一人飯 :約6000文字
「ちょっといい?」
「えっ」
突然、こんこんとテーブルを叩かれたかと思うと、頭上から声が降ってきた。おれは手を止めて、顔を上げた。
夜のファミレス。夕食時のピークはとうに過ぎたらしく、客の数はまばらで店内にはゆったりとした空気が漂っていた。厨房のほうから聞こえてくる食器の触れ合う音や遠くの席の話し声が静かに響いている。天井の照明から注ぐ橙色の光は柔らかく、あれだけ眠ったにもかかわらず、どこか眠気を誘われた。
会社から帰宅してそのまま泥のように眠り込んでしまい、目を覚ましたときには翌日の夜になっていた。自炊する気にもなれず、おれは駅前のこのファミレスにふらりと入り、遅い食事をとっていたのだった。
「あのさあ、不愉快なんだけど」
中年の男はそう言って眉根を寄せた。白髪をきっちり真ん中で分け、べっ甲柄の眼鏡をかけている。上下とも紺色のジャージ姿で、口元と顎にうっすら髭が生えていた。無精髭なのか整えているのか、どちらとも言えないところだった。
「え、えっと……これですか?」
おれは戸惑いながら皿のペペロンチーノをフォークで軽く指し示した。
いや、わけがわからない。確かに音を立てて麺をすすっていた気はするが、わざわざ注意しに来るほどのことだろうか、とおれはわずかに首を傾げた。
「一人で食べてることだよ」
「はい……?」
おれはさらに首を傾げた。すると白髪の男の背後――少し離れた席に座る男が、妙に背筋を伸ばしてこちらを見ていることに気づいた。おそらくこの白髪の男の連れなのだろう。口元に薄く笑みを浮かべているようにも見えた。
「一人でご飯を食べてる人を見るとね、僕、ものすごく不愉快になるんだよね」
白髪の男は少し笑いながら言った。おれもつられて愛想笑いを浮かべた。
だが、その直後だった。頬に鈍い衝撃が走った。
「え? え? え……?」
フォークが手から滑り落ち、皿の縁に当たってカチンと音を立てた。おれは呆然と頬に手を当てた。振動が顎からこめかみを抜けて後頭部まで駆け上がり、じんとした痺れが耳の奥まで滲む。それからじわりと熱を帯びた痛みが頬骨のあたりから浮かび上がってきた。
今、何が起きたんだ。おれは殴られたのか……?
「あのさ、外食って家族とか友人とか恋人とか、誰かと美味しいものを囲んで仲を深めるための行為なわけじゃん。フランスでは一人で外食する人って変わった人や事情がある人だと見なされる文化が昔から根強くあって――」
白髪の男は何事もなかったかのように、身振りを交えながら話し続けた。その手が顔の前に来るたびに、おれの肩がびくっと跳ねた。
いったいこの男は何を言っているんだ。一人で食事をするのが不愉快? いや、だとしても初対面の人間を殴るなんてどうかしているとしか思えない。酒でも飲んでいるのだろうか。
おれは助けを求めるように白髪の男の連れへ視線を向けた。
しかし、連れの男は立ち上がろうともせず、「あーあ」とでもいうようにわずかに口を開け、こちらを見ているだけだった。おれを気の毒に思っているようで、だが止める気配は一切なく、むしろ珍しい見世物を眺めるような目つきだった。
その表情を見た瞬間、おれは昔いじめられていた頃のことを思い出し、心臓がぎゅっと掴まれたように縮み上がった。
「あのさ、聞いてる?」
「あ、は、はい」
「なんで一人で食べてるの?」
「いや、なんでって……あの、でも、別に大丈夫なんじゃないんでしょうか……」
「大丈夫?」
「は、はい。お店も一人は駄目だなんて言っていませんし……」
「あー、言われなければ何をしてもいいと思ってるんだ。そういうタイプね。はいはい、やっぱりね」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
「『そんなルールどこに書いてあるんですか?』って言いたいわけでしょ? はあ?」
「いや、そんなことは言ってませんけど……」
「あのさあ、一人よりも二、三人で来たほうがお店の売り上げは増えるよね?」
「それはまあ、そうでしょうけど……」
「お店は断れないだけなの。本当は一人客なんか来てほしくないわけ」
「そうでしょうか……カウンター席もありますし……」
「あれは並んで食べたい人のための席だから。それに君、二人席に座ってるじゃん」
「いや、店員さんに案内されたので……」
「あー、店員も後から連れが来ると思ったんだろうね。まさか最初から最後まで一人だとは思わないもん」
「いや、そんなこと――えっ」
苦笑しかけたその瞬間だった。パン、と乾いた音が響き、再び頬に衝撃が走った。
今度は鋭く、皮膚の表面が焼けるようにひりついた。視界が一瞬ぐらりと傾き、顔が横に弾かれたものの、おれは反射的に白髪の男のほうへ視線を戻した。
どうやら今度は拳ではなく平手だったらしい。いったいなぜ、何が気に障ったのかまるでわからず、おれはただ目の前の男を見つめ返すことしかできなかった。
「昔、まだ貧しかった時代にはね、みんなで集まって食事をする習慣があったんだよ。たとえ豆一粒でも味噌汁一杯でも、分け合って食べる。それが食事なの。食事っていうのは人との絆を深めるための大切なコミュニケーションの場であって、『一緒に食べる』ことが本質なんだよね。それを君はさあ……」
白髪の男はまたしても何事もなかったかのように話を続けた。そのことが、おれには何よりも恐ろしかった。
感情に任せて怒鳴り散らされるほうが、まだ頭のおかしい人間なのだと割り切ることができただろう。しかし、こうやって平然とした態度で喋られると、自分のほうが何かとんでもない過ちを犯しているのではないかという気分になってくるのだ。
「一人で食事するっていうのは、周りに『私は誰とも馴染めません』『寂しい人間です』って叫んでいるようなものなの。そういう空気を周囲に撒き散らして、みんなに気を遣わせているわけ。それが不快なの。わかる? わからないか。だから一人なんだね」
「いや、まあ……そうなんですかね……」
おれは学生時代、教室で一人で昼飯を食べていたことを思い出した。確かに、周りからすれば目障りだったのかもしれない。実際、陰で――ただし、わざとかどうかは知らないが、こちらの耳に届く声量で――そう言われたり、笑われたことが何度もあった。
あの嘲笑的な笑い声が耳の奥で響き、胃のあたりが重く沈んだ。
「小学校の給食ってさ、なんでみんなで食べるか知ってる? 食育だからだよ。一人で食べるような人間にならないための教育なんだよ!」
白髪の男が語気を強めるたびに、おれの体は勝手にびくりと震えた。
同じだ……あの頃と同じ感覚だ。小学校の頃、何かあるたび怒鳴り散らす教師がいた。廊下まで響き渡るあの怒声を聞くと体がすくみ、足先から血の気が引いていく。何も悪いことをしていないのに、自分まで叱られているような気分になったのだ。
「食べるのが遅くてさあ、一人だけ最後まで残されて給食を食べてる子がいたでしょ? ああいうのを見てさ、『うざったいなあ』『早く食べ終われよ』って思ったことあるよね? そういうことなんだよ」
「は、はあ……確かに……」
「でしょ? 君が今やってることはそれと同じ。いったいどういう育ち方をしたらそんな人間になるのかね」
「いやあ、ははは……」
場の空気が少しでも和らげばと思い、おれは媚びるような笑みを浮かべた。そしてすぐに後悔した。
直後、乾いた音が響き、再び頬に衝撃が走った。また平手打ちされたのだ。ただ、拳ではなかったことにどこかほっとしている自分がいた。
「やっぱりさ、一人でご飯を食べるって、自分の生活をそのまま人前に晒している感じがするわけ。それって、他人に対してものすごく無遠慮だなって思うのよ」
「そう……ですかね……」
「わかるでしょ? トイレと同じなんだよ。人に見せるものじゃないの。それを見る側の気持ちにもなれよ!」
男がまた突然声を張り上げた。だが、今度は体が反応しなかった。いや、できなかった。ただ男の唾を顔に浴びた。
「見たくもないものを、強制的に見せられているんだよ。少しは他人の気持ちを考えてくれよと。ちゃんと鍵をかけてくれよ。嫌なんだよ。迷惑なんだよってわけ」
「はい……うっ」
言葉を返しかけたその瞬間だった。
拳が鼻先にめり込んだ。
鈍い衝撃とともに視界が一瞬真っ白に弾け、焼けつくような痛みが鼻梁から額に突き抜けた。
鼻の奥から何かが込み上げてくる感覚がした直後、生温かい液体が唇を伝った。ぽたっぽたっと血が、ペペロンチーノの輪切りの赤唐辛子の上に落ち、油にゆっくりと溶け込みながら皿の上で赤黒く広がっていった。
「あの、お客様……?」
通りがかった店員が足を止め、おそるおそる声をかけてきた。腰がわずかに引けており、その表情は引きつっていた。
おれは、ぱっと顔を上げた。
「どうかなさいましたか……?」
「あ、あの、この人が急に……」
おれは鼻を押さえていないほうの手で、必死に男を指さした。
「ああ、大丈夫。この人は連れだから」
男はこともなげにそう言った。
「あ、そうでしたか」
店員はほっとしたように表情を緩め、小さく一礼するとそのまま立ち去っていった。
おれは呆気に取られ、声を出すこともできなかった。あのほっとしたような笑顔。あれは面倒な揉め事ではなかったと安心したからではなく、おれが一人客ではなかったことへの反応だったのではないか――そんな考えが頭をよぎり、軽いめまいを覚えた。
ふと周囲を見渡すと、他の席の客たちもいつの間にかこちらを見ていた。夫婦らしき二人連れ、恋人同士と思しき男女、学生たち、スーツ姿の会社員。誰も彼も「あーあ」とでも言いたげな顔で、どこか面白がっているように見えた。そして、そのどれも一人客ではなかった。
「生活感を出すなって話。見たくねえから」
「で、でも、あなたもジャージで――うっ!」
言い終えるより早く平手が飛んできた。おれの顔はまた横に弾かれた。
熱を帯びた痛みがじわりと広がり、耳の奥で甲高い音が鳴り響いた。笑い声、あるいは拍手だったのだろうか。ただそれは幻聴なのか、それとも実際に聞こえたものなのか、それぞれの席の会話の流れで起きたのか、おれに向けられたものなのか。おれにはわからなかった。
「すみません、すみません……」
おれは頭を下げ、ひたすら謝り続けた。皿のペペロンチーノは鼻血で赤く濁り、ミートソーススパゲッティのような有様になっていた。
「すみません……もう……」
もう嫌だ――。おれは椅子から腰を浮かせ、伝票に手を伸ばした。
しかし、男がその腕を掴み、強く引いた。
「皿を持って。ほら、早く」
「え、え……」
「早く」
有無を言わせない声色だった。逆らえず、いや、逆らえるはずもなくおれは皿を持ち上げると、そのまま半ば引きずられるように白髪の男の席まで連れて行かれた。
席に着くと、向かいにいた連れの男が「どうもー」と気さくに声をかけてきた。おれは「どうも……」と掠れた声で返事をし、小さく頭を下げた。
それから男たちは、さっきまでの出来事など存在しなかったかのように談笑を始めた。たぶん、ごく普通の話だ。仕事とかネットとかテレビとか、共通の知人の話題とか。わからない。言葉は耳には届いていたが、意味として頭に入ってこなかったのだ。
おれは「なあ?」と話を振られれば「はい」と返事をし、二人が笑えば慌てて自分も笑った。「食べなよ」と言われれば、すっかり冷め切ったパスタをフォークで巻いて口に突っ込んだ。音を立てないように神経を張り詰め、ほとんど噛まずに飲み込むようにして喉の奥に押しやった。妙に鉄っぽい味がした。
そしてまた二人が笑えば、おれも笑った。
どれほどそんな時間が続いただろうか。
男たちが「じゃあ、そろそろ行こうか」と言って席を立ち、おれはようやく解放された。
会計では、男たちの分まで支払わされるのだろうと思っていたが、普通に別々の支払いだった。それがかえって恐ろしかった。
店の前で別れると、男たちは肩を並べて駅のほうへ歩き出した。笑い声を響かせながら、夜の街へ溶け込んでいく。
おれはその背中をしばらく見送り、やがて二人の姿が小さくなったところで大きく息を吐き出した。まるで長い時間水の中に沈んでいて、やっと水面に顔を出せたような気分だった。
おれは重くなった足を引きずるようにして、家へ向かってゆっくりと歩き始めた。
途中、ゴミ捨て場の前を通りかかったときだった。
ホームレスらしい男が二人、ゴミ袋を漁っていた。一人がおれに気づくと、口元をにやりと歪め、隣の男の肩を肘で軽く小突いた。もう一人もおれに目を向け、同じようににやりと笑った。
二人は顔を寄せ、小声で何かを囁き合っては肩を震わせて小さく笑った。
おれが通り過ぎて間もなく、背後ではっきりと笑い声が上がった。
振り返ると二人ともまだこちらを見ていた。暗がりの中で、その目だけが妙にぎらついて見えた。
アパートへ帰り着き、鍵を閉めると、おれはそのまま床に倒れ込んだ。
口を開けた瞬間、喉の奥から乾いた音が漏れた。嗚咽だった。
しばらく床にうずくまったまま、おれは動けなかった。やがてのろのろと体を起こすと、背中を丸め、足を引きずるようにして洗面所へ向かった。
蛇口を捻った。勢いよく流れ出した水が洗面台を叩いた瞬間、ふいに涙がこぼれた。
いつからこうなってしまったのだろう。
少子化が進み、社会のあらゆる仕組みがこれまでどおりに回らなくなり、独身そのものが問題視されるようになった頃だろうか。独身者による事件ばかりが繰り返し報道され、『独身者』という言葉そのものに危険や欠陥の響きを帯びるようになった頃だろうか。一人で行動する人間が不審者として警戒されるようになった頃だろうか。独身者ばかりが強盗や詐欺の標的にされ始めた頃だろうか。そして、『だって独身だしな』と世間から同情すらされなくなった頃だろうか。
社会が悪いのか。それともおれが悪いのか。独身であることは罪なのか。友達がいないことがそんなに悪いことなのか。
いつからこうなってしまったのだろう。どこで間違えたのだろう。
おれは独りだ。
おれがいけないんだ。おれのせい。おれが悪い。「いや、お前は悪くないよ」。……そうだよな。おれは悪くないよな。ありがとう、ありがとう、優しいなあ……。
おれは濡れた指で鏡を撫でつけた。水滴が筋を引き、映る像を歪めていく。
その崩れた顔を見つめながら、おれは泣き、笑った。




