《E・D内部/クリム=鈴夜 湊:視点》⑧ ”ぼっち”
ちょっと間を空けてしまいました。クリム視点からの続きです。クリムと悪夢の話し合いが主な内容です。
《E・D内部/クリム=鈴夜 湊:視点》
三つのランプを三角形に並べた犯罪証明書が目の前に現れ、全てが同時に赤く灯った。びーっ、と騒がしい警告音が耳の内で反響する。これで俺は指名手配同然の犯罪プレイヤーとなったのだ。
嫌悪さえしている身分に堕ちたと言うのに、俺の心はやけに穏やかである。
……どうしてだ?
自分に訊くとすぐに答えが返ってきた。この事件に目を背けず立ち向かえた事に、俺は本心から満足していたのだ。
「…………はっ」
己の愚かしさに笑みが零れる。
結局、俺も自身の利益しか考えていなかった。自分は他者への思いやりが欠けた人間だと分かっている。だが、芳野結那を良心から助けた訳ではないという事実が俺を責め立てていた。僕は俺を許せなくなった。行為から別にある、その魂胆に見えた意志が。
――情けないな、俺は。
「……何、で、ですか…………」
背後から曇った声が聞こえて来た。不鮮明な響きに俺は少し戸惑ったのだが、すぐに誰か思い当たった。悪夢の本体、芳野結那が俺へと尋ねているのだ。
俺は振り返り、無愛想に口を開いた。
「単に俺がこうしたかっただけだ。…………っ」
気にするな。そう告げようとする直前、俺は不意に口を閉じてしまった。不可思議な現象に目を奪われてしまったのだ。芳野結那のアバターを包んでいた闇が、少しずつ薄くなっている。
「感謝は、して、います。…………でも」
影の衣が消えていく度に、彼女の音声は明瞭になっていった。これまではあの黒い霧が発音を塞いでいたのだろう。
「恨んでも、います」
影色の仮面に彫られた眼孔が淡く光り、俺へと突き刺さって来る。
「……そうか」
意外な告白だった。俺は芳野結那ではないので、彼女の心情を完璧に把握する事は出来ない。共感したのはせいぜい虐めが辛かったという感情だけだ。不快と謎が半々に俺の興味を引いていた。
俺は無言のまま耳を澄ます。E・Dでの名前は知らないが、目の前のアバターは文句を言う訳でもない様だ。語勢の起伏がとても平坦に感じられた。
「怖い、です。捺祇沙耶子からしたら……私は友達じゃなかったかもしれません。でも。……私は誰かに助けて貰わないと、生きていけないんです。先輩みたいに、強くなんか、ないんですよ」
「俺が、強い?」
彼女は間違っている。俺――鈴夜湊が強いと評される人間ならば、この世界に弱者など居なくなってしまう。ユリア……何だっけ。とにかく、あの同級生も俺に対して臆病だと見なしていたようだ。そうした酷評を真に受けるのは辛いが、自分の的確な人物像はそれ以外に考えられなかった。
「……この世界で、ずっと頑張ってきたんじゃないんですか? 騎士団最強のプレイヤーと言われるまで、ずっと頑張ったんでしょっ? それなのに、どうして私なんかの為に全てを捨てちゃったんですか!?」
気迫をひしひしと感じるのだが、俺が理解していないせいか空回りしている様だった。悪夢――芳野結那の精神だけが泡の如く弾け飛んでいく。復讐を果たせなかった苛立ちが再び燃焼していた。
…………いや、違うのか?
彼女の必死な様子が俺の心情をずらした。結論はまだ早すぎるみたいだ。
俺は頬を指先で軽く掻き、芳野結那の琴線を壊さない程度にぞんざいな言葉を並べた。
「自己満足だよ。お前が思っている程、高潔な考えはない。……お前は知らないだろうが、アイツは俺を馬鹿にしたんだ。……だから、斬ってやった」
俺の返答を耳したであろう彼女が、声を湿らせる。
「それ、が…………強いって、言ってるんですよ」
ひっぐ、うっぐ、と彼女の喉が妙な音を鳴らした。暫く人情の辞書を突いた後、それが彼女の嗚咽だと気づく。年下の後輩を泣かせてしまった。首筋に気味の悪いが熱が纏わりついていく。どうすればいいのか、分からなかった。
同じ様な場面はつい最近にも廻っている。だが、あの時点で取った対応が正しかったのかは今でも決まっていない。ひたすら謝るのは駄目ではないか、という心配に心が締め付けられた。
対人経験が乏しい俺には他の手段が残っていない。涙を流させたまま、彼女を宥めるしかないだろう。一息に質問を投げかけようと、俺は腹を据えた。
「何が言いたい?」
闇の気流が俺の足元まで漂ってきた。彼女の姿がぼんやりと外気に晒されようとしている。無知な故に尖った声で傷付かないだろうか。俺は悪夢の黒い衣が順調に消えてゆくのを見張っていた。
「先輩は、一人でも生きていけるから。……全部、捨てられるんですよね? ……私には、そんな強さなんか、ありません…………」
――大丈夫だ。彼女は、弱くなんか、ない。
芳野結那は無事に応じてくれた。余計な心配だったかと安堵し、俺は彼女の言う強さに独自の思想を投擲する。
「俺はそうは思わない」
頭を振り、悪夢へと双眸を充てる。
「……逆だよ」
短く息を継ぐ。今から放つ言葉に芳野結那の一生が左右されるかもしれなかった。意図せずして鉄鎖でも絡まったかの如く気分が重くなる。それでも、俺は悪夢の両目へと視線を交差させた。
「俺が弱くて、お前が強いんだ。……これは、俺が保障する」
「……そんな嘘、いりませんよ。私が、あんまりにも惨めじゃないですか」
さり気ない自虐に俺は矛盾点を感じた。彼女が先刻追及していたのは自分の弱さについてだった。それが俺からの論点になるとすぐに否定していた。自分は良くて、他人は駄目。捺祇沙耶子の調教じみた妄言の為だろうか。自分を信頼していない。
ああ、そうか。
芳野結那を縛っていたのは……彼女自身なのか。
「嘘じゃない。お前は本当に俺なん……っ。俺より強いんだよ!」
危うく「俺なんか」と口にするところだった。叫んで誤魔化してはみたが、自分でも動揺しているのが分かる。彼女を持ち上げる為に自分を格下に置こうとしていた。己を見下す彼女と同じである事を直前に気づけて良かった。
比較する俺を卑下していたら、尊重した彼女の評価は相殺されてしまうではないか。
――仕方が、ない。言うしかないんだ。
これから語るのは俺の恥に相当する部分だった。自分を擁護する言葉を建てられれば、どれだけ楽になるだろうか。だが、俺は有りのままに唇を動かした。
声音を凛と響かせ、彼女へと聞かせてやる。
本当の《ぼっち》という奴を。
「いいか! 俺は同級生に声をかけることさえ出来ないんだっ! 何処かでミスをすれば恥ずかしくてすぐに顔を赤くする! それを笑う奴には腹を立てる! ……だが、何もしないし、何も出来ない! そんな俺を強いって言うのか!? ……言える訳が、あるかぁぁぁあああああっ!!」
殆ど自棄っぱちだ。
この先へと進む為に必要な話題とはいえ、俺の心は確実に擦り減っていた。肝心の彼女は一向に動く気配が見られない。俺の情けなさに呆けている様だった。
「だけど、お前は違うっ」
びっ、と失礼ながら彼女に指を向ける。
「お前は、俺や三原茜に平然と声をかけられただろうがっ。保健室でもそうだ。きちんと俺に礼を言ってくれたじゃないか! 捺祇沙耶子はしなかったぞ! 俺はっ、俺だったら……恐らく出来なかった。――この意味が、分かるか!?」
「…………っ」
芳野結那は答えを出さなかった。しかし、俺は訴えるが為に模範解答を颯爽と響かせる。
「俺に出来ない事をやれる程、お前は凄いんだっ! 自惚れろとまでは言わないっ。だがな! 俺を強いと言うなら……そんな俺の言葉だけは、信じてくれ! ……お前は強いんだっ!」
そこで俺の息が途切れてしまった。喉が休憩を欲している。伝えるべき事実を言い切ったかが懸念だったが、口は次早に呼吸を始めた。はあ、はあ、と漏れる声に自己嫌悪が埋没していた。
…………くそ。別に《ぼっち》そのものが悪いんじゃない。ただ、そんな仇名が彼女には似合わないというだけだ。
彼女へと突き付けていた指はいつの間にか下降していた。精神的な疲労が腕への命令を妨げたのだろう。
まだ充分じゃない気がした。倉庫に留まっていられる時間は残り少ないのだ。急げ、と彼女へ指す指が再度振り上がろうとした。
「…………信じて、いいんですか」
人型をした闇の奥から光が走る。
「――――え」
伸ばそうとしていた腕が止まり、無意識の内に俺の目が動いた。悪夢の頭部へと向き、ほぼ露わになった顔を凝視する。
「信じたい……です。でも! 先輩を信じる理由が、私にはありません」
彼女の声が搾り取られる様にか細くなっていく。闇を払い続ける光は順調にその身体から溢れていた。だが、全身を元の姿に戻すまでには足りていない。
芳野結那は俺を認める為の言葉を求めていた。彼女を悪夢から目覚めさせるにはもう一押しが必要だ。
「答えて、下さい! どうして私を助けたんですか」
その問いは俺の心根を真っ直ぐ貫いた。同情や正義感といった命題が浮かんでは消えていく。自分の脳裏に残った理由は中々捉え難い。両目を凝らしてようやく一部が分かる程だった。
本音では俺自身の為である。それが結果的に芳野結那を助けた事に繋がった。
問題はその発端だ。
いつから悪夢を単純な敵だと見なくなったのか。そこから捺祇沙耶子が主犯のいじめを把握したのだ。彼女が訊きたがるのも無理はない事だった。
「俺は」
――何が裏側の事情を気付かせる原因となったのか。
「お前から」
…………そういう、ことか。
考えてみれば単純すぎる問題だった。悩む必要などなかったのに、余計な時間を食ってしまった。理由は初めから形にされていた。言及している芳野結那は足元を確認していなかっただけなのだ。
悪夢と初めて邂逅した日。答えは彼女が自ら口にしている。
静かに息を吸い、俺は述べた。
「俺は、お前から、『助けて』と言われたんだ。だからお前が単なる犯罪者だとは考えなかった。逆にお前を助けようと、考えた。…………これが、理由だ」
名前も知らないアバターの両目が、透けているカーテンの向こうで大きく開いた。
彼女の息遣いがはっきりと聞こえる。鮮明な声音が震えながら疑問をぶつけて来た。
「そ、それだけ……ですか? リューゼが、怪しかったとかじゃ……」
「あの女の顔も覚えてなかった。顔もない悪夢の方が衝撃的過ぎて、忘れていたんだ。そんなお前に『助けて』と言われた」
「で、ですが! リューゼからも同じことを言われたんじゃ」
芳野結那の推察は当たっている。しかし、俺は彼女の救援を見捨てたつもりはなかった。寧ろ率先して終わらせていたのだ。
「リューゼを追っていた二人組から助けてやったさ。当時はアイツらとリューゼが繋がっているとは知らなかった。……大方、あの女の友人かなんかだったんだろう。ところが、悪夢となったお前に襲われ、主犯を問い質そうとした。こんな所だろ?」
俺の考えに芳野結那が小さく首肯する。
E・Dにおいても複数人での私刑を行っていたのだろう。虐めに耐え切れなくなった彼女は悪夢の力を用い、逆襲を開始する。そう考えれば、大半の辻褄は合っていた。
「お生憎、生粋の《ぼっち》なんでな。親しい友人なんかはいない。初対面の人間に抱く先入観なんか持ち合わせちゃいないんだ。……例え、顔が見えな……かった、としてもな」
ここまで論じた証拠は過去形へ成りかけていた。悪夢にして芳野結那のアバターは九割が影の衣装を消失している。彼女の顔はもうすぐ分かろうとしていた。
闇を払う輝きが顔へと駆けてゆく。その黒い破片の背後からは何粒もの雫が流れていた。
「……先輩。…………自分で言っていて、悲しく、ないですか……?」
「うるさい」
言い返されたのは元気が出た証拠と考えていいのだろうか。他人に指摘されるとより一層恥じ入ってしまう。何だか複雑な気分だった。
「それで、お前はどうなんだ。信じるのか、信じないのか。……時間がないんだ。できれば早くして欲しい」
芳野結那の操るアバターが俺を見上げる。瞳にはこれまでにない意志が詰まっている様だった。悪夢として復讐を目指していた頃とは違う。本当に強い、と言い換えられる思いがひしひしと伝わってきた。
闇の幕越しに映る瞳に見惚れ、俺は感慨深い気分を持った。
――――俺は。
彼女の唇が開く。
――――今度こそ、間違えなかったのだろうか。
「私は、信じます。先輩のことを」
その直後。
影と霧が入り混じった面が放散した。飛んでいった破片は光へと昇華し、音もなく夢の世界から消えていく。俺の正面に立っているのはもう悪夢ではない。妖精使用者の数ある種族の一つ。猫の耳を頭上に生やした猫妖精のアバターだった。
きぃぃん、と耳鳴りに近い高音が聴覚を駆ける。
彼女の変化は姿の露見だけに終わっていなかった。音源である猫妖精の背中から眩く輝いた六本の縄が伸びている。光が少しずつ拡張されており、先へ進むにつれ鋭利な傾角を描いていた。
まさか、と察した途端に光が弾ける。
――見えてきたのは、痛覚を与える黒い細剣であった。詳しい原理は分からないが、芳野結那は悪夢の力を支配下に置いたのだ。
「…………やっぱり、お前の方が強いよ」
能力の性質からして彼女はいじめに色濃い憎悪を抱いていた筈だ。俺でさえ数年をかけても克服できないトラウマ。それを、芳野結那は瞬く間に克服してしまった。
――そんな勇気が、あの頃の俺にあったなら……。
郷愁じみた感銘が無理やり込み上がってきた。掘り起こしたくない記憶を何とか胸にしまい込み、別の興味へと心を切り替える。俺はずっと気になっていた事を彼女へと尋ねた。
「名前を訊いても、いいか? この世界での……悪夢じゃない、お前の名前だ」
「はい。……私は、シャロ。……シャロって言います」
「シャロ、か」
舌の上に乗った響きが柔らかな余韻を残す。中身と外見に似合った良い名前だと純粋に思えた。そうした高評価を面と向かって施す度胸はないので、割愛はさせてもらう。せめて出来る限りは覚えておこう。例え、もうじき消えて亡くなるとしても、だ。
「……シャロ」
俺は畏まりながら彼女を呼んだ。
この倉庫で許された時間は数十分もないだろう。頼み事は簡潔に言わなければならなかった。しかし、相手は信頼できる者であるべきだ。名前を知らないのは論外だった。
「頼みがあるんだ。……クリムとして、お前にしか頼めない」
「は、はいっ」
シャロが緊張したかの様に双肩を張る。苦笑が俺の口元に浮かびそうになるが、冗談と思われたくはない。俺は直球に要件を聞かせた。
「痛覚の剣で、俺を退場させてくれ」
「え……っ?」
影色の細剣が彼女の背中でうねる。俺の願いに応じているのだろうか。生まれ変わったシャロの武器は純度の高い漆黒を放っていた。
「せ、先輩? どうして」
「もうすぐここに騎士団がやって来る。俺が予告しておいたからな。……だが、俺は元同僚の手を煩わせたくはないんだ。…………だから、お前の力を借りたい」
捺祇沙耶子を騙す鍵ともなった予告だ。実際には送った退団届に計画の時間や場所を偽って書きつけていた。マーディ宛に設定したので、読んでくれていると思って良い。そして、彼ならば俺が冗談など言っていないと分かるだろう。
犯罪プレイヤーの所在地が判明した。この理由だけで騎士が動くには十分だった。マーディはすぐに大群を引き連れて止めに来るかもしれない。だが、偽物の計画が直行を防いでくれていた。稼いだ時間でリューゼを退場させ、シャロを止めた。最後の自首まで事が運べば、この上ない結果になる。
――付け加えるなら、凶悪な犯罪者を退場させた善良なアバターを目撃させたいのだ。
「……首でも落とせば簡単だろ。急所判定で損傷率は百を超え、俺は一発で夢から覚めるんだ」
とん、と手刀で首筋を叩いた。シャロの細剣で同じ個所をなぞれば、俺の頭は埃臭そうな床上へと落ちるだろう。気味が悪い光景だったが、俺の意識は強制的に無くなるので心配は不要だった。
「頼む、シャロ。お前だけが頼りなんだ」
「で、でも……。この剣で斬られたら、痛いんですよ……?」
「痛いと言っても、死ぬほどの刺激があるわけじゃないだろ。今まで貰ったダメージ通りなら、俺が死ぬ心配はしなくていい」
シャロが必死に首を左右に振った。
「先輩が指してるのは首なんですよ!? そこを落としたらどうなるかなんて……私にも分かりません。……で、出来ませんっ。私なんかには、出来ませんっ!」
「シャロっ!」
倉庫に俺の怒鳴り声が反響する。一つしかない窓がびりびりと振動していた。薄暗い屋内にて舞う粒子の流れも変わる。俺達の周囲へと光の粉が飛んでいった。
介錯を頼んだシャロの顔面は蒼白に染まっている。彼女に無理強いしている事は承知していた。それでも、俺は痛みを持ってこの夢から目覚めたかったのだ。
譲れない一線。掴み続けた拘りは絶対に掌から漏らさせはしない。
彼女の両肩を掴み、俺は必死に叫んだ。
「何があってもお前に責任は問わない。頼む。お前にしか頼めないんだっ!」
シャロが下唇を噛んだ。
芳野結那は良心の崖で葛藤しているのだろう。犯罪者となった俺の処刑ならば犯罪証明書を気にしなくても大丈夫だ。だが、俺が志望したと言っても最終的に手を汚すのは彼女だった。優しければその分だけ身体は重くなる。背後の細剣が一閃するだけで現状は飛び越えられた。
ただそれだけが、彼女にとっては難しかったのだ。
「もしも俺に恩を感じているなら、頼みを聴いてくれ。おこがましいのは分かっているっ。それでも、だ。……俺はお前の力を借りたいんだ」
「先輩……っ」
猫科を彷彿させる大きな瞳が強く瞑られた。彼女なりの迷いが胸中で渦巻いているのだろう。
大丈夫……だよな。
俺を捉え直した時、晴れ晴れとした眼光が消えているのではないだろうか。そうした危惧が短時間に何度も脳裏を反復した。
細やかな呼吸が彼女の口から瞬く。
ゆっくりと、その目は開いた。
「――分かりました」
芳野結那は俺の為に絶壁を踏み越えてくれた。明確な了承を耳にする限り、彼女への不安は杞憂に過ぎなかったようだ。
シャロが背後に有った六本の触手を翼の如く振り動かした。びゅお、と一本が俺の鼻先を通り過ぎ、離れた真横で構えられた。遠心力の貯蓄。歪曲した触手が直線に戻ろうとする際に、俺の首を影色の刃が切断するのだろう。弾性を真似た力量ならば易々と肉体を切り分ける筈だった。
「ありがとう、シャロ」
俺は彼女の両肩から手を離し、一歩だけ後退った。剣に当たる部分と重なる様に立ち位置を調整する。一歩、二歩と下がった。この辺りで大丈夫だろう。
「頼んだぞ」
ぎこちないだろうが、俺は彼女へと微笑んだ。シャロに罪悪感を持って欲しくなかった。人を傷つけた記憶がこれで和らぐとは思えないが、俺に出来る最大の処置だ。笑顔の経験が不足して顔の筋肉が不自然なのが手に取って分かる。酷い代物を見せてしまったのが逆に申し訳なかった。
……笑わなくても良かった気が……。
「いきますよ」
「あ、ああ」
芳野結那は俺の欠点を指摘しようとはしなかった。それを安堵する一方で、何の反応も見えてこないのが気になる。俺の笑顔は彼女の心に届かなかったのだ。
所詮、コミュ障はここまでが限界か。色々と諦めが付いてきてしまった。
「……痛い、ですからね。悪く思わないで、下さい」
俺の顔を凝視出来ない下方へと俯きつつ、シャロが密かに忠告した。もしかしたら俺の身体を気遣っていたのだろうか。自分から言い出した事だ。そこまでの注意は彼女にとって不要だった。
何より、俺が欲しているのは、痛みそのものである。
そう思った途端、俺の意識が勝手に研ぎ澄まされた。世界から切り離され、一部の五感だけが鋭くなる。
「――っ! もう来たか」
俺は倉庫の扉に視線を追いやった。両耳が大人数の足音を察知している。大半が淀みない足取りである事を踏まえると、かつての仲間が到着したようだった。
「早くしてくれ、シャロ」
「え、……え?」
「騎士団が来たんだ! もう時間がないっ!」
俺の焦りを誘う様に倉庫の周囲が騒がしくなり始めた。シャロも壁際を見回し、催促された理由に気づいたらしい。正面の俺へと向き直り、準備していた触手に片手を添えた。
軽く離れた少女が双眸を閉ざした。力んだ表情から察するに、俺の最後を目にしたくはないらしい。罪悪感の他に気分の問題もあるだろう。俺も人の頭が落ちる瞬間には居合わせたくはなかった。
反対に、目を強く見張ってやる。自分が頼んだ最後から目を逸らしてはいけないと思ったのだ。首筋と重なるのであろう細剣に目配りし、一瞬で終わらせてくれと懇願もした。滅多切りにされる自分を想像すると、背筋が冷たくなった。
……シャロなら、大丈夫だ。
俺は彼女の力を信じ、刃が飛んでくるのを待った。
「――ごめんなさいっ、先輩!」
細い腕が真横へと振り抜かれる。ぶんっ、と斬られた風が俺の所まで流れて来た。
影の触手は、その軌跡を追って走り出す。
緩慢ながら確実な一振りが近付いて来た。光を伴わない闇の帯が宙に目視出来る。剣はやけに遅かった。痛みから逃げたいと本能が喚いているのだろうか。それでも、俺は避けようとは考えなかった。
――あいつは、もっと痛かったんだろうな……。
遂に剣が俺の視界から消えた。顔の下へと潜っていったのだ。漆黒の刃物から発せられる冷気が首に当たっている。もう少しだ。
「馬鹿ああああああぁぁぁぁっ!」
俺でも、シャロでも、マーディでもない声が倉庫に現れた。
「なっ!?」
いきなりの呼号によって集中が狂わされる。二割程の意識が声の主へと集った。甲高い、女子の声。知り合いがいない俺には不自然な罵倒だった。誰だ、と一致する声音を過去から検索する。
待て。……一人、居た。
最近ならばある異性と関わっていたではないか。騎士団の中から探す余り、すぐには思いつけなかった。視野を広げた途端に彼女へと正体の糸が繋がった。
だが、新たな疑問にも結び目が括られてしまう。
何で、お前がここに来てるんだよ。
――ユリア。
その時点で俺は夢の世界から退場した。尽きない謎を抱えたまま、現実での朝を迎えるのだろう。別にE・Dでなくても本体には会えるのだ。彼女に訊く機会はいつでもある筈だ。
…………名前、思い出さないと…………。
視界は黒く染まり、全ての感覚が根こそぎ失われる。俺はクリムという肉体を捨て、底の見えない暗闇に意識を沈めていった。
次回は最低でも四月十二日は更新したいなー、と思っています。色々と忙しいので遅れるかもしれません。なるべく早く投稿できるよう頑張りたいです。(感想などをもらえたら、確実に早くなると思います。)




