再会
靴越しに感じる黄色の凹凸は、誰のためのものか。例えば私が盲目ならば、それは一つの導きにもなるだろう。だがそうでないなら、外に飛び出してはいけないと、必死に危険信号を出してくる。
ちょうど、今のように。
たまらず吐いた息が、朝の底冷えから立ち昇ろうとする空気とともに、白く震えて消えていった。
「ずっと、おもっていたんだけど」
すぐ横から響いてきた声に、ふと我を取り戻す。気付けば、こちらを不安そうに覗きこむ女の顔が間近に迫っていた。私が驚きで固まっているうちに、その薄い唇は恐る恐るといった風情で動きだす。
「あの、人違いだったらごめんなさい。確か、小学校のとき一緒だった……」
そこまで聞いたところで私はようやく相手の面影に覚えがあったことを思い出し、ああ、と嘆息していた。
そうだ、この人とは確かに幼い頃、よく一緒になって遊んでいた記憶がある。確認のために彼女が口にしたあだ名も、かつての私自身のそれに相違ない。こちらが思い出したと見るや、強張っていた表情も花開くようにほぐれていった。
笑顔のつくりが、あの頃とまるで同じに見える。
そうやって蘇るものを一つずつ、頭の中でつなぎ合わせていけばいくほど、目の前の姿ははっきりと輪郭を現していくようだ。昔より大人らしくなったのは当然のことながら、少しだけ、痩せたかもしれない。
身に付けている黒のコートが特徴的で、広がった袖は肘下まで、裾はへその上くらいまでと、妙に丈が短かった。けれどそういうデザインと言われてしまえばそれまでなので、あえて指摘をするのは控えておく。
「よかった。違ってたらどうしようかと」
緊張の糸がほぐれたのか弱々しく笑ってみせる彼女に、そういえば自分はまだろくな言葉を発していなかったと思い出し、とりあえず「中学校からずっと話せてなかったよね」と返すと、申し訳なさそうな頷きだけが返ってきた。
性別が違う以上、それは自然な流れだったのだと思う。他人にからかわれることを恐れてか、あるいは本当に特別な感情でも抱いていたのか知らないが、とにかく当時、私たちは時期を同じくして互いを避け、現在に至った。十年以上も前の、苦い青春の一ページというやつだ。
まあ、ほとんど忘れかけてしまってはいたが。
しかしどうしたことか。これほど彼女に関する多くの情報を思い出しているというのに、その名前だけは、まだ欠片も見つけ出すことができないのであった。
かと言って本人に直接訊ねられるほど、私はデリカシーの足りない人間でもない。さて困ったなと黙していたら、ありがたいことにまた向こうから話しかけてくれた。
「最近、何か面白いこととかなかった?」
久々に出会った友人へ言うことがそれなのか、と疑問に思う話題だが、きっと彼女も声をかけた後のことは考えていなかったのだろう。
「最近か……全然、かな。面白いほど面白いことがない」
「ああ、それは面白くないね」
そう言いながらも眉尻を下げて笑う彼女に、私もつられて愛想笑いを返した。
ふと足裏のでこぼこした感触を思い出し、こっそり後ろにさがる。
「どうも、夢を追うのに疲れたみたいでさ。もう諦めた方がいいのかもしれない、とか」
「夢?」
「個展を開きたいんだ。一度でいいから」
「個展って、あの、絵とかを展示する?」
その絵画の個展だと答えたとたん、相手は心底驚いたように目を見開き、「え!」と感嘆詞か名詞かよくわからない声を出した。
「描くの? そんな趣味あったっけ」
そこまで驚くことだろうか。けれど確かに、小学生時代の図工で良い成績を修めた事実はなかった気もする。私がこの世界を志したのも、高校に入った後のことだ。
それまで芸術というものにまるで興味を持たなかった私が、音楽・美術・書道と三つある選択科目の中から美術を選び取ったのは、単なる気まぐれだったと言える。
だがそこの担当教員はなかなか特徴的な人物で(芸術家とは得てしてそんなものかもしれないが)、授業一発目にやったことというのが、家から持ち寄った古い歯ブラシと墨汁を使って、校庭の桜の木をスケッチするというものだった。まるで小学校と変わらないレベルの内容に呆れた私は、とは言え白紙のまま提出するほどの度胸もなく、悪い意味で適当に取り組み始めた。
しかし、それが不思議と良い具合に描けるのである。不揃いな毛先で描き出した曲線が、樹皮の質感を絶妙に表し、さながら力強い水墨画を思わせた。様子を見に来た先生に、これなら絵が苦手な人でもうまくやれそうですねと話したら、それを狙っての授業だし、とあっさり返されたことを覚えている。
それ以来私は絵画、殊に筆を使わない作品に関心を抱き、自分からそういうものを見たり描いたりするようになった。その原動力の一部には、あの神秘的でさえある飄々とした態度と余裕を併せ持った先生に、憧れる心もあったのだろう。
三年足らずの絵描き歴では専門の学校になどとても入れなかったが、それでも諦めずに描き続けたおかげか、進学先の美術サークルではそれなりの評価を得るまでになっていた。
「へえ、人間、どこにいくかわからないもんだね」
昔話をかいつまんで聞かせると、彼女は首をゆっくり振りながら感慨深げにそう言った。
「いい夢だね。わたしも前から絵は好きだったし、個展を開いたらぜひ、
きみの作品を見に行きたいな」
暢気なことを言ってくれる。悪気がないのはわかっているものの、彼女の笑顔と言葉が少々無責任に感じられた。八つ当たりをしてはいけないと、苦笑を取り繕う。
「いやあ、実際開ける確率なんてほとんどないよ。他で働きながら色んな所に絵を持ちこんだりしたけど、連戦連敗さ」
すると相手は残念そうに相槌を打った後で、
「でも、せっかく持った夢なんだから、諦めたらもったいないよ、絶対」
詰め寄るように言いきったその目は、先ほどまでの弱い微笑みと打って変わり、まさに真剣そのものだった。
次の瞬間、自分のすぐ側で圧縮された空気を吐き出すような音が聞こえ、ホームに電車が訪れたことを知る。そう言えば、あまり余裕を持って待っていたわけでもないのに、来るまで大分時間がかかったような気がする。遅延を告げる放送は聞こえてこない。
ひとまず乗りこんでから振り返ると、てっきり一緒に乗ってくると思っていた旧友は変わらず、黄色い線の内側に立ったまま、穏やかな笑みを浮かべていた。向かいの電車を待っていたのか。
「もしいつか、きみが個展を開けたら」
鳴り出した発車のベルに紛れないよう、彼女が声を張り上げる。
「絵、見に行ってもいいですかあ」
こちらも答えなくてはと口を開いたとき、ちょうど扉が閉じてしまい、私は窓越しに一つ頷くことしかできなかった。しかし相手にはちゃんと伝わったらしく、にこやかに「ばいばい」と口を動かして手を振ってくれる。
いい歳の男がそれに応じるのは気恥ずかしくて、ただ遠ざかり始めた姿を見返していた。
改めて見るとやはり、その黒いコートの丈は不自然に短く感じられたのだった。
あれ以来、名前のわからない幼なじみとは再会するどころか、一度も姿を見かけないままに二年が経ってしまった。そして今日は、念願だった私の個展が開かれる日だ。
と言っても、田舎の公民館の一角を借りたような、ごくごく小さなものだ。それでもここの人に多少なりとも自分の作品を認めてもらえ、宣伝まで力を貸してもらえたのだから、何一つ不満はない。おかげで開場後はちらほらと人も入り、感動されるにせよがっがりされるにせよ、彼らが飾られた絵と向き合ってくれるだけで、私の心臓はすこぶる躍った。
個展を開いたとなれば、いつかの駅で交わした約束を思い出さないわけはなかった。私の絵を見に来ると言っていたが、地元より離れたここのことを、彼女が知るよしはあるだろうか。考えてみればみるほど、それはあり得ないことのような気がしてしまう。
ところが最終日、しかも閉まるぎりぎりの時間になって、彼女は現れたのである。
出入口付近でうろうろしていたはずの私をいつ横切ったのか、気が付いたときにはすでに、一番奥の自信作を眺めているところだった。後ろ姿ではあったが、前と同じ小さな黒いコートを着ているのだから間違えようがない。
まさか、本当に来てくれるとは。この心の声が驚きからきたのか喜びからきたのかは、自分でも判然としなかった。
一通り見終わり、こちらへ歩み寄ってくるその顔に暖かな微笑みを見つけ、改めて諦めずにやってきた甲斐があったと実感する。
「ありがとうございました」
もう他に人がいなかったというのもあり、目の前に来たところで深くお辞儀をして礼を言うと、相手は突然のことに慌ててしまったようだ。
「あ、いや、わたしはそんな、お礼なんて……」
口ごもり、小さくなっていく声。何やら私まで急に照れくさくなり、頭を上げられなくなってしまう。そうして弱り果てた彼女はついに、
「あの……こちらこそ、ありがとう」
と消え入りそうな言い方をしたきり、何も言わなくなってしまった。あまりに静かだと感じて顔を上げたころには、もう目の前に人の姿もなく、自分だけが一人、会場に取り残されていた。
壁の時計は五時半を指している。個展はたった今、成功をもって終了した。
後日、私のところに一通の手紙と小包が届けられた。どちらも差出人の表記はなかったものの、包みの中を見ればそれが彼女からだというのは簡単にわかった。あの子供用にさえ見える、黒いコートが入っていたからだ。
手紙の方には、これの扱いに関することが書かれてあった。
『いきなりこんなものを送ってしまってごめんなさい。きっと気味が悪いと思いましたよね。嫌なら捨てるなり燃やすなりしてくれても構いません。
ですが、もしよかったら、これをわたしの両親に届けてくれないでしょうか? 身勝手なお願いだとはわかっています。でも、きみにしか頼めないから。どうか、お願いいたします。
追伸。絵、とても素敵だったよ』
手紙の最後には住所と電話番号、そして『真島』という姓が記してある。ここに送ってほしい、ということなのだろう。
マシマ、ああ、懐かしい響きだな、と思った。
気味が悪くないのかと言えば、もちろん悪い。しかし私は受け取ったコートを燃やしもせず捨てもせず、更には宅配便にも依頼せずに、自分の足で直接、書かれた住所まで届けに行っていた。個展を訪れてくれた彼女に、何かお返しをしたかったのかもしれない。
呼び鈴に応えて出てきたのは、一人の老女だった。その人は私の名前と渡したコートを認めるや、その場でぽろぽろと泣き崩れてしまう。
なんとかなだめようと肩に手を置けば、しゃくり上げる声の中に「せりはあなたが好きだったから」という言葉が聞こえ、私まで、涙が出てしまいそうになった。
真島せり。それが、彼女の名前だった。
少しだけ落ち着き、私を中へ通した老女――せりの母親は、娘のことでいくつか話をしてくれた。
彼女は、もう四年も前に事故で亡くなっていた。駅のホームで電車を待っていたところに酔っ払いの体当たりを受け、線路に落ちてしまったそうだ。そこへ、特急快速の列車が通過のために入ってきた。
遺体は不足なく回収されたが、身に付けていたはずのコートだけは、これまでどこを探しても見つからなかったという。
せりに頼まれた、このコートのことだ。
これはやはり子供服で、初めて小学校へ着て行ったとき、その色や形からカラスのようだとクラスメイトにからかわれたらしい。一時はふてくされた彼女だったが、ある日私だけが褒めてからは、転じて一番のお気に入りとなり、長年着続けていたそうだ。
こちらにしてみれば言われるまで思い出したこともない、些細な出来事であった。
「せりはあなたが好きだったから」
目尻にたまった雫を拭いつつ、母親は初めと全く同じフレーズを口にした。
「だからあなたに、大切なものを、託してくれたのかもしれません」
感涙に咽ぶ相手を前に、私は複雑な思いをひた隠すことしかできない。
もし本当に、せりが二十年近くも私のことを好きでいたのだとしたら。
あまりに長すぎたその片想いの苦痛が今、私の喉を絞め上げてくるようで、申し訳ない気持ちばかりが胸をふさいだ。
「……お仏壇に、手を合わせてもよろしいですか」
「ええ。どうぞあの子に、会ってあげてください」
響く微かな高音に耳を澄ませ、目を閉じる。
今日まで、名前すら思い出せなかった薄情な私に、この人から愛される資格など、あったのだろうか。
小さな額縁の中の彼女は、二年前と変わらない柔らかな笑顔を、こちらへ向けてくれていた。
以来、個展を開く機会は訪れても、駅や会場でせりの姿を見たことは二度としてなかった。成仏した、と考えていいのかもしれない。
なぜ、私の前に現れたのか、と考えたことがある。家族にコートを渡したかったのであれば、直接行けば済むことだったろうに。
――ずっと、おもっていたんだけど
彼女の第一声を思い出す。母親の言葉を参考にするなら、疎遠になっていた私とまた、仲良く話がしてみたいとでも思ったのだろうか。仮にそうだとしても、初めて現れたのが事故から二年後というのは、少しばかり不自然な気がする。あの駅は、私も頻繁に利用している場所だった。
けれどこの疑問については、実を言うと心当たりがある。
二年前、彼女に声をかけられたあの日だけ、私はいつもと違う目的でホームに立っていた。
忙しいばかりで夢に手も届かない人生に疲れきり、電車が来る時刻を見計らって、黄色い線の向こうに飛び込んでしまおうと心を決めていたのだ。
だから、ひょっとして彼女は自分が死んだ駅で、偶然にも自殺を計ろうとしていた私を見かね、止めに出てくれたのではないだろうか。
雪の冷たさに沈むホーム。今日は靴の先が少しも黄色のラインを越さない位置に立ち、息を吐く。白い湯気が私の生を証明するかのように、勢いよく吹き出した。
キーワードに「恋愛」と入れましたが、自分でも正直恋愛といっていいものか不安であります。申し訳ありません;
疎遠になってしまった人たちって、時々どうしようもなく会いたくなったりするんですよね。また会えて話せたらもう成仏できるくらい嬉しくなりそうだな、と思いながら書いたものでした
それでは、ここまでお読みくださり、まことにありがとうございました!