《現実世界》⑨ ”朝”
こちらも遅くなってしまいました。本当に申し訳ありません。
《現実世界》
人気が少ない校舎を一つの影が歩く。薄暗さが漂っていた廊下に次々と蛍光灯の明かりが広がっていく。だが、他に存在する者は居なかった。ただ進む人物だけが、足音を早朝の学校に積み続ける。
「…………」
天井からの光と影は重なり、姿は露わになっていた。線の細い、中性的な男子生徒の姿がそこにはあった。
表情は暗く、瞳に輝きは籠っていない。足取りも定期的だが、重く活気のない動きをしていた。淡々と歩く亡者。そう呼んでも過言にはならない様子だった。
「……」
男子生徒は幾つかの階段を昇り、目的の場所へと着いた。電子錠の数字盤を前にして、指だけが滑らかに動く。数秒して、ロックが外れた音がした。
扉の中へと入る。校門が開いてからまだ一時間も経っておらず、人の姿は何処にも見えなかった。また、そこの設備からして利用する者は限られていた。
少年が入室したのは、四階の音楽室。
かつて個人練習の為に良く訪れていた場所だった。
「ここから……なら」
茶色いカーテンに近寄り、左右へと開く。日差しが室内に差し込まれていった。陽光は仄かな温もりと共に壁際まで明かりの手を伸ばす。少年の背後に有った漆黒のピアノは光を反射し、掛けられていた音楽家達の写真が白光に染まった。
続いて、少年は大きな窓を全開にする。
風が吹き、肌を撫でた。カーテンが翼の如く空気に踊らされている。
「…………晴れてるな」
窓から顔を出し、男子生徒は虚ろな目で地面を見下ろした。少し離れた校庭で数人の生徒がランニングをしていた。目を凝らせば顔が見える距離だった。少年が彼等に気付かれる可能性もある。
しかし、全員が発している掛け声が注意を打ち消している。校舎の方を気に掛ける様な生徒はいなかった。
「大丈夫だ」
そう呟き、少年は――窓枠に足をかけた。
左手を壁に突きながら、より高い位置へと身体を引き上げる。二本の足で細い枠に立ち尽くした。僅かに肩を震わせながら、遮る物が無い正面に望む。土地の都合から階数を増やした高い建物が数多く目立ち、延々と続く街並みは早朝に活気を沈ませていた。
「…………」
静かに目を瞑った。
少年の視界を暗闇が覆う。同時に聴覚までもが遠のいた。校庭で走り回る生徒達の声が薄れていく。肌を撫でる風の感触さえ、少年は気に留めなくなっていた。
顎を小さく引いて、呼吸を整える。
少年の両足は震えていた。必死に抑え付けようとして、余計に全身が凍えた様に振動してしまう。
「は、は……は」
乾いた笑みがこぼれた。少年はゆっくりと瞼を開け、正面を睥睨した。短い時間だけ遠のいていた光景に対して、目を細めていた。
「……もう何もないのに。……私は、何を怖がっているんだ」
唇を引き締め、少年は震えを全身から失くす。
段々と息を吸っては吐く間隔が長くなっていった。少年は真っ直ぐに前を見つめ、表情の機微な動きさえも抑える。淡白になった顔は空を見上げ、早朝の天候を黙って受け入れた。
「…………っ」
そして、少年は窓枠の先へと一歩を踏み出す。そこには細い肉体を支える様な足場は無かった。重力に引かれ、宙に乗せた片足から落下していく。
世界が沈む。
少年は全身の力を抜いて、真下への引力に身を任せた。僅かな浮遊感の直後、素早く下降していく。四階分の高さがあった。地面に激突すれば血が飛び散るのは明白だった。けれども少年の瞳は安らかな色合いを保っていた。
「ああ……」
視界の端で、少年が自分の右腕を発見する。
「最後まで邪魔をするのか」
ずっと疎んでいた、偽物の義手。それが少年の身投げに逆らうかの如く、窓枠の傍で漂っていた。落ちようとする身体に反し、立っていた場所へと手を伸ばす格好だ。
「もう、いいのに」
そう言い放ち、少年は固い腕から目を逸らそうとした。
――寸前。
その手が誰かに掴まれた。
今回は短めです。次話はもっと早く更新するつもりです。




