夫には忘れられない人がいる
王妃への敬称は「陛下」でなく「殿下」にしました。
クロエ・グレンフェルはほとんど無表情のまま、黒い双眸だけをゆっくりと瞬かせた。
「クロエ・モーテ嬢……済まないが、あなたを妻とも家族とも思うことはできない」
旧姓で呼ばれたので。
王命で書類上の夫になったばかりの若き伯爵・アルバートが開口一番、やつれた顔で、それはもう今にも倒れそうな目と声でそう言ったので。
壁の豪華な額縁の中で、ふっくらとした頬で幸せそうに微笑む前妻の肖像画が飾られたままだったので。
そして何より、アルバートと肖像画の間に、その肖像画そっくりの“半透明”の女性がおろおろと立っていたので。
「……承知いたしました」
目を擦って頬をつねりたい衝動を抑えながら、クロエは何度も瞬きする。そして消えない彼女を見ながら、頭の中で予定していた返答から何とかひとつ選び答えた。
「私としてもこの婚姻は『王家からの支援』との位置づけと王妃殿下より承っておりますから、問題ありません」
ただ、一言だけできまり悪そうに黙り込んでしまったアルバートに、念のため尋ねる。
「旦那様……いえ、伯爵様。憑かれていらっしゃいませんか?」
「ああ、悪いが疲れている」
抑揚のない声に何か暗いものが混じっている。クロエが立ち会った葬儀で聞いたことがあるそれが何か思い出す前に、半透明の前妻が胸元に手を当てたので目を奪われた。
見つめる眼差しは弟を見守る姉のよう。
同じ眼差しをおそらく肖像画に描かれるより前、五年ほど前にも王城で見かけたことがある。薄茶色の髪と垂れ目で優しげな若草色の瞳。
全部半透明で向こうの景色が見えてはいるが、間違いなく彼女はアシュフォード伯アルバート・グレンフェルの前妻、ローズマリーだ。
付け加えるなら、たぶん……きっと、幽霊。司祭にはなれなかったクロエは初めて見たので、断言できないけれど。
享年30歳だったという。今年20歳になるクロエやアルバートより12歳も年上だけれど、既に成熟した大人だったので記憶にある容姿とさほど違いがない。女性がかなり年上の夫婦は珍しく、仲が良い姉弟のような印象だったのを覚えている。
そして美しく若き……当時15歳の若すぎた伯爵は、妻と共に辺境の穀倉地帯でしかなかったアシュフォードの様々な産業を育て、運河や交通網の整備や通行料の徴収を行って領地を発展させてきた、と聞いている。
ただし、それも一昨年までのことだと。
「いえ……お疲れではなく、何かに憑かれていらっしゃいませんか」
「ああ。喪が明けもしないうちから何度縁談が持ち込まれて断ったか、聞いているだろう」
クロエは頷いた。誰だって一目で分かるだろう。少年から青年になったアルバートの印象は、五年前とは違う。
そしてあの時想像した、若く美しく辣腕の領主ではなかった。まるで隠遁した世捨て人。
クロエはキラキラした男性は苦手だが、麦の穂色をした髪は身長と同じ比率で伸びて胸のあたりまで垂れ、前髪で隠れた琥珀色の目は固まって濁り、吐く息は細く浅い。ここまでくると不健康そうで心配になる。
今の領地は、領主が職務を放棄したせいで、その髪のように徐々に乱れているという。
「その様子だと陛下は把握していらっしゃるようだ」
お憑かれではなく疲れてる方、とクロエは頭の中で反芻してからできるだけ静かに答える。
「はい。この婚姻を一年継続して上手くいかなかったときは、新しい領主を据えるおつもりだと……伯爵様を開放して差し上げると仰られていました」
クロエが何度か瞬きしても視界から消えないローズマリーが、はっと息を呑んだのが分かった。幽霊が呼吸するなら、だが。
「我がモーテ家は、司祭の家系。せめて心安らかにとの妃殿下のお心遣いです。王都から手伝いが来たと思って接してください」
視界の端にローズマリーを入れながら答え、目を合わせなかったのを遠慮だと思ったのだろうか。アルバートは諦念を隠さず、それでいて穏やかな口調で言った。
「監視ならありのままを報告してくれればいい。それから、後のことは家令と家政婦が全て取り仕切っているのでそちらに頼む」
本日付で夫婦になった筈のクロエとアルバートとの顔合わせは、こうして静かに、事務的に終わった。
彼は雑多にものが積まれたままの執務机を回って、扉から出ていく。その間に何度か爪先を家具にぶつけながら。
両脇に控えていた家令夫妻がこちらに申し訳なさそうに礼をしたので、クロエも礼を返し……前途多難かもしれない、と顔を上げた時。
目が合った。
ローズマリーと。
頬に手を当てて目を見開き、悲鳴を上げて――声は聞こえなかった――床に倒れる彼女を。
クロエは反射的に駆け寄って、抱き起そうと床に膝をつく。けれど伸ばした手は空を切って、ただひやりと冬の冷気に手を突っ込んだような感覚が――、
「ひゃっ!?」
「奥様、大丈夫ですか!?」
慌てて背後を振り返れば、初老の家政婦が心配そうに覗き込んでいた。
「……あの……、その、見えますか?」
「……何をです?」
恐る恐る尋ねればたっぷりの疑問と不安を含んだ声が返ってきて、彼女の後ろで平静そうにしている家令の目も疑わしげだ。
ゴースト、亡霊、地縛霊……とにかく幽霊的ななにか。実家の聖典や絵本に書いてあったけれど半分信じてなかったもの。
クロエはだからそんな幽霊が気絶するのを初めて知って、それから自分より経験豊富そうな二人につい聞きかけた――幽霊の手当てはどうやってするのでしょう。
「……さすがにそれは」
「何がです?」
……聞けない、これでは不審者だ。
亡くなっても大切に肖像画を飾っている前妻の、その「幽霊が見えました」なんて言い出したら。
良くておかしい人扱い、悪ければ侮辱か王家の陰謀を疑われてしまうかもしれない。
少なくとも第一印象が最悪になるのは間違いない。今後の仕事に差し支える。
クロエは何度も瞬きをすると言葉を飲みこみ、頭を回転させて自分の状況を把握しようとする。
嫁いできたのに家族にもなれないと言われた後で、急に床に倒れ込んで青ざめたのだ。ショックを受けたようにしか見えないだろう。
そう、ショックを受けたことにしよう。では、一番効果的そうなのは。
「……あっ」
クロエは気絶することにした。
***
当たり前のことだけれど、世界やこの国の歴史は、たった一人の人生よりずっとずっと長い。つまり生前と死後の方が長いのだから、人生とは世界に仮初めに間借りしているようなものだ――というのがこの国の神の教えの一つだった。
間借りだから一生懸命生きよう。もしくは、間借りだから一生懸命過ぎなくてもいい。生前死後の魂は世界の上を浮遊しているのだという。
クロエの生家であるモーテ家は貴族ではなく、大きな教会だった。
そもそもの成り立ちが教会の聖職者が、浮世のお金と権力をほんのちょっと集めたことに端を発する。ちょっとした財と立場を得た今でも変わらず、古びた教会で冠婚葬祭や祭祀を続けている。
だから神の教えは小さい頃から色々聞かされてきた。人生の後の、死後のいわば魂生だか死後生で、幽霊となってこの世で生き続けることもある、という話も。
「とはいえ、幽霊なんて見たこともないけど……」
嘘だと決めつけていたわけではない。ただ祭祀を執り行う父親への謝礼が明日のパンになったし、号泣しながら妻を見送る夫を宥めたり、気絶する母親をキャッチして椅子に運ぶことの方が、実在するかどうか分からない幽霊よりも、優先順位が高かっただけだ。
だからそれらの話は、聖典の中や、先祖の日記に大げさに書かれた――つまり寓話みたいなものだと済ませていた。
……見てしまえば、話は変わってくる。
「……ご先祖様の日記のあれも、お祖父様のメモのそれも、絵本も本当だったのかも……」
まさか国王陛下も王妃殿下は全て知っていて、自分を嫁がせたのだろうか。
でなければ、自分でなくとも伯爵夫人に相応しい、大人しい令嬢などいくらでもいたはずだ。
加えて一年後の確実な離婚を受けてくれる令嬢は、王妃殿下が人となりを知る侍女の中にもそうはいない。ほとんどの侍女が良いところの貴族令嬢で、昇給確約の再雇用の匂わせに飛びつくのも彼女くらいだ。
「お互い、一年間の猶予……」
クロエはティーカップを空にして呟いてから、近づく足音と勢いよく開いた扉に、顔を上げた。
彼女の視線は、意外にも駆け足で客間に入って来たアルバートではなく、その背後を小走りで追う半透明のローズマリーに吸い寄せられる。
口を開きかけては閉じるアルバートの動きに連動して頷いていた。
「あー、あの……倒れたと聞いたが、体は大丈夫なのか? それとも……」
「……お気遣い痛み入ります」
クロエが気絶のふりをした後、人の良さそうな家政婦は慌てて彼女をソファに寝かせて、ブランデー入りのお茶を取りに行ってくれた。
抜け目のない家令はベルで使用人に医者を呼ぶよう頼んだ後、クロエに視線を注いでいたので勝手に執務室を見ることはできなかったのだが、王命だけあって客人としては大事にされるらしい。
とはいえアルバートがそれとも、と濁したのは、これはローズマリーが気になって、結果逸らしているクロエの視線のせいかもしれない。
「伯爵様、ご心配をおかけして申し訳ありません。もうすっかり良くなりました」
クロエは申し訳なさそうに言った。表情こそ少し大げさに作ってみたが、これは本心だった。気絶したフリだったのだから。
「きっと長旅の疲れが出ただけだと思います」
自分のことはさらりと流したかった。少し赤くなっているアルバートのおでこと、気絶した幽霊の予後が気になる。
お化け、ゴースト、亡霊、地縛霊、悪霊、怨霊、ワイト、バンシー、スペクター……。思い付く限りの幽霊の類語を頭の中で並べたててみる。
が、今もうろうろ歩くアルバートが額や足の小指を角にぶつけないか見守りつつ、たまにクロエをちらちら見るローズマリーは、悪霊にはとても見えない。ご先祖様か守護霊かといった雰囲気だ。
「長旅の疲労ならそれでいい、無理はするな。もし持病でもあるなら……うん、それは何を刺している?」
緩慢な動きでうろうろしてしたアルバートが向かいのソファに腰を下ろした後、両者に挟まれたテーブルへ視線を落とした。クロエが元気になったアピールを兼ねてしていた刺繍枠が乗っている。
「我が家に伝わる魔除けの紋様です。……ご質問ですが、持病はありません」
「魔除け……」と呟くアルバートの背後で、ローズマリーがびくっと震えて後ずさる。
「王家はまさか、伯爵家の立て続けの不幸が呪いによるものと考えて、あなたを寄こしたのか?」
「……正直にお話しますと」
クロエはそっと刺繍枠を手元に戻した。ローズマリーが少しほっとしたように見える。
「伯爵様がご両親を馬車の事故で亡くされた頃、天候のせいで土地の作物は不作続きだったと伺っています。そこで才媛と名高い伯爵令嬢・ローズマリー様とのご結婚を勧められたのが国王陛下だったと……」
国王は、夫を亡くし、子供もなかったので実家に戻っていたローズマリーを、実質的な領主代行兼指導役として、アルバートの妻に指名したのだ。
「そのローズマリー様も、一昨年不幸な事故で天に召され……」
視線を向ければ、当のローズマリーと視線が合った。天に帰っていない、というように首を横に振っている。意思疎通はできそうだ。
「……直後から縁談が舞い込んでいたことは、陛下もご存知でした。
そこで悲しまれる伯爵様のご負担にならないよう、妃殿下の侍女の中から、実家が教会だった私が送られたと聞いています。葬儀と鎮魂と慎ましい生活には慣れていますから」
「それだけか」
「それだけです。私自身は今まで幽霊を見たことはないですし、除霊の経験はありません。陛下も妃殿下も、呪いや霊については何も仰っていませんでした」
しかし口にこそしなかったが、王妃殿下が「モーテ家は幽霊が見えるかもしれない」と寄こした可能性はある、とクロエは今では思っている。
思っているが聞いていないので業務範囲外か、裁量でどうにでもしていいものだ、とも思っている。
眉根を寄せるアルバートは、そんな彼女の全身をざっと見た。
確かに妻どころか令嬢らしくない。ひとつに編んで背中に垂らした黒髪には飾りもない。すとんとしたシルエットのドレスは喪服のような黒で、質は良くとも遠目には修道女と間違いそうなものだった。
「しかし口には出さずとも、幽霊や呪いの類だと思っている可能性はある。少なくともあなたは」
「……それは……」
クロエは手元の刺繍に目を落とす。
――ああ、確かに、油断していた。何と説明したものかクロエは困惑した。
もし先祖代々幽霊と関わり合いがあるのなら、この魔除けに効果があるのか、ローズマリーが幽霊かどうか確かめようと思って刺してみたのだ。
……ただ、ローズマリーの様子を見るに、彼女が“魔除け”の魔、つまり悪霊とは思えない。彼女が嫌がるのなら、もしかしたら善悪関係なく効いてしまうのかもしれない。
クロエはローズマリーに安心させるように頷いてから立ち上がって、刺繍を部屋の隅に退避させた。
「ただの縁起担ぎです……悪霊はここにはいないようです」
「あなたが悪霊の仕業で倒れたなどと言い出さなくて良かった」
「……はい」
「何もないならいい。気にせず過ごしてくれ」
要件は済んだのだろう。アルバートは深く暗い――また何か思い出せそうな気がしたが、うまくいかなかった――息を吐いて帰ろうとして、それを追うローズマリーに、クロエはつい声をかけた。
「あの」
「何だ」
「いえ……その」
当然振り返ったアルバートに、クロエはローズマリーと交互に視線をやってから、隣の椅子を目で示した。
不審であることは分かっていたが、病み上がりという言い訳に効果がありそうなのは今しかない。
「? ……まだ用事があるなら家政婦に言ってくれ」
「ええ、はい、勿論」
「次に会話するのが、一年後であるよう祈っている」
扉が開かれる。引きこもりに相応しい言葉を残して去る背中に、クロエは慌ててローズマリーとの間に滑り込んだ。冷やっとした感覚が全身を襲ったが、一度経験していたので歯を嚙みしめて耐えた。
――が、てきめんな反応を示したのはアルバートの方だった。
「っ! ……こ、今度は何だ」
突然背後にぴったりとくっつかれた彼は振り返ると、すぐ目の前にあるクロエの顔を見て驚きに目を見開き、肩を跳ねさせて飛び上がるように後ずさった。
顔を赤く染め、大げさなくらいの反応を鎮めるように、クロエは努めて冷静に、
「わざわざお見舞いくださり、ありがとうございました」
「……接近するのが王城での作法と言うなら、ここではやめてくれ」
「はい……申し訳ありません」
「分かったなら、いい」
アルバートは肩で息を吐くと、距離を置くように目の前でそろそろと扉を閉めた。
「はぁ……」
――流石に不審者過ぎる。
そう自己評価しながらクロエが息をついて腕をさすっていると、その場から室内へ退いたローズマリーが視線を合わせてきた。今度は気絶していない。
「ローズマリー様、意図を汲んでくださりありがとうございます。どうしてもお話したかったんです」
そのまま壁に近寄って絵画の署名を指す彼女にクロエは近づき、
「……作者の名前はエイブラム、いえ……ああ」
気付いたクロエが壁から離れ、側の棚から適当に本を引き出して開くと、彼女は予想通りに、文中の文字を一つずつ指さした。
***
ぐぅ、ぶぅー、きゅー。
豚小屋はコミュニケーションには向かないが、カモフラージュには向いている。
伯爵をそっとしておこう、というのが全館・全使用人一致の見解らしい。裏方しかいないキッチンや庭はともかく、館のどこもかしこも静かでひっそりとしているのだ。
昔は毎日のように聞こえたという、伯爵の弾くバイオリンの音もすっかり絶えている。
だからクロエはこの半月、野菜の切れ端を届けるのを名目に、豚に囲まれながら幽霊のローズマリーと対談していた。
幽霊との会話を聞かれて企みだの変人の独り言だのと思われたら今後の行動に差し支える。特に“妻”としての仕事はなかったし、豚好きと思われた方がずっと良かった。
「到着してすぐに気絶するし、魔除けの刺繍を始めるし、……豚好きと思われてますが……、はい。豚肉料理は減りましたね……」
半透明のローズマリーの人差し指が右に、上に、それから彼女自身に、そして紙の上に置かれる。
クロエが開く手帳のには、国の共通語で使われる全ての文字が一文字ずつ枠で区切られて彼女の筆跡で綴られている。
それから次のページには頻出単語が載っていて、一番上には伯爵とローズマリーの名前が書かれている。
今、ローズマリーはこうやって、後妻の健康状況を心配してくれているのだ。
「豚肉」の声が届いたのか、足元を暖かいものが擦った。
「スースー」
薄ピンク色の豚がクロエの黒い裾を跳ね上げ、それからローズマリーの足元をぐるりと8の字に回る。
人懐こい瞳のスースーと名付けられたこの豚は、生前・死後もローズマリーのお気に入りの母豚だ。彼女の気配を感じるといつも平らな鼻を鳴らして近寄っている。
クロエはローズマリーの知り合い認定されていた。
「スースーはお肉にはしないですよ……」
というより、ここの豚は食用ではなく、辺境の森にしか育たない珍味のキノコ探しのために育てられているのだ。
ローズマリーは――その森で足を滑らせ、落下死している。側にいたのはこのスースーだけだった。スースーが、泥だらけで彼女の死を領主の城まで報せたのだ。
『アルバートの……あなたの夫の監視はいいの?』
「事件性はなく、事故だと分かりましたから……幽霊本人の証言と言って、信じてもらえるかは分かりませんが……」
立て続けの三人の死亡に、一度ならず二度も陛下から調査に文官たちが派遣されたが、陰謀の証拠はなく、逆に事故の証拠だけが見付かっていた。
クロエはその再確認の役目も仰せつかっていた。
「伯爵の憔悴した様子は心配ですが、一年契約の妻にできるのは無理に構わないことだけかと……」
あれからローズマリーの部屋も、日に一回の掃除の時間以外は扉は固く閉ざされたまま誰も訪れないという。すり抜けられるローズマリー本人を除いて。
『過保護だったかしら……』
首を傾げるローズマリーは、夜分寝に帰る時以外は殆どアルバートにくっついて歩いているという。
クロエがアルバートを王が望むようには監視していないのも、確かに過保護なこの幽霊や城の人間が、彼をずっと見守っていたことが判ったからだった。
アルバートを狙う悪者も、呪いをかける悪い魔法使いもここにはいない。彼はただ家族を三人も失って憔悴してしまったただの青年だった。
「……時間が解決することばかりではないでしょう。……私の生家の教会ではよく葬儀を行っていて、私も手伝っていました」
だからできることは既にアルバートに告げたように、心安らかに過ごしてもらうために距離を取り、縁談除けをすることくらいだった。
「立ち直る……と言いますか、日常生活を送れるようになるまでにかかる日数は人それぞれですから。友人やお身内が亡くなられてから葬儀まで、それからも……」
葬儀の初めから終わりまでずっと泣いていたひと。その場では無表情だったけれど後から倒れたと聞いたひと。
墓参りに来ないひと、頻繁に来るひと、来なくなったひと、来れなくなったひと。ショック過ぎて、その人の名も顔も忘れてしまったひと。
そして……ずっといつまでも、忘れられないひと。
アルバートにとってのローズマリーは、忘れられないひとなのだろう。
「陛下も責めているわけではないのです。ただ領民のことを考えられているからで……伯爵様の解放というのも本心かと思います」
『アルバートも考えていると思うの。あれで少しは政務もしているのよ』
「……はい」
『いつかちゃんと、きっと元通りになれる……だからできる範囲で元気づけてくれると嬉しいわ』
「はい。一緒に解決しましょう」
『領主として、皆が満足いく状態じゃないのは分かっているけど』
ローズマリーは心から心配そうに眉根を寄せた。
「ローズマリー様。亡くなった人は、地上に強い心残りがあると天に昇れないと聖典で読んだことがあります。あれは人生の心構えの話かと思っていたのですが……」
『でも私、あの時点ではアルバートへの心残りはなかったわ』
「そうだったんですか?」
『元々は学者か教師になりたかったの。それが領主を支える大仕事でしょう、張り切ったわ。
大事に、それから立派な領主になれるよう厳しく育てたんだもの。領主の仕事はもちろん、王城での礼儀作法も、ダンスの仕方も、あと着替えもね』
着替え? 一瞬と思って、クロエは王妃から聞いていた話を思い出した。伯爵が両親を亡くしたのは5歳だったと。
このままでは親戚か近隣の領主か、領地の富豪か。誰かにいいように操られるか、城を奪われるかもしれない。そうなったら不遇な一生を送るだろう。
だから家令たち城の皆は大層心配して、妻を探して欲しいと王家に願い出たのだ。領主の婚姻年齢の特例使用を認めるための会議もあったらしい。
『小さい頃は一人で寝られないって泣くから、毎夜本を読んであげ……あ、これは秘密ね』
ローズマリーは指を手帳から離して、ごほんと咳払いの仕草をした。息は出ない。その姿は、面倒をみた弟が立派に育った姿を誇らしく思っているようだった。
『バイオリンなんて私よりずっと上手なのよ。だから未練なんてあるはずないわ。
……ただ、死んだ前後の記憶がなくて……言ったでしょう? 森に行って、足を滑らせて崖から落ちたんだけど、ちょうどその前後、丸一日ぶんの記憶がなくて』
「そこで何かあったんでしょうか? 死んだ覚えがないだけで留まるのでしたら、地上は幽霊だらけということに……」
だとしても、クロエは彼女以外の幽霊を見たことはないのだ。気付かれないだけ……ということはありうる。
「……そうなったら困りますね」
幽霊に覗かれ放題だ。
『もちろん、彼と適切な距離は保ってるわよ。生前も、死後も』
想像が伝わったのか、彼女は慌てたような顔でぱたぱたと手を振った。
『そうね、新しい奥様に申し上げるのも……、』
「ローズマリー様、敬語は不要です」
『……言うのもなんだけれど、白い結婚どころか、私たちは本当に姉弟のようだったの。アルバートは一人っ子だったし私は下に妹だけだったから、初めての弟にちょっと戸惑ったけれどね、嬉しかったわ』
クロエに向ける微笑も温かい。きっと生きていたらクロエにとっても姉のように思えたに違いない――そうしたら、こんな風に出会うことはなかったけれど。
「……ローズマリー様と伯爵様は、本当に仲が宜しかったのですね」
クロエは微笑んでそう言い、彼女はちょっと複雑そうに微笑して――その時、突然、開いたままの豚舎の入り口からぬっと影が現れた。
クロエは声を飲み、場違いな笑顔を慌てて消す。
見覚えのある麦の穂の……長い髪の下で、細められた目がじっとクロエを見つめてくる。
「は、伯爵様……?」
「……あなたが」
「はい」
「あなたが、豚に向かって独り言を言っていると聞いた。しかも柵の中で」
「……え? ……あー、ああ……」
足元を見れば、スースーのいる、柵で囲まれた小部屋の中。……望んでと言うより、近づきたい彼女を宥めるためにローズマリーが入るので、着いて行っているだけなのだが。
……そういえば、豚舎の前をたまに人が通るし、管理人が来る時には咄嗟に口を噤んでいたけれど、間に合っていなかったかもしれない。
確かに、精神的に追い詰められていると思われても不思議ではない。
「しかも誰もいないのに、豚には笑顔で。もういい……あなたのことは分かっている」
「な、何をでしょうか。王家からの命について、隠していることなどは何も……」
伸びきった髪にも威厳はないけれど少しの圧を感じ、クロエの背が知らず知らず伸びる。隣のローズマリーも背を伸ばしている。
……まさか、死者が見えることに気付かれたとか。
実は自分の幻覚である可能性もほんの少し考えたが、スースーにも見えるなら間違いではない――豚は証人には心もとないけれど。
「……監視役にしてはおかしいと思ったんだ」
「何がですか……」
「監視役や指導役にしても、聞き役にしても、いくらなんでも、全く話しかけてこないとは思わなかった。
……王城の思惑に巻き込まれて人間が嫌になったのだろう?」
「……え?」
クロエは目を瞬いた。
本当は伯爵に話しかける前にローズマリーと相談しようと思って後回しになっただけで……思いっきり勘違いされている、のだが。
その顔には心配しかないので、言い訳も言い出せない。
「……使用人にはあなたのことは気にしないよう、よく言い含めておく。……配慮が足りなかったな。ゆっくり休めばいい」
落ち着いた声に滲むのは優しさと、深い悲しみだった。そうして葬儀の時によく遺族から聞いた響きが何であるか、やっと思い出した。
あれはそう、生きるのを諦めかけている音だ。
「伯爵様……あの、それは、ちが……!」
クロエは咄嗟に否定しかけながら手を伸ばした。
避けているはずなのにもう三度目になるから分かったが、アルバートはいい人だ。王命で気を遣わなければいけない相手だったとしても、不審な動きばかりの彼女に自ら声をかけて確認してくれるくらいには。
『……違うの、本当に?』
ローズマリーの瞳が真っすぐにクロエを射抜いている。クロエは初めて彼女のことを恐ろしく思った。
***
「ローズマリー様が森に出掛ける前、何をしていたかですか?」
執務室を突然訪れたクロエに、家令のヘイズは書類から顔を上げてわずかに驚いたような顔をした。質問を、声を掛けるとも思っていなかったに違いない。
確かにクロエにも予定外だ。でもこれ以上人を避け続けて、アルバートに無用な心労を与えるわけにはいかない。
「直前のことなら、森にキノコ採りに行く準備をしていましたよ。豚のスースーのおやつも欲しいと。数日前から準備をしていらっしゃいました」
「キノコ採りですか」
「今年の秋に行われる収穫祭は、10年に一度の大祭です。ご存知でしょうが、領主たちが各地の伝統料理を持ち寄って国の成立を共に祝うことになっています」
クロエも知識としては知ってはいるが、前回ならまだ10歳だ。その頃は田舎の教会にいたから王都のそれは見たことはない。
国内の伝統料理は国土の平定と豊かさの象徴。皆で「食べる」ことで国土の広さ、実りを分かち合うことをアピールするものらしい。
とはいえ、基本的には人が大勢王都に集まって、美味しいものを食べたり飲んだりするだけの楽しい祭りだ。
「国中の領主たちがコックを連れて王都に向かうのです。ただ、アルバート様のご両親がレシピを記録されておらず……」
「そうなんですか?」
「作り方はキッチンに残っているのですが、最後の隠し味だけを秘密にされていました。なくても何とかなるだろう、許してくれるとコックも私も言ったのですが……」
――舌はごまかせないわ。
ローズマリーはそう言って、レシピの再現に励んでいたらしい。
「ローズマリー様もアルバート様も、本当にこの土地が好きでしたから。それから土地の料理も。拘りがあったんでしょう」
「あと二月ですね……もし良ければ、私もそのお料理を食べてみたいのですが」
ヘイズは快く請け負ってくれた。こちらに来てから清貧のためパンとジャガイモ、少しの肉と野菜にしていたから心配していたのかもしれない。
その夜、食堂には伝統料理が幾つか並んだ。
国王に捧げるメインとなるミートパイは起源が古く、パイ生地に似た分厚いバター入り生地に、野兎と刻んだ野菜や野の香草、森のキノコをたっぷり詰め込んで焼いた素朴な料理だった。
フォークを入れるとさくりと、折った生地の断面が層を晒し、肉汁が皿に零れた。肉と香草の素朴な味わいはこれだけで十分美味しかったが、百年残る特徴がない、と言われればそうなのかもしれない。
言い伝えによれば、特別で素晴らしい香りがするというのだが。
「……食べる気になったか」
細長い食卓の向かいには何故だかアルバートが座っていて、痩せた手首でフォークを怠そうに操っていた。
今日は隣にローズマリーの姿はない。何処に行ってしまったのだろう。
「良かったな」
もしかしてずっと心配してくれていたのだろうか。クロエが見返すと慌てて顔を俯ける。
「……ヘイズから聞いたが、ローズマリーに興味があるそうだな」
「……はい。……素晴らしい方だと」
そうクロエも思っている。そう返せば、俯いた顔と長い髪で良く見えないが、眉間に皺が寄ったように思えた。
「今、巷では教育に失敗したと言われているかもしれないな。もしくは、教育の甲斐のない領主だと」
「……ローズマリー様は伯爵様を信じておられたのでは」
「死後に素晴らしい働きをしたとして、自分自身の名声にする気はない。そうなれば今以上に、ローズマリーが早く死んで良かったと言われたり……」
「そんなことをどなたが」
「娘を嫁がせたい貴族たちだ」
目線が上がる。どこか悲壮に見えた。
「だから俺は誰とも結婚するつもりはない」
食事が済んだあと、アルバートはついて来るようにと促した。
灰色の城の裏手には、同じく灰色の石積みでできた城壁があちらこちらにあって、草地の一角に小さな教会と代々の領主の墓が置かれていた。その一つに白い花が飾られている。
平たい石が置かれたローズマリーの墓には、常にアルバートによって掃除と、花が供えられていることを知ったのはつい先日のことだ。
「俺は彼女の火葬を望んだ。死んでまで土に埋もれたくないだろうと思ったが……せめてもの実家の希望を叶えた方がいいだろうと思って」
今は火葬が主流だから、むしろローズマリーの実家が古風だと言える。尤もだと頷きかけて、首を傾げた。
「せめてもの希望と仰られますと……?」
「二度目の結婚も彼女は子供を生まなかった。白い結婚だった。
だから死体を実家に引き取りたいと……彼女の母親は言った。領主夫妻が死んだ縁起の悪い家で、娘が教育係として出された挙句に死んだんだ。思うところがあったんだろう。
だが領主の妻だ、法律上、ここに埋葬することになっている」
アルバートは吐き捨てるように続けた。それは彼女の母親ではなく、自分自身に向けてのように思えた。
「ローズマリーのことは本当の姉のように思っていた。……妻じゃない。
いくら幼かったからと言って無邪気に姉と慕って離婚も思い付かず、彼女を17歳から十二年以上もこの家に閉じ込めて、ちゃんと恋愛する可能性も子供を持つ幸せも、奪ったのは俺だ。
彼女を殺したのは俺だ。……だから結婚は勿論、俺はもう家族は持たない。……そう陛下に伝えてくれ」
家族を持たないということはつまり、領主の大事な仕事――血を残すことを放棄するということだ。
養子という選択肢もあるだろうが、アルバートの年齢相応の身長は、丸められた背中のせいなのかひどく小さく見えた。
クロエは何か言おうとしてできず……それから、墓石の向こうで立ちすくむローズマリーを見た。今にも泣きそうな顔で、目を大きく見開き首を横に振っている。
だからクロエは口を開く。
「……誰かにかけられなくても、伯爵様はご自分に呪いをかけられたのですね。ローズマリー様はそんなこと望んでないと思います」
「あなたに何が分かる?」
「それは……それは、」
クロエは口ごもる。アルバートにしてみれば、クロエはローズマリー本人に会ったこともないのだから、口を出す問題ではない。
では、幽霊に会ったと言ったらどうか。
信じてもらえるだろうか。彼女や、彼女とアルバートと二人の間でしか知らない話をすれば、証拠にはなると思う。
ではそうしたら、彼は何故クロエにだけ彼女が見えるのかと……悩み、憎まないだろうか。自分に絶望したら?
葬儀は区切りをつけるためのものなのに、もうとっくに済んでしまったのに。
「まさか……幽霊が見えていると言い出すんじゃないだろうな」
「それは、そんな……」
クロエが言葉を継げずにいると、アルバートは顔を逸らしてから呟いた。
「……済まない、勝手に呼びつけて八つ当たりを……。ともかく、政略結婚なんて不幸にしかならない。あなたも一年後に向けて、今から身の振り方を考えた方がいい」
去っていくアルバートの背を見送って、その背後で、彼を追えないローズマリーがその場で泣き崩れるのを見て。
クロエは彼女に近付いて背をさすろうとしたが、手は冷たいものに浸されるだけだった。彼女の喉は震えているのに、泣き声は聞こえなかった。
『私の方だわ、アルバート』
声は聞こえなかったが、ローズマリーの口は一度、確かにそう動いていた。
***
クロエは彼女を自室に送ると、家令室に行って再び確認した。彼女は亡くなった年には薄々離婚を考えていたらしい。
「たまに、他の若い令嬢との出会いを勧めている節がありました。
口にこそされませんでしたが、王都の学校に興味があったようです。……我が領のことを知りすぎるほど知り過ぎていましたから、他の領地に仕えるのは色々と不都合があると思われたのでしょう」
その頃にはもう、アルバートは一人で政務を立派に行えるようになっていたらしい。
「懸案事項は例の収穫祭のパイくらいで、立派に独り立ちされたことをきっと国王陛下や皆に伝えたかったのでしょう」
ヘイズはそう言ってクロエも納得していたが、キッチンの見解は少々違った。
「アルバート坊ちゃんがまだ小さくて食が細かったころに、伯爵夫人が……お母様が例のパイを焼いてくれたことがあったんですよ。それを大層気に入ってパクパク食べたってローズマリー様に話したらね」
コックは懐かしむように言ってから、不躾で済みませんと頭をかいた。
「いいえ、もっと話を伺いたいです。……ローズマリー様が森に行かれる前後、変わった様子はありませんでしたか?」
「いいえ、特には。……ああ、そういえば」
「何かあったんですか?」
「ちょっと前に二人で領地の視察で遠出されましてね。坊ちゃんは昔はそんなに体が強くなくて、久々に高熱を出していたんですよ。それで体にいいものを作るってキッチンに来てから――」
「ありがとうございます。知りたかったことが聞けました」
クロエはすぐにヘイズに、ローズマリーの部屋の鍵を開けてもらった。彼女の姿は幸か不幸かない。
戸棚にずらりと並ぶ専門書はクロエには難しいものばかりで、どれも上部が擦り切れていた。その合間に、特別古びた革表紙の本が挟まっていた。
***
「スースー、ちょっと待って」
木立の中をすいすいと歩く豚の尾を、クロエは精いっぱい追う。整備されていた遊歩道は、今はほとんど獣道になっていた。
時刻は午後四時。もう一時間ほどは歩いた計算になる。
「そろそろ戻らないと……」
出てくる時には、ほんのちょっとのつもりだった。日が傾き始めれば木陰の下はあっという間に暗くなる。いくら道があるとはいえ、不慣れな森なのだ。引き返すべきだろう。
「スースー、止まって」
遠くを歩くスースーは呼びかけに答えてくるりと振り向いたかと思うと、嬉しそうに鳴いて――前に駆けていった。
クロエは急いで走って追って、道の真ん中で急停止した丸いお尻にぶつかりかけた。
「スースー、どうして……、……ここは」
土と草に覆われた道は突如一層細くなって、急斜面になっていた。道の上からは大木の根とそれに捕まえられた土が道にせり出し、道の下からは川の流れが聞こえてくる。
クロエは慌てて荷物の中から紙を取り出して大木の根元に近付く。ローズマリーの部屋で模写したイラストと特徴をもう一度頭に入れているうちに、スースーが跳ねてそこに近寄ると、鼻をくんくんさせて――、
「何をやっている!」
――突如聞こえた声に、クロエとスースーは同時に飛び上がるようにして振り返った。
「は……伯爵様……!?」
運動不足がたたったのか、膝に手をつき肩で息をしているアルバートに、クロエもスースーも目を丸くした。
「何でこちらに……?」
「それはこっちのセリフだ。到着するなり気絶するわ、魔除けを刺すわ、豚相手に独り言を……あげくに森に一人でなどと、何を考えているんだ!」
「……あ……」
疲労困憊と言った様子でも、顔を上げるアルバートの目にははっきりとした怒りがあった。……これは、自殺志望と思われている。
今度はどう言い訳したものかと考えて、だが続いた言葉に背筋に冷たいものが流れていった。
「ローズマリーは! この辺りで死んだんだ!」
「……そう、でしたか……」
足元を見回せば、確かに滑りやすそうだった。もし今、雨が降っていたなら余計に掴まるところもなく転げ落ちていただろう。
「事故死だった。……だから頼む、ここで自殺しないでくれ」
「でも私には自殺の理由なんてありません」
クロエが落ち着いて答えれば、アルバートは首を振る。
「ヘイズが、いや、……俺宛てに来ていた手紙を、さっきやっと開封した。王妃殿下はあなたの事情を詳細に書いていた」
「……そうでしたか……。……伯爵様の監視も、様子見も、本当です。伯爵様に関することで嘘を申し上げたことはありません」
「それは任じられたあなたが、そういう人だからだろう……あんなことまで」
「ええ。もう、そうとしか生きられないからです」
クロエは彼が全てを知ったのだと理解して、微苦笑した。
――クロエ・モーテの生家は教会である。
教会の司祭は男性しかなれない。だからクロエは祖父や父親がしている役目を兄に譲り――兄は本当は城で騎士をしたかったらしい――初めての夢を小さい頃に諦めた。
二つ目の夢は恥ずかしながらお嫁さんで、教会で挙げる結婚式の花嫁が幸せそうだったので憧れていた。
思春期になる頃には修道女になろうと思い立ったが、これは実家と他の修道院の……宗教上の関係がややこしいらしく、簡単に叶いそうもなかった。寄付金が思ったより必要だったのだ。
やがて兄の結婚で家に居づらくなったクロエは両親の勧めもあって城勤めに出た。給料と行儀見習いに加えて、出会いもあるだろうというのだ。
それから王女に仕えるうち、王妃に気に入られて侍女になったのだった。
二つ目と三つ目の夢は諦めていなかったが、二つ目は早々に駄目だと悟った。田舎の教会から出て来たばかりの小娘は、洗練された貴族たちの中ではからかいの対象になるだけだ。それに政略結婚や不潔なことも沢山目にして、夢はすぐ見なくなった。
「その男は」
「貴族ですよ、私よりずっと身分が上なのです。誰にでも声をかける人だったんです。周りの貴族のご令嬢が当然知っているべきことにも気付かなくて……いえ、利用されていると気付いたのが遅くて」
ずっと教会で育ってきたクロエには男性への免疫がなかった。手を取られて甘い言葉をささやかれて混乱して――二度、三度呼び出しに応じて会話をして、恋が始まるのだと思っていた。
……まさか当時仕えていた王女から侍女を遠ざけて、一人きりにするタイミングを計られていたなんて。
「ほんの少し会話をしただけです。ですが、戻られた時に王女殿下は男に迫られていました。強引な求愛や不貞は最も忌むべきもののひとつです。ですから私は、そこにあった花瓶を手に取って後頭部に――」
振り下ろして、怪我をさせた。
醜聞は王家の預かりとなった。両者のためにもみ消されたが、どこからかクロエが王城で暴力を働いたという噂が聞こえてきた。
「その後すぐ王妃殿下の侍女になりましたが……噂は消えず、ここでほとぼりをさますといいと……」
「実家には戻れないんだろう」
「……私のことはでも、いいのです。ご心配をおかけしました」
クロエは頭を下げた。
「ここにはローズマリー様がお探しになられていたキノコを探しに来ただけなんです。本当です。ほら、スースーも一緒に」
同意するようにぶぅ、と鳴く彼女の頭を撫でると、肩で息を吐くアルバートにクロエは手元の紙を見えるように差し出した。
「ローズマリー様が陛下に捧げるパイを作ろうとされていたのは、伯爵様がご立派になったと自慢したい気持ちも、領地のためもあるかもしれませんが……伯爵様のお母様の味を再現しようと、挑戦されていたのだと思います」
クロエが見つけた手掛かり――古い革表紙の本は、伯爵の母が残していた日記だった。それからもう一冊。
ローズマリーは嫁ぐにあたって、実家からいくらかの家具と大量の本、教材を城に持ち込んだ。そのひとつ、机の引き出しの一番上は二重底になっていて、中に日記が入っていた。
最初は若いローズマリーが育児に奮闘する様子、そして最近のものは料理のレシピが書き連ねられていた。
「古いレシピに使われたキノコは、こうやって崩れて現れた木の根にしか付かないそうです。スースーが見つけてくれました」
主人同士の会話が続いているとほっとしたのか、スースーはその茶色い傘の、見た目は変哲のない丸いキノコに平たい鼻をすり寄せていた。
実際にひとつクロエがもぎ取れば、ほのかに香しい――熱を加えるとそれは素晴らしい香りになるという。
「日記を見たのか」
「不躾だとは思いましたが、少し。……ローズマリー様はここでじゅうぶん、お幸せだったと思いますよ」
「あなたに何が……、っ」
アルバートはそこで、クロエの頬を伝い始めた涙に息を呑む。
「……申し訳ありません。お二人が生前、どんなやり取りをされていたのか知らないのに」
クロエは手の甲で拭ったが、なかなか零れる水は止まらなかった。それどころか声が揺れてしまう。
「ローズマリー様を信じてあげてください。それからあの方を幸せにできたと、伯爵ご自身を。でないとあの方はずっと……」
あの後、豚舎の片隅でぼんやりと膝を抱えるローズマリーを見付けた。彼女はずっとここから旅立つことができず、アルバートを見守ろうとするだろう。
彼に見たものも、話したことも告げることはできない。もう二人の住む世界は別れて、再会など出来ないのだから。二人に未練を残してしまうことはできない。
彼女の心残りはきっと、アルバートに親の愛を手渡して、独り立ちを見送って、それから――。
「分かった……分かったから、泣き止んでくれ。……いや、彼女のために泣いてくれて……ありがとう」
クロエの頭上から焦った声が、それから涙交じりの声が聞こえて、肩に暖かな手が触れた。
――アルバートが頷いて、それから数日後。
ローズマリーは豚舎から不意に立ち上がると、庭に出た。
彼女の墓は使用人たちに寄って掘り起こされ、棺は火葬場に運ばれて火が焚かれた。煙が天に昇り、クロエは司祭の横で祈りをささげ、バイオリンの音が鳴く。
***
収穫祭を前にして、コックが再現したパイが領民に振る舞われた。コックは勿論アルバートやヘイズがお墨付きを与えたそのパイのレシピは、領主のアルバートと共に王都へ発った。
「わざわざ王都に連れてきて済まない。……あと半年もすればあなたは自由だ。だから釣り書きを入手させたんだが……」
旅立つ直前、アルバートは執務室に持ち込んだサイドテーブルに積み上がげたそれに目をやった。
髪はまだ痛んではいるが、もうすっきりと切られていて、微笑が良く見えた。
今まで溜め込んだ仕事の書類があちこちに山になっていたから、置き場がなかったのだ。
「アルバート様のお眼鏡にかなった方は?」
「どいつもこいつも気に喰わない」
アルバートはそう言って、苦笑した。
「馬鹿々々しいと思わないか? 釣り書きには、キノコを探しに森に行ったとか、王女を庇って花瓶を振り下ろしたなんて書いてないんだ。……気になった男がいれば、こっそり王都に戻って探してみるといい」
「それでは、アルバート様の釣り書きは……?」
クロエが遠慮がちに尋ねれば、首を横に振られた。
けれど彼女は心配はしない。
その背後には誰もいない。彼の背後にかかっていた豪華な額縁は今は外されていて、ローズマリーは彼女の寝室で優しく微笑んでいる。
側にいなくとももう大丈夫だから。
あの再びの葬儀の前日。自身の棺を見つめながら、アルバートが奏でるバイオリンの音を聞くローズマリーは泣いていた――幸せそうに微笑みながら。
「前妻が二人もいる辺境の男に嫁ぐことを希望する女性も、流石にいないだろう。だが……もし自分一人で領地をちゃんと運営できると示せたなら、その時は自分から駄目元で申し込む」
――そうしてアルバートは王都で一人で立派に領主の役目を果たし、戻ってきて、また半年が過ぎ。
クロエは約束通り離婚して王都に戻り、約束通り再び王妃の侍女となった。
***
王城の大広間、煌びやかなシャンデリアの光を受けて、麦の穂色をした髪が揺れる。整った顔立ちに琥珀色の瞳には年相応の色気が備わっていた。眩いばかりの美しさは身を飾る宝石にも劣らない。
あれから三年、アシュフォード領の繁栄は王都にまで届くようになった。若さゆえにすぐに立ち直った若き伯爵は、瞬く間に元の辣腕を振るっているという。そして未だ、独身だ。
そんな優良物件に集ってくる令嬢たちの間を器用にすり抜けるその人が、時々爪先をぶつけているのを見て、クロエはあれは元からだったのかな、と少し思った。きっと隣でローズマリーが上手くサポートしていたのだろう。
「……失礼、わたしには忘れられない人がいるので」
「それはどなたですの?」
アルバートには忘れられない人がいる。そしてクロエも彼女のことを忘れられないだろう。
それでいいとクロエは思った。思い出は自然に忘れたり増えていくもので、無理やりに失くすものではない。
ただ、王都に戻ってから考えていた、彼の言葉を――駄目元で申し込むという言葉を思い出すたびに、ちくちくとした痛みのようなものを感じてしまう。
彼の幸せを願ったローズマリーには到底なれない。彼女のようになれたら、また違った道を選べたかもしれないのに。
挨拶に訪れる臣下たちと難しくも繊細な会話に花を咲かせ、上手くいなしていく王妃に飲み物を渡していると、彼がまっすぐこちらへ近づいてきた。
そして正装のアルバートは王妃の前で腰を折ると、クロエの目の前で恭しく挨拶する。……誰が見ても立派だと褒めたたえるだろう。勿論、ローズマリーも。
「……クロエ、あなた呼ばれてるわよ」
ぼんやりと眺めていると、王妃が口を笑みのかたちにする。
目を瞬けば、クロエの目の前に、手袋をはめた手が真っすぐに差し出されていた。
「クロエ・モーテ嬢、わたしと踊っていただけますか?」
「……え」
行ってらっしゃい、と王妃に促されてクロエがおずおずと手を差し出せば、彼は笑顔を浮かべて手を取る。
公に告知こそしなかったものの、一度は結婚してすぐに別れたはずの二人を、王妃以外の周囲はぎょっとしたように眺めている。こそこそと話をしている貴族たちも見えた。
「私……彼女ほど上手ではありませんが、それで宜しければ」
「もちろん。今まで聞きそびれていましたが……クロエ嬢の他のご趣味は」
「敬虔で静かな生活です」
次の曲が始まって、ホールのダンスの輪の中に入る。言葉通りぎこちないクロエの動きをアルバートはリードしながら尋ねる。
「それから食事に至るまでの質素倹約も?」
「つまならい女でしょう?」
「つまらなくはない。いざという時には勇敢になる女性です。……わたしの故郷の、伝統のパイの味は?」
「ええ。それからスースーや豚たちも。彼女は元気ですか?」
その答えに、アルバートの声音が変わる。あの森で聞いた温度に。
「流石に年だが、まだ元気だ。……一緒にうちに戻ってくれないか。今度は本当に妻として」
「……伯爵様こそ、やらかした私などで――」
「噂でも何でも、勝手に言わせておけばいい。……やっと、やっと誰かを好きになれたんだ。……あなたもそう思ってくれるなら」
ふと見上げれば、泣きそうな顔があった。
側で踊っていた可愛らしいご令嬢が送っていた目線から、少し失望した気配がした。でもクロエはそれもまた彼だと知っている。
人目を惹く美しい外見も、仕草も、豊かな領地も今の彼にはある。……けれどどうやって身に付けたのか、一人でここに足を踏み入れることができたのか。その痛みも、勇気も、至る過程も知っている女性は、今は――きっと自分だけだ。
クロエはだから頷いた。けれど、次の言葉は継げなかった。アルバートの足がぶつかってダンスが止まって、人前なのに両腕で抱きしめられたから。
――今はクロエの夫には、もう一人、忘れられない人がいる。




