《現実世界》① ”消失”
新キャラ登場! ここからMissingの意味が分かってきます。
《現実=とある日暮れの交差点》
暗闇が周辺を制している。街灯が点々と道を照らしていたが、全ての闇を払える程に光量は無い。霞がかった夕闇が延々と伸びていた。
その漆黒を遮るようにして、一本の太い街灯が小さな停留所を明るくしている。バスの到着時刻を伝える電子掲示板が音を鳴らした。現在より数分後の時刻が横に流れていき、次に目的地の文字が示されていった。
「もうすぐか」
バスを待っていた、たった一人の乗客が呟く。そこに居たのは黒いケースを片手に下げた少年だった。外見は十代半ば、顔はかなり端正な部類に入る。身体の線も細く、一見だけでは女性と身間違えてもおかしくない。
彼は軽く身を乗り出し、闇の奥で輝くライトを発見した。二つの光が少年を目指して近づいてきている。少年はバスが来ていると確信した。
タイヤが地面を揺らす振動が耳を揺さぶる。時間が経ってくたびれたスーツの襟をただし、少年は目の前で扉が開くのを待ち侘びた。
周辺には誰もおらず、深い闇が直線状に並んだ光以外を飲み込んでいる。そんな場所で、少年は少しだけ恐怖と孤独を感じていた。それ故に、バスの到着が少年に一時の安らぎを与えてくれる。
「やっと帰れる……」
少年は今日の事情で疲れた肩の筋肉をほぐした。疲労と満足が混じり合った顔で手元のケースに視線を降ろす。橙色の光と重なっているが、縦長いケースは艶の有る濃い茶色をしている。長年の付き合いがあるケースで、少年にとって感慨深い。それを凝視しても十分は飽きる事が無かった。
――だから、気づくのに遅れた。
「え」
日頃から敏感な耳が、真っ先に違和感を伝える。少年は素早く首を正面に戻した。
眩い二つの閃光。巨大な圧迫感のある鉄塊。
目と鼻の先に出現していたのは、先程のバスだった。停留所に突入する様に斜めの軌道で加速している。粗末な停留所が破壊され、ばきばきと悲鳴を上げていた。それをゆっくりと感知する少年の神経も麻痺する。
切り離された思考だけがそこまでの瞬間を捉えていた。少年も逃げようと身体を動かしていたのだ。けれども、間に合わない。痺れた全身は石像と化している。見開いた大きな瞳に、街灯とバスのライトが焼き付いていった。
少年は激突され、大きく宙に舞う。
痛みは感じない。それどころか、あらゆる五感が抜けきっていた。全身に麻酔をかけられた様な脱力感さえも覚えた。無重力の海を漂っている、そう思ってもいた。
やがて少年がコンクリートの上に転がり落ちる。大きな衝撃が身体の芯まで揺さぶられる様だった。ばき、ぼき、と実際に骨が折れる音もした。まだ痛みは感じていない。けれども少年は急激な不安を感じる。今の落下によって相棒が手元から離れてしまったのだ。
光も、音も、匂いも遠ざかっていた一瞬。
少年は残った気力でケースを探した。視界の隅で茶色い長方形がぼんやりと浮かび上がった。距離感は掴めない状態だったが、少年は近くに寄せようと腕を伸ばす。奇跡的に腕は少年の言う事を聞いてくれた。視界の中心で、整った指先が向こう側へと距離を縮める。
その景色を太い棒が遮る。
停留所の横にあった街灯が腕の真上に倒れようとしていた。細長い影が薄らと肘の部分に交差する。
そこで、少年の意識は途切れた。
三月二十八日深夜、ある停留所に一台のバスが激突した。
この交通事故によって世間に大きな波紋が広がった。今日では殆どの交通機関は自動運転で賄われている。だが、事故を起こしたバスには運転手が就いていた。これは現場が過疎地方であり、無人運転が未だに普及していなかったのだ。更に有人運転による営業は傾く一方。バス会社の運転者は解雇される者が多く、その結果として事故を起こした運転手はかなりの過重労働を強いられていた。
事故を引き起こした運転手A・H(三十八)は事故にて死亡。バスには乗客が誰も乗っていなかったが、停留所において一人の少年が事故に巻き込まれた。彼はすぐに救急車に運ばれ治療を受け、現在は命に別状はないと言う。
今回の件を受け、交通機関における運転方法の大幅な見直しがささやかれた。有人運転の危険性が主張され、運転手と言う概念自体を取り払う動きがある。しかし、現時点で働いている運転手は日本全体で数百人には及ぶ。仕事を失くした彼等の扱いをどうするかも決めておらず、話し合いは延々と続いていった。
数日後の四月初旬。
交通事故にあった少年は、重い瞼をゆっくりと開いた。
「……ぁ…………」
声が思わず零れる。全身が思う様に動かなかった。身体中に圧迫感があり、触感さえも存分に機能していない。少年は戸惑った。ここはどこなのか、と問おうにも絞り出せる声はとても掠れている。誰かに尋ねられる様な様子ではなかった。
自分の記憶をまずは整理する。目を細め、少年が頭の中でちらつく光景を掘り返していった。間近に迫る閃光。衝撃。離れてしまったケース。そして――。
「――日々貴!?」
誰かが少年の名前を読んだ。聞き覚えのある声だ。
左手の方を見やると一人の女性が目に入った。少年に通じる端正な顔立ちでありつつ、頬には涙の跡がくっきりと残っている。少年は親しい人物を傍にして全身の力を少しずつ抜いていった。様々な思いが胸を駆け巡り、微かな小声となって声に出る。
「か…………ぁ……さ、ん」
少年の母親である彼女が身を乗り出して叫んだ。
「……日々貴、日々貴! 私が、分かるのね?」
首を縦に振ると、その顔が再び泣き出しそうに歪んだ。ナースコールへとすぐに手を伸ばす。まもなく医者と看護師が飛んで来るのだろう。日々貴と呼ばれた少年少しずつ状況を把握していった。
事故にあい、救急車に運ばれ、手術を受けた。身体が思う様に動かない事にも得心が行った。全身に麻酔がかかり、その上に包帯が巻かれているのだ。手足に神経を張り巡らせると良く分かる。寝そべった左足と右足。母親に強く握られた左手。最後に掛け替えのない右手が――――感じられない。
「え…………?」
ぞくり、と恐怖が湧き上がる。右手の指先を動かそうにも、身体にかけられた布団を擦る感覚が伝わらない。それどころか、温度も欠けている。網膜には伸ばした右腕がくっきりと映っている。意識が途切れる前には動かせたが、現在は動かせない。記憶に基づいた矛盾は、日々貴を激しく動揺させた。
「だ、駄目よ、日々貴! 動かないで!」
母親が上半身を起こそうとする日々貴に覆い被さった。ただでさえ筋力の無い日々貴が抵抗するのは困難だ。肉体の奥で激痛が走る事も認める。怪我の悪化を心配する母親に逆らうのも辛い。
それでも、日々貴は諦めなかった。首だけでも持ち上げ、ベッドの上で沈黙を保っている右腕を視野に収める。痛みに抗った果てに見えた光景は全てを簡潔に物語っていた。
「――――」
時が、止まった。
気絶の瞬間を日々貴は思い出した。伸ばした右腕へと倒れる街灯。その重量が、細い一本の腕を容易く潰したのだ。本能が激痛と衝撃から日々貴を守ってくれていた。しかし、薄い記憶の殻は風船の如く破裂する。
絶叫が狭い個人用の病室を満たした。
「うあああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
――日々貴の右肘から下は、何も無かったのだ。
がたん、と大きく揺れるベッド。
「大丈夫だから」という声が日々貴に何度も投げかけられる。白衣の男と女が急ぎ足で病室に入って来ていた。誰もが残った三本の手足を抑えようとする。暴れるつもりも無かったが、彼等が束縛してくれるまで日々貴は荒れ狂い続けた。
幼い頃から音楽家になりたいと夢見ていた。練習や演奏会には熱心に取り組んだ。時には泣き、止めたいと考える事もあった。けれども日々貴は諦めず、努力し続けた。演奏に必須な利き腕が切断されたこの日までは。
こうして、出御高校の二年生に進級する直前に室月日々貴の夢は消失した。
絶叫が響く部屋の隅。そこにはぼろぼろになったケースが立てかけられていた。深い傷の奥からは楽器が日々貴を見つめている。入っていたのは、弦が切れてひび割れたバイオリンであった。
ちょっと重い話でしたが、まあ、サブタイトルはそういう意味です。次回も早目に更新します。恐らく一週間後です。また、月曜日も休日なのでそちらは「彼の能力はハーレム製造じゃありません」を更新しようと思います。




