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《現実世界》⑥ ”決別”

E・D最新話です。エアラインと続けて無事更新できて良かったです。

《現実世界/出御高校》


「あー、芳野……さん? 今日は休んでいて学校にはいませんけど」


 一年生の教室が並ぶ廊下。掃除時ということもあり、三原茜が遮る扉は人の出入りが多かった。二年生の彼女が何事か、という好奇の目も辺りから向けられている。茜は目立たぬように小声を発した。


「そう……。ありがとう」


 茜は一年生の女子生徒に礼を述べ、その身体を音もなくどけていった。

 横に移動した茜の視線が教室内部へと差し込む。化粧っ気が強そうな女子生徒は見当たらなかった。面と向かい合わない、という事実に茜は肩から力を抜けさせた。

だが、昨夜の夢に関する情報が得られない為に落胆もした。


「あーもう、気になるっ」


 むしゃくしゃと茜は憤った。

 悪夢が再びユリアの前に現れた昨日。クリムが黒いアバターを断ち切ろうとする寸前で彼女は妨害に出てしまった。大剣を支える騎士の腕を後ろから抑え付けたのだ。

 力を尽くした甲斐があり、美貌に長けた細腕でも処刑を防ぐことは出来た。代わりに失ったのはクリムこと鈴夜湊からの情報である。


「大丈夫……なのかな、結那ちゃん」


 彼女の瞳が不安げに俯いた。次なる目的地へと歩く速度も落ちてゆく。廊下を突き進む足音に溜息の煙が重なるようだった。

 脈絡なく、彼女の顔が教室の方を振り返る。


「湊君は……、どうするつもり……なんだろ」


 外から入り込む陽光が生徒達の姿をまざまざと浮かび上がらせる。過ぎ去った教室に他の二年生も訪れている様子はなかった。茜は掃除に勤しむ後輩達を眺めていた。

 しばらく捻っていた彼女の姿勢が直される。


「行かなきゃ、ね」


 彼女は止まっていた一歩を前へ踏み出した。




 次に訪れたのは出御高校の図書室だった。出入り口に設置されたカードリーダーに学生証を通し、茜は紙の匂いが密集した室内に入る。


「茜? どうしたの……?」


 一番に出会ったのが小さな縁なし眼鏡をかけた少女だった。茜と同じ二年生であり、彼女の友人でもあった。

 図書委員という役割を担っている同学年の彼女に、茜が早速歩み寄る。


「訊きたいことがあるの、ふみちゃん」


 本の貸し出しを行うカウンター越しに茜は身を乗り出した。突然の尋問に茜の友人は戸惑いの表情を見せる。しかし、彼女は構うことなく質問を重ねた。


「昨日の夢についてだけど。み……、クリムから何を尋ねられたのっ?」

「ちょ、ちょっと待って! 近いって!」


 あまりにも接近する茜を少女は掌で押し返す。


「お願い、どうしても知りたいの」


 彼女の緊迫した様子が静かな図書室を騒がしくした。ここにも掃除の手は届いており、箒を抱えた生徒が本棚の陰で彼女達を横目で窺っている。

 茜の友人――昨夜、E・Dで悪夢の襲撃を受けた少女は茜の耳元へ顔を寄せた。


「どうしたのよ……。何で茜がそんなこと気にするの?」

「い、色々と事情があって」


 言葉に詰まった茜を一瞥し、図書委員は顔をしかめて口を割った。


「何か……あの黒いアバターに狙われた理由に思い当たることはあるかって」

「あったの?」

「ないわよ。私の知人にあんな化け物じみたユーザーなんていないわ」


 首を横に振った親友に茜はぼんやりと応じた。


「そっか…………」


 カウンターの平面に茜は視線を降ろす。すぐ隣には返却された本が平積みになっていた。

 出御高校にはセルフの返却機器が揃っているが、戻ってきた本を棚へ戻すのは図書委員の役割である。期限内に本が返ってこなければ彼女達が苦労するのだ。かくいう茜もかつて本を返し忘れたことがあり、彼女から説教を貰った経験があった。


「でも」


 思いがけない反語に茜が食らいつく。


「何!? やっぱり心当たりがあるのね!」


 カウンターに勢いよく彼女の重心が乗りかかった。反動で平積みだった本が背表紙から転げ落ちる。真下に置いてあった本以外が全て茜の方へと滑ってしまった。


「わわわっ」


 宙を掻く両腕が本を掴もうとするが、殆どは中身を開いて床に墜落していった。

 しゃがんだ茜が口と手を同時に動かす。


「ご、ごめんっ! 今すぐ拾うから」


 あーあ、と友人の声が彼女を更に慌てさせた。順番も確かめず、身近にあった本から手元に引き寄せる。三、四冊の本は瞬く間に積み重なった。茜は最後に遠くへ位置する一冊に手も伸ばしたが、途中で引き攣った顔で固まった。


「……茜?」


 眼鏡の下から友人が彼女を見下ろす。

 五冊目の本を天辺に乗せ、茜はゆっくりと立ち上がる。図書委員の親友に向かい合った際にその目尻が外側へ引っ張られていた。


「どうしよう……。表紙、破れちゃった……」

「えっ?」


 図書委員の少女は欠けた表紙に釘付けになった。学校の所持品を床へと打ち付ける原因となった本人は唇を震えさせる。


「これって……弁償、しなきゃいけないんだよね……」

「うーん……」


 友人は顎に手を当ててわずかに唸った。目線だけを固定し、先程と同じように首で否定の意を示してくる。横に振られた首は次に背筋を曲げている茜へと上がった。


「違うわね。これは元から破れていたのよ。私も今気づいたけど、この表紙が見えないように重ねられていたのね」

「へ? 今ので敗れたんじゃないの?」

「ちょっと貸して」


 茜の抱えていた本の山頂が持っていかれる。友人は片手に本を持ち上げ、ぱらぱらとページを早々に捲っていった。


「やっぱり本の中も酷いことになってる。安心して、茜。これは貴女の責任じゃないわ」


 そーなの? と、茜は問い返す。図書委員は自信を持った双眸で微笑んだ。暗くなっていた茜の面容が安堵で綻ぶ。


「良かった~」


 残っていた本もカウンターに置き、茜は胸に手を添えて長々と息を吐いた。


「多分、あの一年生の仕業ね……。遅れるだけ遅れといて……」


 恨みを詰めた不満を友人が漏らす。彼女がかけている眼鏡のレンズが突き刺すように光を反射した。射程範囲に含まれていた茜は雰囲気に恐れをなして一歩分後退した。


「今度会ったらもっと説教してやらないと」

「お手柔らかにね……」


 不気味に笑い声を絞り出す彼女の顔に陰影が出来た。逆鱗に触れて八つ当たりを受けないよう、遠回しに友人を戒める茜。

 ――その直後。三つの黒子を打っている顔付きが驚愕に染まった。


「捺祇さん、覚えてなさいよ」


 動揺が茜の動作を緩慢にさせる。瞳孔がおもむろにカウンターの奥に座る図書委員へと向き直った。


「……誰だって?」

「え? 捺祇沙耶子っていう一年生だけど……」

「知っているの、文ちゃん。その子を?」


 今にも飛び掛かりそうな茜から身を引き、友人の少女は鼻筋からずれていた眼鏡を指で押し上げる。楕円状の眼鏡越しに映る彼女は蒼白の顔色をしていた。

 具合が悪いのか、と尋ねようとする委員を茜が口で制す。


「もしかしてその子にも説教とかしたのっ!?」

「そ、そうだけど……」

「――あるんじゃないっ! 心当たり!」


 茜が顔を真っ赤にして叫ぶ。きょとんとした友人が眉根を寄せ、「静かに」という一言と共に彼女を黙らせた。

 不完全な怒りの燃焼が祟って、茜の声が瞬間的に裏返った。冷静な眼差しで見つめ返されたこともあり、彼女は両頬を温めながら深呼吸を繰り返す。

 襲われた友人が事情を語ったのは、熱を持った吐息が少なくなった頃合いだった。


「さっき言おうとしたのはそのことなのよ。私も恨みを買われるとしたらその子しか思いつかなくて……。だけど」


 だけど、と区切った話を茜が鸚鵡返しに問う。目線を対話している茜から逸らし、図書委員は声色を曇らせながら話した。


「昨日、騎士団を呼んでくれたのが捺祇さん本人だったのよ。私を襲う気だったなら……助けなんて呼ばないでしょ?」

「誰かがSOSコールを使ったんじゃないの?」

「違うみたい。私も捺祇さんに直接聞かされたから、本当かどうかまでは知らないけど」


 友人が短い沈黙を挟み、より重い口調で述懐した。


「……私ね、あまり言いたくないんだけど……あの子が苦手なのよ。……人懐っこい性格に見えるんだけど……恩着せがましいって言うか……。自分と相手を対等に思っていない気がするのよ」


 図書委員の瞳が右上に傾く。遠い世界を見るように両目を細めては、嫌悪的な情緒を抱いて喋り続けた。


「リアル割れってなるべく避けるのが普通よね。それなのに捺祇さんは自分から本名を言ってきたのよ。あの昇降口で、大丈夫ですかって、寄ってきた時に……」


 先刻に落下した本に友人が手を触れさせた。派手に破れた表紙の痕を指先でなぞっている。捺祇沙耶子の不注意で壊れただろう本を撫でる手つきは、何処か残念そうだった。


「感謝はしてるんだけど……そのせいで捺祇さんには強く言ってやれない気がするの。感謝と苦手の意識が、邪魔しちゃいそう」

「…………うん」


 茜は小さく頷いた。首肯の声がカウンターの周辺に上手く反響されていない。彼女の同意を書き換えるように響いたのは、図書委員の少女による自虐であった。


「最低よね、私。人のことをこんな風に言うなんて……」


 茶髪を振り乱し、茜は大急ぎで否定した。


「違うよ! そんなことないってばっ! 文ちゃんは悪くないもん!」

「だって騎士団と懇意にしている子なのよ? そんな人が悪い性格なわけ、ないじゃない」


 息を吸い、茜が即座に反論を言い出そうとする。本人が納得している事案を子供の用に苛立ちながら掘り起こそうとしていた。図書室という土地事情も考慮せず、大声が入口を突き破るほどに鳴り渡る。


「捺祇沙耶子は…………っ……!」


 批判が、止まった。

 落雷でも直撃したかのように、茜の塞がった語尻が無音へと収束する。


「……文ちゃん、懇意って仲良くしていたって意味だよね。何でそんなことが分かるの?」


 爆発しかけた茜の気迫はすっかり漂白されていた。

 図書委員の友人は彼女の顔を見つめた。茜の眼勢に映えるのは杞憂の残滓。光を絶やした不安が彼女に纏わりついていたのだ。


「えっとね。捺祇さんのアバターに騎士が連絡先を訊いていたのよ。茜も見たでしょ、あの大きな剣を持った騎士さん」


 カウンター上に置かれていた茜の拳が強く握られる。

 椅子の背もたれに身を預けている図書委員はその反応に気づいていなかった。だが、彼女が茜の顔を見透かすように口を開けた。

 放たれたのは、大丈夫、という危惧に相当する単語だった。


「…………時間、いいの?」


 盤上を超えて友人の指がある一点を指さす。茜も指摘に対応して高速で首を捻った。その延長線で交差したのは壁に掛けられたアナログ時計だった。クラシックな図書室の雰囲気に調和するデザインである。


「まだ授業があるんでしょう、茜は」


 付け加えられた一言が、茜の面持ちを更に暗くした。


「わー!」


 彼女の甲高い声が図書室を鳴動させる。茜は床を強く踏みつけ、真横の出口へと姿勢を正した。

 全速力を出し切ろうという寸前、茜が不意にカウンターを振り返る。


「ありがと、文ちゃん。――あと、気にしなくていいと思うよ」

「え……」


 図書委員の耳朶を打ったのは、確信めいた一言だった。



「多分、文ちゃんが正しい(、、、)から」





 人の気配がすっかり絶えた校舎にて、鈴夜湊は無言で廊下を歩いていた。

 部活に関連する教室とはかけ離れた路次である。一貫型の生徒が受ける授業の妨げとならないよう、一定の距離が開ける配慮が施されていた。

 湊は校舎の昇降口へとやって来た。空に張られた月夜が皮肉にも光陰を浮き彫りにしている。

彼が下駄箱へ近づいた途端、天井の蛍光灯も光を放った。動きのある人影にセンサーが反応したのだ。学校指定の鞄を持った湊の横顔が照らされる。


「…………」


 そのまま上履きを履き替え、内外を仕切る扉に歩み寄った。寂寥が漂う昇降口はひんやりと冷えていた。一貫型の授業も終わった時刻。夜は更け、湊以外に出入り口でうろつく生徒は彼の目に入ってこなかった。

 半透明のガラスで飾られた扉が外へと開く。垂直に折れ曲がった金具が金切り声を出した。眉を潜めた少年が校舎を抜け出すまで、扉の甲高い悲鳴は止むことがなかった。

 数段の階段が湊からそう遠くない前方にはあった。彼は夜闇と背後からの光に覆われた身体を推し進める。


「掃除、終わったの?」


 背後から伸びてきた少女の声が湊に巻き付く。

両目を瞠った彼は素早く背後を顧みた。扉の両脇では深い暗がりが広がっている。ただ、左右対称の影は出来ていなかった。左方の地面には一人分の黒い外形が切り抜かれていたのだ。


「……お疲れ様、湊君」


 かつん、と足音が鳴る。光が少ない囲いからは一人の生徒が現れた。茶色い髪を携え、鼻梁が通った顔立ちの少女。ここ数日間、彼と行動を共にしていた人物だ。


「三原……さん?」


 湊が三原茜を目視する。彼が昇降口に入った頃から人が動く気配はなかった。存在が希薄になる程の長い時間、彼女はずっと扉の脇で身を潜めていたのだ。


「何をするつもりなの……?」


 同級生の少女は暗影に富んだ表情で問う。


「えっと、別に……今から帰るとこだけど……」

「そうじゃなくてっ!」


 茜の怒号が二人の合間を軋ませた。感情の吐露を一身に受けた湊の全身が震える。


「とぼけないでよ。E・Dで悪夢を……結那ちゃんをどうするつもりなのか訊いてるのっ!」


 鋭利な眼光が湊を射抜いた。

 縮まらない茜と湊の間を激しい声音だけが塗りつぶす。夜空に浮かんでいた月が雲に隠れた。火花の如く憤る彼女の叫びに代替わりするか、又もや嬉々を防いだ彼の双眼に呼応するかのようであった。


「分かってるんだよ。湊君、捺祇沙耶子の連絡先を聞いたんでしょ。……もしも、彼女に責任を負わせるって言うんだったら、それが一番だよ。……でも、鈴夜湊にそんなことができるの!?」

「……っ」


 飛び交う嘆声に湊は唇を噛んだ。


「出来ないでしょっ! 同級生の女の子に挨拶するだけでたじろぐぐらいだもん! 出来るはずがないよ!」


 彼女の指摘に湊が両頬を赤くする。啖呵に表情は捻じれていったが、肝心の彼が言い返すことはなかった。そんな対応を目の当たりにし、茜は首を左右に振って言い捨てた。


「結那ちゃんを……どうするの?」


 初夏が近いはずの気候が寒気を吹かせる。風が唸り、湊の表情から熱気を奪った。


「悪夢は、倒す」


 穏やかだった湊の雰囲気は一変していた。根暗で人見知りの多い少年の姿は何処にも見当たらない。闇夜の踊り場に足を降ろしているのは、夢で活躍する断罪裂剣のクリムという騎士だった。

 クリムの中身が宿った彼は口早に断言する。


悪夢あいつに復讐なんかさせない」


 雲間から月の光が割り込んだ。時間をかけて出てきた輝きが湊の頭上に舞い降りる。幅広い月光は茜の近くまで伸びてきた。

 明るい領域に少女の足が重なると同時、茜の数倍は鋭利な視線が数メートルの距離を断ち切った。形と実害のない刃が茜に突き付けられていたのだ。

 竦み上がった少女の口が詰まる。

 だが、茜は屈することなく、瞳に宿る光を強く瞬かせた。


「じゃあ、結那ちゃんへのいじめはどうするの? それは何とかするって、考えてるんだよね……」


 勢いは下降したが、彼女は確かに問い詰めた。上半身を前のめりにさせる圧力を振り払った為か、茜の息遣いが荒くなっている。

 そんな動悸が、湊の答えを聞き流させる要因の一つとなった。


「――――――よ」

「え……何て言」


 湊は誰に強いられることもなく、同じ言葉を繰り返した。


「何も、しないよ」


 激しかった呼吸が静まり返り、茜の瞳孔には中性的で暗い影を映す少年の影が大きく映った。

 俯いた顔に、伸び切らない背筋。性格だけは勇ましくありながら、本質は不変だと言う事実がそこに内在していた。

 鈴夜湊は現実では芳野結那に関与しない。彼のこの公表に、茜は腸を煮え繰り返させた。


「ふ、ざけ、ないで……。力が有る時だけいい恰好をして……、無い時は背を向けるっていうの……?」

「芳野結那と捺祇沙耶子は友人関係にある。……それを、本人が認めたんだ。部外者である僕や君がどうこう言ったって……解決できない」

「だったら! せめて良い夢は見させてあげたっていいじゃない!」


 肩を震わせて彼女は訴える。その目尻には薄らと涙が浮かんでいた。


「……そうじゃないと、可哀想だよ…………。現実では虐められて、それを曲がりなりにも解決する方法を手に入れたのに……それすらも、果たせないなんて……」


 月明かりに彼女の落涙が煌めいた。

 茜は濡れた両頬を掌で拭う。

 対する湊はその嗚咽が止むまで身動き一つ取らなかった。悪い夢の為に傾けた雫は少量であり、真っ赤に晴れた眼が彼を貫くまで長い時間はかからなかった。


「…………ごめん」


 繊弱せんじゃくな謝罪が鈴夜湊から滴り落ちる。彼は己の影が張り付いた地面と対峙するように項垂れた。

 昇降口の扉から足音が近づいていった。茜が彼へと歩み寄っているのだ。

 首を下げた湊の横を彼女が通り過ぎる。

 茜の唇が、開いた。



「……最低。卑怯者」



 段差を下り、茜が校門へと足を運ぶ。振り向くこともなく、立ち止ることもない。彼女の背中は間髪なく小さくなっていった。

 E・Dで悪夢を斬った昇降口にて、湊は一人残された。月は彼を投影させる微明を放っている。茜の跫音も既に届かず、静寂が連れ添っていた。


「知っているさ、それくらい……」


 霞のように不安定な声が響き、たちまち場に満ちた無音に飲み込まれた。




 揺り籠に横たわっている少女は薄目を開けていた。暗い室内でその状況が最早二時間は続いている。E・Dへ入場することもなければ、ただ眠りにつくこともない。少女は闇に眼を慣れさせているだけだった。


「…………」


 半開きになった口から息を吐き、ゆっくりと起き上がる。使用中ではない揺り籠は上部が解放されていた。

 頭部が厳つい機械からはみ出る。一番に目に留まったのはお下げを結うゴムだった。起床時には真っ先に手を出すのが習慣となっていた。だが、現在は深夜の時間帯。髪型に気を使う瞬間ではない。

 布団から露わになった寝間着姿のまま、少女が揺り籠から身を乗り出す。

「あ……」

 学校用のノートパソコンと共に置いてあった小型の多機能携帯がライトを点滅させていた。メールが届いている印である。少女は腕を伸ばして闇の世界で青白い光を発する機器を求めた。

 電源を入れ、メールの欄を確認する。

 今日一日、学校への登校を拒否した芳野結那の両目に文字の羅列が浮かんだ。


〔何ズル休みしてんの? 最低だね、結那ちゃん。虚弱キャラ押し通せば許されると思ってんの? ちょっとクズ過ぎない? 月曜日、罰ゲームけって~い〕


 送信者の枠に刻まれていた名前は、捺祇沙耶子。


「………………」


 結那の手に自然と力が湧いた。彼女の脆弱な筋肉では携帯を壊すことはなかったが、画面上に肌が強く擦りついている。

 がり、と奥歯が軋んだ。

 彼女は己を罵倒する文面を見下ろし、やがて歪んだ表情を作った。眉根が寄り、唇を大きくたわむ。滑った親指がメールの表示を切り替えるまで、結那の複雑な面容は続いた。

 その途中。メールを削除するかどうかのメッセージが現れた。


「――――ぅ」


 力んでいた双眼が緩む。彼女の喉から出たのは逡巡の小声だった。

 瞳が瞼で覆われる。

 結那はしばらくの間、外界の景色を遮断し、携帯の操作を手放した。再開されたのは数分後。彼女のちんまりとした親指が削除というフォントを位置取ることはなかった。干渉されたのは通常の表示画面である。

 深い闇から薄暗い室内に視野が戻った。結那は眦を窓の外へと向ける。見えたのは月が浮かぶ夜空だ。輝く穂先が剃刀のように尖っていた。

 夜の支配者である衛星は真上で光る。人々は寝床へ着き、夢の世界へと出かける時間がやって来ていた。


湊と茜の決別。事態はいよいよクライマックスになります。読者様の心に残る物語に仕上げていきたいと思います。伏線も無事に回収されてきています。あと幾つか伏線が残っています。頑張るので、ぜひ読んでみてください。

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