちをしてから、日々貴は生徒を鋭く命じる。
「離せ! 誰かに邪魔をされるのは、もうまっぴらだ!」
その指示を真っ向から受け、眼鏡をかけた男子生徒は顔を俯かせた。中性寄りの暗い顔が真下を眺める。ぶら下がっている日々貴と視線を交差させては、ゆっくりと口を開いた。
「――黙れ」
鈴夜湊のはっきりとした一声が、それだった。
初めは、日々貴が数秒間だけ呆然とした。
「お前がこの行為に何を思っているか関係ない。ただ、俺にはこうする権利がある。分かったらその口を閉じていろ」
落ちかけた腕を掴んだ男子生徒の雰囲気が豹変していた。一人称が『僕』から『俺』へと変わっており、その口調までもが威圧的な代物になっている。
日々貴は目を白黒させ、唖然とした表情で真上の顔を見た。
「な……え……?」
疑問が形に成らず、ただ空に霧散する。日々貴は男子生徒の変貌に全ての思考を持っていかれた。
「くそ。持ち上がらない……っ」
両腕で日々貴を引っ張りつつ、湊は歯を食いしばる。剥がれ落ちた表情の下で顔が強張っていた。汗を幾重にも浮かべ、眉根を強く寄せている。両手で握った義手への力みも僅かに強まった。
しばらくは湊の腕力と日々貴の重量が拮抗する。降りる気配は無く、昇る様子も見当たらなかった。
「……おい」
湊が喉から乾いた声を絞り出す。
「お前も俺の手を掴め。このままじゃ……落ちるぞ……!」
意表を突いた変わり様に呆気を取られていた日々貴は、遅れて首を振る。物音が立たない位の速さで顔を左右に捻った。
「ふ、ふざけるな。……何で、私がお前の言う事を……」
自殺志願者の弱々しい断りに、湊が視線を鋭くする。
「迷惑……何だよ、お前が」
鈴夜湊は鋭利な視線で日々貴を見下ろしていた。人を助ける、という大義には程遠い冷たさが面に出ている。
「今、お前に死なれれば、俺の気分が悪くなる……! それだけじゃない。学校での飛び降り自殺だ。他の人間にも迷惑が……かかる!」
説得とはかけ離れた言葉の度に、窓枠での軋みが一層と強くなっていった。皺が寄った湊の両腕が少しずつ動いた。
じりじりと引き上げられる日々貴。その周辺で穏やかな風が吹き、身体が横へと逸れてしまう。気流はすぐに途切れた。だが、湊の両腕が振り子の代わりとなり、左右へと不意に揺れていった。
「っ」
血が通った方の左腕が咄嗟に上がる。義手の先へと続いている湊の腕へと駆け寄ろうとしていた。途中で思い留まり、最後には日々貴が諦める。音も無くぶら下げ直した。
「おい……! 長くは持たないんだ……! 早くしろ……」
切羽詰まった様子で湊は日々貴を責めた。現時点では小柄の体型が宙で漂っている。湊の筋力が何とか落下を留めているのだ。しかし、本人は顔を真っ赤にして、汗と皺を顔中に浮かべている。明らかに無理をしていた。
「うるさい……! お前の迷惑なんか……私には……!」
日々貴が上空から目を逸らす。顔ごと地面の方に向けて、湊からの情報を全て遠ざけようとしていた。
その撥ね付けを前に、怒号に近い大声が唸る。
「――お前はあっちの世界で負けたんだ! 勝者の言うことぐらい、今は素直に聴け!」
湊の叫喚が高らかに響いた。
俯いていた表情が再び空を仰ぎ、驚愕の色に染まる。日々貴は湊の発言に自分の耳を疑っていた。
「は? お前、今、何て……?」
大きく開いた双眼で湊を見つめながら、日々貴が困惑に陥る。唇を震えさせ、ずっと焦点を定め続けた。
E・Dでリュネと名乗っていた日々貴は思考に耽る。つい数時間程前の出来事が口にされていた。現実での時間帯は早朝。数時間前に発生した事件について知っている者は少ない筈だった。
「どうして、それを……」
そう尋ねながらも、日々貴の語調には些細な確信が混じっていた。この男子生徒が少し前の出来事を知っている理由に、察しが付いたのだ。
ニュースや何らかの間接的な情報は考えにくい。空想で語ったにしては的を射すぎている。何より、湊は己を勝者と語った。まるで、当事者の如くに。
「まさか」
湊の顔に、雰囲気に、日々貴は幻の輪郭を重ねた。
悪夢を討ち果たした、最強のアバター。断罪裂剣のクリム。彼が持っていた威厳のある空気が、鈴夜湊から発せられていたのだ。激変した態度も悪夢だったリュネを倒したクリムに酷く類似している。
疑いようが無かった。日々貴は突き付けられた事実に驚嘆しながら、胸の内の結論を投げかける。
「お前が……断罪裂剣のクリム……なのか?」
力んでいた表情を短く暗くして、湊は答える。
「…………そうだ」
認めた上で言葉を引き継ぐ。
「俺はお前を倒した。そして、お前はその直後にこんな事をしている」
忌々しい、と言わんばかりに湊は語っていた。苦渋を顔に刻み、人の重さで張ったその腕を大量の汗で濡らしている。
湊の額から雫が一粒垂れた。日々貴よりも早く地上に落ちる。
「だから……迷惑なんだよ。俺が原因か? 俺のせいで飛び降りようとしたのか? …………ふざけるな。そんなもの、単なる八つ当たりだ」
鈴夜湊は苛立ちを露わにしていた。原因と思しき間接的な関与があったと公言しては、自殺後の影響を懸念している。
「この世が嫌で自殺するなら――せめて生きている俺達に迷惑をかけるな。……誰かに恨みを持っているなら復讐でも何でもしろ! この世に未練があるなら、死んだ後の事も考えろ! ……自殺を、自分の夢に利用するな……!」
「――っ!」
夢の世界で最強と謳われていた少年の評価に、日々貴は反発する。自分の表情を深く歪めた。身体を震わせて、唇を大きく開ける。
「お前……が……! 私の何を分かるって言うんだ!?」
喉の奥から叫んだ日々貴。
――その瞬間を狙った様に、数センチにも満たない落下が起こる。
「な……っ?」
突然の下降に驚き日々貴は絶叫を噤んだ。
「ぐっ……?」
湊が片側の瞳を閉じ、緊張の度合いと握力に集中する。だが、日々貴の身体は徐々に高さを減らしていった。僅かな距離ずつだったが、二人はその変化を確かに感じ取っていた。間もなくして掴んだ腕が離れてしまう、という事態も同様に悟っていた。
「くそ……! 汗か……!」
義手を掴んでいた両手を見下ろし、湊は苦しそうに呟いた。ただでさえ通常の皮膚より滑りやすい素材だった。そこに汗による潤滑と、腕力の低さが噛み合ってしまったのだ。
結果として、日々貴の高度を長く保つ事は不可能と結論が出る。
「駄目だ……! まだ…………っ!」
身体の落下を防ごうと湊は粘る。上半身を更に窓枠から乗り出し、限界まで繋ぎ止めようとした。しかし、鈴夜湊には筋力が足りていない。五秒も経たない内に、湿った掌の中には指先だけが残った。
「あ……」
細い呟きを日々貴が漏らす。
時を同じくして、右の義手が湊から完全に離れた。
上空で閉じていた掌が再び開く。
日々貴は無意識に左腕を伸ばした。求めたのはすぐ傍にあった支えだった。もう一度だけそこに掴まろうとしていた。
だが、日々貴の左手は音も無く空を切る。身体は真下へ落下して、願った高さから素早く遠ざかった。四階の窓枠と鈴夜湊の姿は瞬く間に離れる。小柄な日々貴の肉体も、重力に引かれて段々と加速していく。
そうして、室月日々貴は――落ちた。
学業が忙しくなってきました。二週間以内には更新する様心がけます。重いシーンなので筆が進みにくいですが、頑張ります。




