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いつか見た夜空の続きを(前編)


  ○


 日暮れ間際の風が運んできたのだろう。格子(こうし)の隙間から見える空は、厚い雲に覆われていた。

 今にも降り出しそうな曇天(どんてん)に、小さなため息がこぼれる。


「今夜は雨……かな」


 ふと洩らした独り言は、不自然なくらいに響き渡った。

 四方を囲む壁に、天井に、ただただ反響していく声。

 誰も答えるものはいない。そう思うと、胸がツキンと痛む。


「雨は……嫌いだ。あの日を思い出すから」


 そうやって言葉にすると、胸の奥がズキズキと痛んでくる。押し込めていたあの日の記憶も、よみがえってくる気がした。

 俺が……一人になった、あの日。

 何十年、いや……百年を優に超える月日を過ごしても、あの日の痛みを受け止めることができない。

 息苦しくて、紛らわそうと(うつむ)いて……耳の横で微かに響く鈴の音。

 あいつが残してくれた、俺だけの宝物。


「あの頃は……もっと澄んだ音だったのにな」


 そんなことも、今の俺には少しだけ辛い。

 もう一度深く息をついて、そっと体を横たえた。

 格子からこぼれてくる空気が、さっきよりも更に湿り気を帯びているのがわかる。そう遠くなく、夜の空から雨粒がこぼれ落ちてくるんだろう。


(朝には、上がっていてくれよ)


 降り出す前に眠ってしまえばいい。そうやって雨をやり過ごして、差し込んでくる日の光の中で目覚めたい。

 そんなことを思いながら、静かに(まぶた)を下ろした。




----------------------------------


  ●


 最初に目を引かれたのは、艶やかな黒い毛並み。

 宵闇よりも暗いはずの黒毛が、光を弾いてきらきらと輝く。そんな不可思議な光景に、ただ見惚れていた。

 視線に気付いたのだろう。

 縁台の上で丸くなっていた子猫が、ふっと身じろぎした。そうして、ゆっくりと顔を上げ、俺に視線を向けてくる。

 その金色の瞳に……また魅入られた。


「君は……一人かい? 家族は?」


 まだ母猫の乳を(もら)っていてもおかしくないほどに小さな体。

 問い掛けにピンと両の耳を立てた子猫が、(かす)れた……けれど甘い声を上げた。


《もういないにゃ。母さんも弟たちも》

「……そうか。俺もだよ」


 そう答えると、立てたままの耳がピクリと動く。目を見開き見つめてくる子猫の顔には、明らかに驚きがあった。


《お前……なんでわかるにゃ? 俺の言ってること》

「ああ、わかるよ。俺は陰陽師だからね」

《おん、みょう…じ?》


 初めて聞く言葉なのだろう。たどたどしい口調も子猫らしくて愛らしい。

 愛らしくて……ふと胸が詰まる。

 意識する前に言葉がこぼれていた。


「一緒に暮らすかい? 俺と」

《……えっ?》

「もちろん君が嫌じゃなければ、だけど。俺の家は、一人で暮らすには大きいんだ」


 思わず口にした言葉に、改めて気付く。あの空っぽの空間が、俺には広すぎたんだと。

 金色の瞳がまっすぐに覗き込んでくる。

 俺の目の奥を……そこに映っているのかもしれない感情を、見通すように。

 俺もまっすぐに見つめ返した。そうして、おずおずと手を差し出す。驚かさないようにそっと。

 拒まないでほしいと、そんな想いを込めて。


《……いいにゃ。お前と暮らしてやるにゃ》

「あり……がとう」


 嬉しくて……本当に嬉しくて、返す声が喉に絡む。

 何かに気付いたのか、しなやかな動きで立ち上がる子猫。そうして、差し伸べた手に額をすり寄せてくれた。

 そんな仕草にも胸が詰まってしまう。ふいに目の奥が熱くなる気がして、何度か瞬きをした。


「少し冷えてきた。中に入ろうか」


 そう声を掛けながら、小さな体を抱き上げた。

 軽くて柔らかくて……暖かかった。手のひらから、身体の全部を満たしてくれるように。

 俺は、この温もりを生涯(しょうがい)忘れないだろう。

 そう……思っていた。




----------------------------------


  ○


 眩しい陽射しに、何度か瞬きをする。

 ゆっくりと手足を伸ばして気怠(けだる)い身体を引き起こすと、格子の隙間から見える空は青々と澄み渡っていた。

 新緑の季節ももう間もなくだ。

 そんなことを考えたからだろうか。

 ふと、あいつの目を思い出した。

 若葉を透かしてこぼれた光を集めたような、淡い緑の瞳。他の村人たちのような黒髪でもなくて、顔立ちも少し違っていた。異国の血でも入っていたのだろう。


「変わり者……だったしな」


 『陰陽師』という仕事に、それほど思い入れがあるようには見えなかった。

 頼まれれば祈祷(きとう)でも夢占(ゆめうら)でも調薬でも、きっちりとこなしてはいた。それでいて、求められる以上の成果を上げようとか、何かを成し遂げて名を上げようとか、そういうことを考えてはいなかったように思う。

 ただ──自惚(うぬぼ)れかもしないが──俺と暮らす日々を、静かな日常を守ろうとしていた。そんなふうに思える。


「なのに、なんで……」


 思わず声がこぼれる。

 問い掛けても答えはない。誰も何も答えてはくれない……わかってることだ。

 それでも、何度目かの()(ごと)を口にしてしまう。

 なぜ、あの日……若苗(わかなえ)は出掛けていったんだろうと。


「放っておけばよかっただろ? さんざんお前に頼っておいて、あんなふうに手のひらを返すような奴らなんて、救ってやる必要があったのか?」


 春先の桜散らしの雨を最後に、一粒の(しずく)すらこぼさなくなった空。

 原因なんてわからない。

 けど……きっと、「自然の摂理」ってやつだったはずだ。あいつには何の責任もない。

 なのに、村の奴らは次々と現れては、若苗に迫った。

 泣き言を口にする奴、あいつの足元に(すが)って懇願する奴、興奮と怒りに顔を赤くしてた奴もいた。

 それでいて、最後は皆が同じことを言ってきた。


『日照りに苦しむこの村を救ってくれ』


 毎日のようにやってくる奴らの相手をしているうちに、少しずつ表情が暗くなっていった若苗。

 深々とため息をつきながら、それでも俺と目が合うと笑ってくれた。

 俺の頭を、背中を撫でる手のあたたかさと優しさは、いつでも変わらなくて、だから、ずっとこうして過ごしていけると……ずっと傍にいられると思っていた。

 あの日まで。


「ダメだって、……行くなって言ったよな、俺? そんなことしなくていいんだって」


 聞き慣れない音に目を覚まして、あいつの姿を探して……奥の部屋で身支度をしている若苗を見つけた。

 浅葱(あさぎ)色の水干(すいかん)、陰陽の紋様が縫い込まれた白地の(ほう)、碧玉を連ねた数珠(じゅず)

 どれも見たことのない物で……どうしてか、背中の毛が逆立ったのを覚えている。

 問い掛ける声が震えてしまったのも。


《ご主人……なんで、そんな格好してるにゃ》


 すぐに返ってこない答えにも感じた違和感。

 いつもなら、どんな時でも、どんなことであっても、俺の言葉にはすぐに応じてくれていたはずなのに。


『……龍神様のところへ行くんだ。だから、失礼のないようにって──』

《ダメにゃ‼》


 最後まで聞く気はなかった。そんなことは受け入れられなかったから。

 地を這う水脈(みお)を、空を覆い尽くす雷雲を(つかさど)るのが龍神だ、そういう知識はあった。その龍神なら、確かに雨をもたらすことができるのかもしれない。

 けど、俺はまた知っていた。

 龍神というものが、人の願いを叶えることなど滅多にない、荒ぶる神だということを。

 だから、引き止めた。

 龍神の元に行くなんて無謀だ。若苗の頼みを聞いてくれるはずなんてない。そう言ったんだ。なのに……


『うん……けど、実際に会ってみないとわからないだろう? たまたま機嫌のよい時で、俺の話を聞いてくださるかもしれないし』

《そんなわけないにゃ! わかってるんだろ、お前も‼》


 龍神が「そういう」存在だと、俺に話してくれたのは若苗だ。

 いや、それだけじゃない。

 みんなみんな、若苗が教えてくれた。

 この世界に在る様々なモノたちのことを。

 この目に見えるもの、見えないもの、俺には感じられなくても確かに存在しているたくさんのモノ……その全部を。


『大丈夫。俺は大丈夫だよ』


 何の根拠もないそんな言葉が腹立たしくて、俺の言葉が、想いが伝わらないのが悔しくて、大きな声で泣き叫んだ。幼い子どものように。

 (なだ)めようと触れてくる若苗の手の甲を、強く引っ掻いたりもした。

 それでも、若苗は聞き入れてくれなかった。少しだけ困ったように笑って、そうして……


「あの時……なんで、引き止められなかったんだろう」


 気付かないうちに、何かの術をかけられていたんだろう。

 意識が少しずつ遠のいて……霞む視界の中、陰陽師の装束を(まと)い終えたその後ろ姿を、ただ見送ることしかできなかった。

 そうして、水乞(みずご)いのために竜神の元へ出向いていったご主人は……夜更けになって俺の元へ帰ってきた。ぼろ切れのようになった装束で。

 最期を看取ったのは……俺だ。


《ご主人⁈ ご主人、目を開けるにゃっ‼》


 横たわるその顔を覗き込みながら、必死で叫んだ。

 うっすらと目を開け、俺の背を撫でる手のひらが冷たくて、いつもの温もりをくれないことが怖くて……心臓が張り裂けそうだった。


《ダメにゃ‼ ご主人っ……死んだら、ダメ、にゃ……》


 視界が(にじ)んで、ご主人の顔が──血の気を失い、死相をこびり付かせたその顔が──よく見えない。

 涙を拭おうと手を伸ばしかけて、瞬きの間にこの命が消えてしまうんじゃないかって気がして、また叫んだ。

 「死ぬな」と、何度も何度も叫び続けた。なのに……俺の祈りは届かなかった。


『…泣か、ない、で……俺、は……』

《ご主人? なんにゃ⁈ 聞こえないにゃ、ご主人、ご主人っ‼ ……返事を……して、くれにゃ……》


 俺の背中から、ゆっくりと滑り落ちていく若苗の手。

 わずかに上下動を繰り返していた胸元も、動かなくなった。微かな吐息さえ、聞こえてこない。

 ここにもう「若苗」はいない。

 そんな言葉が頭の中を渦巻いて、目の前が真っ暗になっていく。

 音も光も、何もかもが消えていく気がした。しとしとと降り続く雨が毛皮を濡らす。その感覚すらも今は遠い。


(俺も……消えてしまえばいい……)


 頭のどこかから聞こえてくる声。

 その声に深く(うなず)いて、そっと若苗の身体に寄り添った。まだ(ぬく)みが残るその身体に。

 静かに目を閉じると、聞こえるはずのない心臓の音が、巡る血の音が、聞こえてくるようで嬉しいと……そんなことを考えていたように思う。

 こうやってご主人の亡骸(なきがら)に添い臥して、俺の命が尽きるその日までずっと一緒にいよう。そう思えたのに……


《なん、にゃ……》


 閉じた瞼越しに光を感じた気がして、薄目を開ける。

 そうして目にした光景が信じられなくて、何度も瞬きをした。混乱する俺の目の前で、光に包まれていくご主人の身体。

 訳がわからなくて、どうしていいのかもわからなかった。

 ただ、(あふ)れる光が眩しくて、目の前が真っ白に霞んでいくのを感じていた。

 光が物理的な圧を持ったような気がして、ぎゅっと瞼を閉じて──

 ふっと光が消えた時、ご主人の身体は消えていた。




----------------------------------


  ●


 胸元で抱えていた小さな体を、静かに床へと下ろす。

 スンと鼻を鳴らすと、右に左に(せわ)しなく首を巡らせる子猫。

 周囲を見回す瞳には、抑えきれない好奇心が見え隠れしていた。


(猫は家につく、って言うし……何があるか気になるのかもしれないな)


 この部屋には、さしあたり危険なものは置かれていないはずだ。自由に見て回っても問題はない。

 それと、持ち帰った呪符(じゅふ)の始末もつけたかったから、しばらくこの場を離れたくもあった。

 そんなことを伝えようとして、ふと気付く。

 この子猫の名前を知らないことに。


「……君、は」

《ん? なんにゃ?》

「いや、そういえば、君の名前を聞いてなかったなって思って」

《ないにゃ》

「え?」


 思わずこぼれた声に、子猫は首を(かし)げた。

 人に例えるなら、遠い記憶を辿っているようにも、伝えられる言葉を探しているようにも見える仕草。

 邪魔をしないよう静かに待ち続けると、しばらくして澄んだ甘い声が聞こえてきた。


《母さんも弟たちも「お兄ちゃん」って呼んでたにゃ。けど……そういうのは名前って言わないよにゃ?》

「うん……そうだね。なら、君のことはどう呼んだらいいかな?」


 そう問い掛けると、もう一度首を傾げる。けれど、今度はそう長い時間じゃなかった。


《お前が付けていいにゃ》

「俺……が?」


 戸惑ったようにそう答えながら、俺はどこかでこの答えを待ち望んでいた気がする。

 初めて目にした瞬間に、感じていたから。

 誰よりも何よりも大切な存在を……俺だけの宝物を見つけたと。


「たから……」

《なんにゃ?》


 『たからもの』と、そのまま口にしかけて、さすがに思いとどまった。

 覗き込んでくる金の瞳に見惚れながら、動揺を押し隠す。

 そうして少し考えて……ふっと一つの名前が口をついて出た。


伯人(はくと)……でどうかな?」

「はくと? どういう意味にゃ?」


 ぱちぱちと瞬きをしながら見つめてくる。

 その問い掛けに答えるための「それらしい」理屈を、思いつくままに語っていった。


「君は、お兄ちゃん……つまり、兄弟の一番上だったんだよね。だから『伯』の字を使ったらいいと思うんだ。『と』は『人』って字を当てたらいいと思って──」

《俺はヒトじゃないにゃ。そんなの、なんか変だにゃ》

「だめ……かな?」


 問い掛けながら、煌めくその目を覗き込む。

 きっと受け入れてくれると信じながら……。




----------------------------------


  ○


 しばらくは何が起こったのか全然わからなかった。

 混乱しきった頭で、それでも、必死で全身の感覚を張り巡らせる。

 ご主人の姿を、匂いを、気配を……全身全霊を込めて探して──


(見つけた!)


 ついさっきまで、俺の傍らにあった若苗の匂い。

 嗅ぎ慣れた体臭に……「死の気配」の混ざり合ったソレが、湿った風に乗って漂ってくる。

 どうして、とか、どこから、とか考える余裕は少しもなかった。

 冷えきって痺れていた指先に力を込めて、一気に走り出す。四肢に力を込め、ただひたすらに走り続けた。


(頼む! 消えないでくれ!)


 微かな匂いは、時に途切れがちで、か細い蜘蛛(くも)の糸を手繰っているような気がしてくる。

 わずかな手がかりを逃したくなくて、雨でぬかるむ道をただひたすらに走った。

 小川を飛び越え、茂みを突っ切り、必死で走って走って走って……そうして、少しずつ強くなってくる匂いに向けて、低い木立(こだ)ちを飛び越えて──


(えっ……?)


 目の前に広がったのは、木々に囲まれた沼だった。いくつかの大岩が周囲を取り囲み、丈の低い水草が顔を覗かせる、深く澄んだ沼。

 それ自体は、珍しいものじゃない。なのに、強烈な違和感があった。

 なぜ、何が引っかかっているのか。

 しばらく考えて、ふいに気付いた。


(雨が……消えた…?)


 ついさっきまで降り続いていた雨が、ここにはない。雨雲そのものは、依然として空に広がっているのに。

 気付いた瞬間、なぜか──根拠なんて何もないのに、なぜか──ここが龍神の沼だとわかった。

 そうして、同時に気付く。

 ここまで辿ってきたご主人の匂いが、この沼でぷっつりと途絶えていることに。


(そんな……なんでだよ? ようやく……辿り着いた、のに……)


 匂いの元にあるのは、ご主人の()(がら)でしかない。そんなことはわかっていた。

 辿り着いたとしても、もう俺の名前を呼んでくれることも、頭を撫でてくれることもない。それでも……傍にいたかった。

 その身体が朽ち果てるまでずっと隣にいて、そうして……一緒に眠りたかった。永遠に。

 それが叶わない。


(なんで……だ? なんで、なんの権利があって、俺のご主人を……俺から奪うんだ?)


 瞬間、湧き上がってきたのは、怒りだった。

 喪失感よりも、悲しみよりも、ずっとずっと強い激情。

 腹の底から湧き上がる感情に、気付くと俺は叫んでいた。


《返せ! 俺のご主人を返せよっ‼》


 口からこぼれた声が、言葉がいつもと──舌っ足らずで子どもじみていた口調とは──違うのを頭の片隅で感じながら、ひたすらに叫び続ける。


《誓ったんだ、ずっと一緒にいるって! 一緒じゃなきゃ、生きてる意味なんてないんだ! 返さないなら……俺も殺せよっ‼》


 叫びすぎて喉がヒリヒリと痛む。その痛みにまた、怒りが……何もかも壊してしまいたいと思う衝動が湧き上がって、息が苦しい。深く息を吸って目を閉じ、ゆっくりと息をつく。

 そうして目を開けて……沼の上にぼんやりと浮かび上がる人影に気付いた。


(龍神……か)


 気付いて、わずかに背中の毛が逆立つ。けれど、すぐに強く尻尾を振って、その怯えを振り払った。

 若苗がいない世界で生き続けることに、何の意味もないのだから。荒ぶる神であろうと恐れる必要なんて、俺にはなかった。

 目を凝らし、淡く霞むその姿をじっと見据える。


(……女?)


 凝らした視線の先にいたのは、スラリとした細身の女だ。

 くっきりとした目元、すっと通った鼻筋、やや小さめな唇。整った、品のある顔立ちと言えるだろう。

 それでいて、向けてくる目は勝ち気な光を帯びている。

 女は、挑むような、(とが)めるような表情を浮かべると、小さくため息をついた。


「まったく……なんて顔してるんだい。何があったかは知らないが、今すぐその憎しみは捨てるんだね」


 (ささや)いてるようなのに、よく通る声だ。投げつけてくる言葉そのものは厳しいくせに、すっと心に入り込んでくるような。

 そんなふうに思えたのは……何故だったんだろう。


「ただでさえ黒猫は闇に染まりやすいんだ。そんなふうに恨んじゃいけないよ」


 向けてくる声も表情もどこか哀しげで……腹の奥を満たしていた激情が消えてしまいそうな気がして、ぶるぶると首を振った。

 そうして叫ぶ。


《うるさいっ! ……お前のせいで、ご主人は! ……ッ》


 声に出してみると、(しず)まりかけていた怒りと悲しみがまた込み上げてきて、言葉に詰まる。


「なんのことだい?」


 黙り込んだ俺に、怪訝(けげん)な顔を向けてくる女。

 その顔をギリと(にら)みつける。

 この目に……いや、俺に何かの力があったなら、俺からご主人を奪ったものを滅ぼしてやれるのに。そんなことを思いながら。




----------------------------------


  ●


 視界がぼやけてきた気がして、何度か瞬きをする。

 少し根を詰めすぎたかもしれない。そう思って筆を置き、ぐるりと首を回してみると、思っていたよりも疲労は溜まっていたようで、背中や腰の関節が軽く音を立てた。

 そのまま大きく息をつくと、チリンと響く鈴の音。


(……起こしちゃったかな)


 『寝る子と書いてネコ』なんて俗説もあるように、伯人は日中の大半を眠って過ごす。

 日の当たる縁側にいることも多い。けど、俺が出掛けないんだとわかったからか、今日は朝からずっと俺の傍にいてくれた。

 最初のうちは、一枚、また一枚と呪符を描き続ける俺の手元を、札に描き出されていく紋様を、面白そうに見つめていた。金色の瞳をキラキラと輝かせながら。

 半刻(はんこく)もすると体を丸めて眠ってしまったけれど……それでも、すぐ近くに気配を感じられるのが嬉しくて、根気の要る作業も一気に進めることができた。


「……伯人?」

《ん…にゃ……》


 小さな声で呼び掛けながら、静かに視線を送ると、横になったまま手足をググッと伸ばす。

 そうして、上半身を(ひね)ってこちらに顔を向けてきた。

 薄目を開けているようにも見えたけど、すぐに瞼は閉じられて、また穏やかな寝息が聞こえてくる。


「体、痛くならないのかな……そんな体勢で」


 思わずそんなことを呟いてしまう。

 柔軟な体を持つ猫にとっては、当たり前の体勢なのかもしれない。それでも──自惚(うぬぼ)れだとはわかってるけど、それでも──俺を見守ってくれようとしてるんじゃないかと、そんな気がして嬉しくなる。


「いつも……ありがとう」


 起こしてしまわないよう、小さな小さな声で呼び掛けた。

 俺と暮らしてくれて、ありがとう。

 俺の付けた「伯人」という名前を気に入ってくれて、ありがとう。

 君と過ごす穏やかな時間を俺にくれて、ありがとう。

 いつだって、そう思ってる。言葉にしたらきりがないくらいに。


「君はきっと……『ありがとうなんて言わなくていい』って、そう言うんだろうけど」


 容易に想像できる。

 少し怒ったような声も、ツンと横を向く仕草も、それでいて……嬉しそうにユラユラと揺れる尻尾も、鮮やかに。

 思うだけで……心が満たされていく。

 調伏(ちょうぶく)や祈祷を終えると──それがどんなに小さなものでも──身体にも心にも、それなりの疲労はあった。放っておくと、少しずつそれは溜まっていくもので、何度か危うい状況も経験してきた。

 けれど、今は違う。

 二人で暮らすこの家で、伯人が出迎えてくれる……ただそれだけで、何もかも大丈夫だと思えた。

 心も身体も癒されて、新しい力が湧いてくるのがわかる。それがすごく嬉しい。


「それでも……君に伝えたいんだよ。ありがとうって」


 小さく呟きながら、ただひたすらに願う。ずっとこんな日々が続けばいいと。

 空の彼方にいる神仏に祈るような思いで、眠り続ける伯人をただ見つめていた。




----------------------------------


  ○


 村人の懇願を振り切れず、水乞いのため出掛けて行ったご主人。

 この村を代々支えてきた一族としての責任感からか、それとも自身の力量を信じていたからなのか……引き止める俺の言葉を聞き入れることもなく。

 日を経て俺の元へ帰ってきたご主人は、憔悴(しょうすい)しきっていた。初めて目にした正装は、あちこちが擦り切れ、ほつれて、汚れていた。

 その装束と同じくらい、ボロボロになっていたご主人。

 なのに……ぽつりぽつりと降り出した雨粒を頬に受けて、嬉しそうに笑った。


『龍神様は……約束を守ってくださった』


 そう言って深く息をつくと、ゆっくりと俺に顔を向けてきた。もう……ほとんど見えていないのだとわかる、光のない目で。


『君との、約束…………泣か、ない……で……俺は……から……』


 そう口にしたのが最後だった。

 わずか数刻前のことのはずなのに、もう遠い昔のような気がしてくる。

 俺を取り巻く「現実」が……自分が生きているという感覚すらも、今は遠い。


「ああ、その人間なら覚えてるよ」


 なのに、女の声だけは耳に届いた。ぼんやりと霞んでいた意識が、一気に引き戻される。


「……そうかい、やっぱりいけなかったかい。龍神様が悲しむねぇ」

《えっ?》

「アタシは龍神様の巫女(みこ)さ」


 大岩の一つに腰掛けたまま、口を(はさ)むこともなく、黙って俺の話を聞いていた女。

 そのヒトが龍神ではないとわかって、妙に納得したのを覚えている。

 確かに美しい人だとは思った。けれど、言葉の端々にも、俺に向けてくる表情にも神とは思えない「人間臭さ」を感じていたからかもしれない。


《巫女……》


 俺の呟きを聞きつけて、(うつむ)き加減だった女が顔を上げた。どこか痛ましそうだった表情は、誇らしげなそれへと変わっている。

 見つめる俺の視線を受け止めて、切り揃えた短めの黒髪を掻き上げた女。そうして、歯切れのよい口調で語り始めた。


「巫女、っていうのは、まぁ、アタシが勝手に言い出したことだ。けど、龍神様のお側に仕えて支えてるんだから、そう名乗っても間違いじゃないだろ?」

《……そう、かもな》


 まっすぐに見つめてくる目に何も答えないのも気まずくて、小さく応じる。

 満足げに頷くと、女は続けた。


「元々は、この山の向こうにある小さな村に住んでた。親が付けてくれた名前は『鈴音(すずね)』」

《すず、ね》

「ああ。あんたの首飾りと同じ『鈴』さ」


 そんな言葉に、胸が締めつけられたように痛い。

 女が──鈴音という名を持つ彼女が──口にしたことに他意はなかったはずだ。自分の名と俺の首飾りとの一致を面白いと思った、ただそれだけのこと。

 けれど、俺にとってこの首飾りは、特別なものだ。

 若苗が……俺のご主人がくれた誓いの(あかし)

 「伯人」という名前と同じ、大切な大切な宝物だから。


「……どうかしたかい?」


 何かを察したのだろう。問うてくる声は、少し揺れていた。

 思いを悟られたくなくて、ゆっくりと首を振る。

 これ以上、触れられたくないのだと了解したのか、鈴音は、また静かに話し始めた。


「小さな村だったね。ほんとうに小さくて、人も少なくて……だから、ちょっとした天候の乱れがあれば、すぐに村全部が飢えた。どうにもならないくらいにね」


 それは俺たちが暮らしている村も同じだ。だから……なんとなく、続く話の流れもわかる気がした。


「アタシが十六の時だったかねぇ。日照りが続いたんだよ。いつの間にか、それは『龍神様のお怒り』ということにされた。……そんなことあるはずないって、今なら大声で言い返せる。誰が相手だって、胸を張ってね。けど、当時はアタシにもわかってなかった。ただわかってたのは、誰かが『花嫁』として龍神の沼に沈まなきゃならないってことだけだった」

《イケニエ……か》


 かつてそういう風習があったと、若苗から聞いたことがある。

 『そういうことを止めさせるのも、陰陽師の役目だと思ってるんだよ、俺は』

 目を伏せ、深くため息をつきながら、そう呟いた記憶もよみがえってきた。


「龍神様への捧げ物を決める。そう言われて、村中の若い娘が集められた。皆よく知った顔ばかりで……その中の誰にも、生贄(いけにえ)になんてなってほしくなかった。だから、アタシが手を上げたんだ」


 きっぱりとした口調に、ふと目をやる。(りん)とした表情で微笑む鈴音は、とても美しかった。

 声もなく見惚れる俺には気付かないのか、淡々とした口調で鈴音は話し続ける。


「けどね、優しい龍神様は、捧げ物なんて望んじゃいなかった。沼に沈んだアタシを引き上げて、ひとしきり哀しそうな顔をして……そうして言ってくれたのさ。『落ち着いたら村へ帰りなさい。何も心配しなくてよい』ってね」


 一旦言葉を切ると、鈴音はニッコリと笑った。


「アタシは聞き入れなかったけどね」


 そう言って笑う鈴音は、どこか幼く見えた。楽しげで無邪気にも見える笑顔。

 さっきまでの、どこか気品のようなものを漂わせていた仕草とは違う。

 なんとなく、こちらの方が「()」に近いのかもしれないと、そう思いながら問い掛けた。


《どうしてだ?》

「ん?」

《どうして……帰らなかったんだ? 生まれ育った村に》

「龍神様を好きになったからさ」

「すき……?」


 言われたことが一瞬わからなくて、戸惑う。

 言葉としてはわかる。俺にも「好きなもの」はたくさんあったから。

 ふかふかの敷布団、陽射しの当たる縁側、いい匂いのする干し草、時々ご主人がくれる削り節、俺の背中を撫でるご主人の手のひら……あったかくて、心地良いモノたち。けど、多分、鈴音の言ってるのはそういうことじゃなくて──


「ずっとこの人と共に生きたい。この人の傍にいたい。他には何も要らない。そう……願ったんだよ」


 聞き終えた瞬間、また胸が痛い。何かで刺されたみたいにズキズキと。

 俺も、若苗と……ご主人と「そう」約束したから。

 ずっと傍にいると。決して離れないんだと。

 お互いに、そう誓い合った。なのに──


「泣くんじゃないよ」


 いつの間にか溢れてきた涙。

 胸の傷から流れ出た透明な血が、そのままこぼれ出たように。

 若苗以外の前で泣くなんて嫌だった。けど、止まらない。悔しくて、ふいっと横を向く。


《……うる、さい》

「そんなに嘆いていたら、魂が濁っちまう。そう言ったろ?」

《濁ったって構わない。どうせ──》


 俺がどうなろうと、もう若苗は……俺のことを想い、俺を案じてくれるたった一人の人は、どこにもいないんだから。

 そんなふうに言い返そうとすると、鈴音はゆっくりと首を振った。


「濁った魂じゃ、会いたい人にも会えないだろう? それでもいいのかい?」

《……えっ?》


 『会いたい人』と、そう言われて頭に浮かぶのは、若苗だけだった。

 今はもう、この世界のどこにもいない人。

 けれど、鈴音の言葉には、何かを予感させるような響きがあった。何か……大切な秘密を、俺に教えようとしてくれているような、そんな感じが。

 俺の意識が向いたのに気付いたのだろう。

 噛んで含めるように、ゆったりとした口調で語り出す鈴音。


「光とともに亡骸は消えたって言ってたろ?」

《……ああ》

「それは、多分……いや、間違いなく龍神様の御業(みわざ)だよ。龍神様のお力を分けていただくことで深く傷ついたあの男の魂を、救ってやろうと思ったんだろうねぇ」

《救う……?》


 その言葉の真偽を確かめる術はない。

 ただ、信じるか否かだけが、俺に残された選択肢だ。

 そうして俺の本能は……鈴音を信じるに値する人だと告げていた。


「ああ。ヒトの身で神のお力に触れたんだ。下手をすれば散り散りに砕けて、この世界から消えてしまってもおかしくなかったんだよ。けど……龍神様は、そうしたくないと考えなさったんだ。傷ついた魂を癒して、新しい命として生まれ変わらせてやろうとお考えなんだよ」


 ため息混じりの声に見え隠れするのは、龍神への深い信頼の響き。

 鈴音の信じる神は、そういう「優しい神」なのだと、素直にそう信じられるくらいに。

 信じた瞬間、また涙が溢れ出した。

 さっきまでとは違う涙だ。心なしか、頬を伝うそれは温かいようにも思えてくる。


《ありがとう……俺……信じるよ》


 目の前にいない龍神にも伝えるつもりで、そう口にした。

 鈴音にはわかったのだろう。穏やかな微笑みを向けてくる。

 すっと伸ばされた腕。

 そのまま俺の背を撫でる鈴音の手のひらを、俺は黙って受け止めた。

 ご主人とは違う、けれど、同じように優しい手つきだ。張り詰めていた心が、ゆっくりと(ほど)けていく気がする。

 だから、両脇を抱え上げられ、そのまま膝に乗せられても、驚きはなかった。

 ただ、じっと鈴音の顔を見上げる。大事な話をしようとしているんだとわかったから。


「ただね……お前のご主人の生まれ変わりがいつなのかは分からないよ。少なくとも、五年や十年なんて短い時間じゃない。……お前、待てるかい?」

《待てるよ! 待つに決まってる……何十年でも何百年でも。そう、約束したからな》


 一瞬の躊躇(ためら)いもなく返した言葉に、鈴音は嬉しそうに笑った。

 目を細めたまま、じっと俺の顔を覗き込んでくる。


「頼もしい返事だねぇ。龍神様が聞いたら、きっと喜びなさるよ」

《そう、かな……。そうだといいな》

「龍神様は、あんたのご主人を救うと決めなさった。なら、アタシからも祝福を授けよう」

《祝福……?》


 先ほどまでとは打って変わり、鈴音の顔から表情が消えていく。

 感情の消えた美しい顔は、どこか神懸(かみが)かって見えた。


「お前はこれから、長い長い時間を過ごすことになる。そうした月日の中で、なにか体に不具合が出るようなことがあれば、この沼に来るといい」

《ここに……か?》

「ああ。お前の体を癒すように、この水に(まじな)いをかけた。……お前の想いが変わらない限り、この祝福が途切れることはない」


 抑揚のないその声は、小さなものだった。それでいて、朗々と響いて、辺りの空間へと広がっていく。

 やはり、この人は「巫女」なのだ。

 神の力をその身に降ろした聖なる存在……自然とそんな言葉が浮かんでくる。

 鈴音という巫女を介して、龍神が俺にも救いを与えてくれたんだ。そう思うと、胸の奥がほんわりと温かい。


《ありがとう。本当にありがとう》


 こんな言葉では足りない。もっともっと、この想いにふさわしい言葉があるはずなのに。

 そういうもどかしさを察してくれたのだろうか。

 もう一度、鈴音が俺の背を撫でてくる。

 優しくあたたかな手のひらは、今はもう遠い記憶でしかない「母さん」の温もりと……似ている気がした。




----------------------------------


  ●


 ほのかに漂う甘い香りに顔を上げると、軒先(のきさき)(すだれ)がわずかに揺れていた。

 吹き込んでくる風が運んできたのは、キンモクセイの香りだろう。

 伯人も気付いたのか、スンと鼻を鳴らして、ゆっくりと長い尾を揺らす。機嫌のよい時に見せる仕草だ。


「気に入ったのかい?」

《そうだにゃ。悪くない匂いだにゃ》


 いつもと違う大人びた言い回しは、それでもやっぱり愛らしくて、思わず頬が緩んでしまった。


《……なにがおかしいにゃ》

「えっ?」

《なんで笑ってるにゃ! 失礼にゃぞ、お前》


 不機嫌そうにそう言って、ぷいっと横を向くと、床板を尻尾で何度も叩く。

 そんな仕草も本当に可愛くて、また顔がニヤついてしまいそうで、俯いて軽く咳払いをした。


「そんなつもりじゃなかったんだけど……君が嫌な思いをしたのなら謝るよ。ごめん。俺が悪かった」

《別に怒ってないにゃ》


 声を落とす俺に、慌てたように顔を向けてくる上げる伯人。そうして、首を傾げながら、俺の顔を覗き込んだ。

 いつだって伯人は俺に優しい。だから、たとえば俺がうっかり伯人の機嫌を損ねても、少し沈んだ表情を見せるだけで、すぐに許してくれる。

 伯人にそんな自覚はないんだろうけど、俺はいつでも甘えてばかりだ。


「怒ってないのならよかった。……なら、今日は天気もいいし、花見がてら散策をしようか」

《う~ん……》


 俺と視線を合わせたまま、考え込むように何度か瞬きを繰り返す。

 静かに返事を待っていると、ふいに伯人の耳が大きく動いた。遅れて遠くから響いてくる子どもたちの声。

 俺が気付いたのと同時くらいに、ふっと伯人が視線を落とした。

 そうして、ボソリと呟く。


《外には……行かないにゃ》

「どうして? 好きだろう?」


 小さな頃から、好奇心旺盛だった伯人。

 気付かないうちにどこかへ潜り込んでしまうことも多くて、そのたびに姿の見えない伯人を探し回っては、肝を冷やしたものだ。

 成猫といってもおかしくないくらいに成長した今は、家の中だけでは飽き足りないのか、よく外に出掛けたがった。

 俺が一緒に行ける時だけにしてほしいと、そう提案した時には少し不満そうな顔を見せた。

 それでも、俺との時折の散策を楽しんでくれてると思っていた。だから意外だった。


《……お前が話し掛けてこないなら、いいにゃよ》

「俺が? それは……静かに周りを見たい、ってことかな?」


 返ってきた答えも予想していなかった(たぐ)いのもので、重ねて問い掛ける。

 問い掛けながら、少しだけ不安だった。

 本来、猫というのは自由に過ごしたがる生き物だ。干渉されるのを嫌うと言ってもいい。

 子猫の頃から、いつでも傍にいてくれる伯人に安心しきっていた。一人を好む猫も、そうじゃない猫もいるんだと、そう思って。

 けど……成長とともに、束縛を嫌がる猫独特の気質が強くなってきたのだとしたら──


《そうじゃにゃくて。俺に話し掛けてると……頭がおかしいって思われちゃうかもしれにゃいだろ?》

「え?」

《他の人からは……ご主人が独り言を言ってるみたいに見えるにゃ。だから……》


 そう言って、また耳をピクリと動かす。大声で何かを話す子どもたちの会話に、耳を澄ませるように。

 それで合点(がてん)がいった。

 おそらく、俺が留守にしている時にでも、この家の近くにやって来た者がいるのだろう。そこで、俺のことを──俺がまともではないといったようなことを──面白おかしく話していたのかもしれない。


「俺と話をするのが、嫌なわけじゃないんだよね?」


 答えはわかっている気がした。それでも問い掛けると、ふるふると大きく首を振る伯人。


《嫌なわけないにゃ! けど……ご主人が変な人だって思われるのは、嫌にゃよ》

「気にしなくていいんだよ。言いたい奴には、好きに言わせておけばいい」

《けど──》

「いいんだ。こうやって伯人と話せなくなるくらいなら……そう思われてる方がずっといい」


 伝わるだろうか。

 世界中の誰にどう思われようとも構わない。

 伯人といられれば、それだけでいいんだ。ずっと、いつだって傍にいたいし……いてほしいんだと。


《ご主人は……馬鹿にゃ》

「うん……。だから伯人がいないと駄目なんだよ、俺は」


 小さな小さな呟きに、精一杯の想いを込めて応えた。

 受け止めてくれると信じて。


《ほんと……ばかだにゃ》


 ため息のようにかすかな声で呟くと、ついと横を向く伯人。

 何度も瞬きをすると、尻尾をゆらゆらと揺らす。嬉しいのだと、そう伝えてくれる仕草だ。

 嬉しくて、視界が滲んでいく気がして……俺も何度か瞬きをした。




----------------------------------


  ○


 それから、ずっと俺は一人でご主人を待ち続けた。

 二人でも広いくらいだったこの家は、一人きりだと本当に大きすぎて……初めて出会ったあの日、若苗が言っていたことの意味もわかる気がした。

 時々は、龍神の沼を──鈴音のところを──訪れることもあった。長い年月を健やかに生きるためでもあったし、少し……寂しくもあったからだ。

 そうやって、どれくらいの月日を過ごしただろう。


《……ッ》


 龍神の沼へと向かう道すがら、ふいに訪れた全身の気怠(けだる)さ。一歩足を踏み出すのも苦しいくらいの重さに耐えきれず、そのまましゃがみ込んだ。

 そうして、ふと気付く

 いつの間にか、その(よわい)を迎えていたことに。


《……っく、……ッ、あ…っ》


 二股に割れていく尾に感じる初めての痛み。

 体中の関節が(きし)んで音を立てているような違和感に、背中の毛が逆立つ。目が霞んで、音もよく聞こえてこない。

 それでも、それを辛いとも苦しいとも思わなかった。

 来るべくしてやって来た「変化」だと、頭のどこかでわかっていたから。


「……おれ、の手……?」


 (おぼろ)に霞んでいた視界。

 その焦点が結ばれて最初に見たのは、長い五本の指を持つ白い手だった。

 ぎゅっと握りしめて、その感覚と目に映る手の動きとが、少しのズレもなく一致するのを確かめてみる。

 ゆっくり体を起こすと、今までより視点が高くて、世界がまるで違って見える気がした。

 照りつける陽射しの眩しさがそれほど気にならない。

 吹き抜ける風が運んでくる匂いは、いつもより曖昧(あいまい)だ。


「これが……ヒトの世界か」


 そう口にする声も、言葉も、間違いなくヒトのものだった。

 恐る恐る足を踏み出してみる。

 思い通りに、体は動いた。

 一歩、また一歩と歩いていくうちに、この体に馴染(なじ)んでいくのがわかる。

 嬉しくて、少しずつ少しずつ歩幅を大きくしながら、歩き続けた。この体を……今のこの思いを、一刻も早く伝えたかったから。

 駆け出したいような思いを抑えて、ひたすら歩いて歩いて……現れたのは見慣れた木立ち。

 一旦足を止めて、何度か深い呼吸を繰り返した。呼吸が整ったところで、低い枝葉をかき分けて沼へと歩き出す。

 そうして、その名を呼んだ。


「鈴音。……俺だ」


 声に応じるように、沼の上に(もや)が広がっていく。

 ぼんやりと霞む水面に、少しずつ形を取っていく人影。

 徐々に近づくその姿に呼応するように、さあっと風が吹き抜けた。

 そうして、姿を現した鈴音は──龍神の巫女は──、俺を目にするや楽しげな声を上げた。


「おや、なんだい。お前のその姿は」


 笑いを含む声。今にも吹き出しそうなのを必死で(こら)えているように、語尾も揺れていた。

 そんな反応が面白くなくて、返す俺の声はあからさまに不満げだったと思う。


「なにって……俺がヒト型になるのが、そんなにおかしいのかよ」


 漠然とではあったものの、もう少し……何か喜んでくれるような反応を期待していた。それもあって、さっきまでの興奮もすっかり冷めてしまう。

 気付いたのだろう。鈴音は、少し慌てたように大きく手を振った。


「ああ、悪かったね。そういうことじゃないんだよ」

「そういうことじゃないなら……どういうことだよ」


 相変わらず不貞腐(ふてくさ)れた声で応じる俺に、ほうっと息をつくと、鈴音はにこやかな笑みを向けてきた。


「まだまだ子どもだと思ってたのに……いつの間にか二十年以上も生きてきたんだねぇ。おめでとう、伯人」

「あ、ああ。……ありがとう」


 唐突に改まった態度で祝福してくれる鈴音。

 見つめてくる目も、その声も本当に嬉しそうで、拍子抜(ひょうしぬ)けしてしまう。

 うまく誤魔化されたような気もしてきて……さらに食い下がった。


「じゃあ……なんで笑ったりしたんだよ」

「笑ってなんかないだろ?」

「けど……」


 初めて俺を──ヒトになった俺を──目にした時の鈴音の反応に、笑われてるように思ったのは、俺の気のせいなんだろうか。

 姿が……感覚が変わったことで、鈴音の心を読み違えたんだろうか。

 そんなふうに考え込んでいると、俺に向けてくる鈴音の表情が変わった。「にんまり」って言葉が似合いそうな笑みは、これまでにも何度か目にしたことがある。

 「巫女」というには随分(ずいぶん)と人間臭い表情。俺の好きな顔だ。


「気付いてないのかい? お前、アタシにそっくりじゃないか」

「……え?」


 そんな鈴音に見惚れていたのかもしれない。

 言われた言葉を呑み込むまで、少し時間がかかった。

 何度か瞬きを繰り返して、その言葉がじんわりと頭に染み込んで……すぐに沼の淵へと駆け寄った。

 波一つない澄んだ水面(みなも)

 覗き込んだ俺の目に映ったのは……鈴音を二十歳ほど若返らせたヒトの顔だった。


「……これ、俺……なのか?」

「そうさ。よく似てるだろ?」


 そう言って俺の隣に並ぶと、同じように水面を覗き込んだ。

 二つの顔が並んでみれば、間違いなく別人の顔だとわかる。年齢はもちろん、目元や鼻筋、顔の輪郭なんかも含めて、紛れもなく「女」である鈴音と、俺の顔は違っていた。


「……みたいだ」

「ん? なんだい?」


 思わずこぼれた呟き。

 聞かせるつもりのない独り言だったから、問い返す鈴音から視線を()らす。そうして、曖昧に首を振った。

 何かを感じたのだろう。重ねて涼音が問い掛けてくることはなく、ただボソリと呟いた。


「この沼の水を、ずっと浴びてきたからかもしれないねぇ」


 俺は何も応えなかった。

 そうかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。

 そんなことを思いながら、よく似た……それでいて少しずつ違う顔が二つ並ぶ水面を、もう一度じっと見つめる。


(なんだか……親子みたいだな、俺たち)


 心の中でそう呟きながら。




----------------------------------


  ●


 かすかに聞こえてくる虫の音。

 夜空に浮かぶ真円の月とその響きは、やはり似つかわしい。そんなことをふと思う。


《昨日より、よく聞こえるにゃ》


 並んで空を見上げながら、伯人も同じことを考えていたんだろうか。

 そう思えるような呟きが嬉しくて、返す俺の声は弾んでいた気がする。


「そうかもしれないね。少しずつ秋が深まってきているのかな」


 伯人の方が耳はいいから、俺以上に色々な音を感じ取っているのかもしれない。

 音だけじゃなく、もしかすると長い(ひげ)を揺らす風や、その目に映る光も……俺とは違ったものを受け止めているんだろうか。

 そう思うと、羨ましさと寂しさが入り混じったような感覚が湧いてきて……言葉に詰まる。


《それと──》


 何かを言いかけていた伯人が、スンと鼻を鳴らす。そうして、わずかに耳を揺らした。


「……なにか気になる?」

《そのうち、降り出すかもしれないにゃ》

「雨……?」


 言われて、ぐるりと夜空を見渡してみたけれど、雨雲らしきものは見えない。

 問い返すように視線を向けると、伯人は耳をパタパタと震わせていた。


《風に乗ってくる空気が湿ってるにゃ。そのうち雨雲が出てくるにゃよ、きっと》


 答える声が少し不満げに聞こえた気がして、重ねて問い掛ける。


「伯人は、雨が嫌いかい?」

《う〜ん、別にどっちでもないにゃ。けど……ご主人とお出掛けする日には、降らないでほしいにゃ》


 そう言いながら俺の顔を覗き込む。ほんの少し首を傾げるその姿は本当に愛らしくて……ついさっき感じた寂しさなんて跡形もなく消えていく気がした。

 いつだって、伯人が俺に向けてくれる瞳が、その想いが……俺の心を癒してくれる。

 少しでもそう伝えたくて、気付くと声がこぼれていた。


「そうだね。けど……」

《けど、なんにゃ?》

「わざわざ出掛けなくたって、俺は……伯人といられるだけですごく楽しいよ」


 正面から俺を見つめていた目がわずかに揺れた。そうして、ひどく驚いた様子で瞬きを繰り返す。

 まっすぐに見つめ返しながら、言葉を……思いの丈を、そっと差し出した。


「この部屋からの見慣れた景色だって……伯人が一緒なら、すごく綺麗に見えるんだ。いつだって、そう思ってるよ」

《……そんなわけないにゃ》


 やや遅れた返事は、やっぱりどこか戸惑っている気がした。伯人を困らせたくはなかったけれど……どうしても伝えたいと思う気持ちが抑えられない。


「そうなんだよ。君と出逢った時からずっと、そう思ってる。信じられないかもしれないけど」


 そう言って、もう一度まっすぐに目を覗き込む。嘘なんて欠片(かけら)もないのだとわかってほしくて。

 気圧(けお)されたように、すっと目を逸らす伯人。そうして、雲が広がり始めた空を見上げる。

 そんな仕草を見ても、「流された」とは思わなかった。俺の言葉を、そこに込められた思いを理解しようと心を落ち着けているんだ……、ふとそんなことを思う。

 金の瞳は、淡い月の光を映してキラキラと輝いていた。その美しさにまた見惚れる。思わずこぼれた小さなため息に気付いたのか、顔を向けてきた。


《せっかくの月夜に空を見ないなんて、もったいないにゃよ》

「見てるよ。けど……月明かりに照らされてる君も綺麗だから、見ていたいんだ」


 そんな答えに、伯人も大きくため息をつく。呆れたように首を左右に振ると、ボソリと呟いた。

 

《ご主人は、本当に馬鹿だにゃ。俺なんていつでも見れるじゃにゃいか》

「いつでも見てたいんだよ。……嫌かい?」


 問い掛けてみるが、伯人は答えない。

 答える代わりに、しなやかに立ち上がると、俺の膝にピッタリと寄り添ってくれた。


《………いやなわけ、ないにゃ》

「ありがとう」


 衣を通して伝わってくる伯人の温もりが嬉しくて、愛おしくて……胸が詰まる。喉の奥が熱を持っているようで、気を抜くと何かが溢れ出してしまいそうだ。


《月……隠れちゃったにゃ》


 わずかに掠れた声が耳に届く。促されるままに見上げると、いつの間にか空は一面の雲に覆われていた。

 淡い月の光を透かして青白く光る雲は、どこか不思議で……それでいて、とても美しく見える。伯人が傍らにいてくれるからだろう。


「そうだね……けど、こんな雲も綺麗だ」

《……そうかもにゃ》


 言葉にしなかった想いも、伝わったのだろうか。伯人の声にも、何かに感じ入っているような響きがあった。

 静かに手を伸ばし、伯人の背に触れる。そうして、柔らかで(なめ)らかな毛並みを、温かな体をそっと撫でた。

 少しすると、グルグルと喉を鳴らす音が聞こえてくる。

 俺は本当に幸せだ……そんな言葉がふと浮かんできて、胸がいっぱいで、苦しいくらいだ。


(空が雲に覆われて、星も月も見えなくたっていい。俺にとっての月は……光は、君の瞳なんだから)


 そう伝えようとして……けれど、口を開いたら嗚咽(おえつ)になってしまいそうで……。

 深く息を吸って呑み込んだ。




----------------------------------


  ○


 ふいに鈴音が立ち上がった。そうして、スッと手を差し伸べる。


「せっかくヒトの姿になれたんだ。これを着るといい」

 

 言い終えないうちに、何もない空中から、フワリと落ちてきた布地を受け止める。

 両手に載せたそれをしみじみと眺める鈴音の顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。

 懐かしいものを、遠い過去を見つめているようだと、そんなことを思いながら見守っていると、手にしたそれを差し出してきた。


「これ……?」

「持っていっておくれ。アタシからの祝いだ」


 言われるままに受け取り、そっと広げてみると、それは白無垢の着物だった。

 この色を、形を、以前に見たことがある。

 若苗と村の近くまで出掛けたある日、人だかりの向こうに目にした──


「アタシが龍神様に嫁ぐ時、着てきた物だ」

「とつぐ……」

「ああ。花嫁衣装だ」


 目を細めて笑う鈴音はとても幸せそうだ。

 その日の感情が、想いが……よみがえったように。

 どうしてか、それが羨ましくて、それでいて間違いなく嬉しくて……続く言葉は喉に絡んで掠れた。


「大切な……思い出の衣装だろ? 俺が貰うわけにはいかないよ」

「構わないさ。大切だからこそ、伯人に着てほしいんだよ」

「けど──」

「いつか生まれ変わるお前の愛しい男に、その姿を見せてやりな。きっと……喜んでくれる」


 俺の躊躇いを、迷いを断ち切るように、キッパリと口にする鈴音。

 多分わかっていたのだろう。

 この衣装を目にした瞬間、ご主人に……若苗に見せたいと思った俺の心を。


「ありがとう」


 そんなことしか言えない自分が歯痒かった。鈴音から、貰ってばかりの自分が……。

 そういうもどかしさも察してくれたのだろうか。鈴音はゆっくりと首を振った。


「礼なんかいらないさ。……本音を言えば、ただアタシが見たいだけなんだからね」


 そう言って向けてくる鈴音の笑顔は、何かのイタズラを思いついた子どものように見えた。

 鈴音のこういうところもすごく好きだから、釣られて俺も笑ってしまう。

 

「仕方ないなぁ。じゃあ、見せてやるよ」


 そう切り返すと、わずかに目を丸くする。そうして、また笑った。


「なら、張り切って着付けてやろうかね。着崩れないように、きっちりとね」

「望むところだ。遠慮なんかしなくていいよ」


 こんなやり取りも、鈴音だからできることだ。

 数十年の月日を過ごしてこられたのは、どうしても若苗に……もう一度ご主人に会いたかったからだ。その思いはずっと揺るがない。

 けど、こうやって待ち続けていられたのは、鈴音がいてくれたからだ。


(ありがとう……鈴音)


 心の中でそっと呼び掛ける。そうして、白無垢の着物を──鈴音がくれた温かな想いを──ぎゅっと抱きしめた。



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