いつか見た夜空の続きを(前編)
○
日暮れ間際の風が運んできたのだろう。格子の隙間から見える空は、厚い雲に覆われていた。
今にも降り出しそうな曇天に、小さなため息がこぼれる。
「今夜は雨……かな」
ふと洩らした独り言は、不自然なくらいに響き渡った。
四方を囲む壁に、天井に、ただただ反響していく声。
誰も答えるものはいない。そう思うと、胸がツキンと痛む。
「雨は……嫌いだ。あの日を思い出すから」
そうやって言葉にすると、胸の奥がズキズキと痛んでくる。押し込めていたあの日の記憶も、よみがえってくる気がした。
俺が……一人になった、あの日。
何十年、いや……百年を優に超える月日を過ごしても、あの日の痛みを受け止めることができない。
息苦しくて、紛らわそうと俯いて……耳の横で微かに響く鈴の音。
あいつが残してくれた、俺だけの宝物。
「あの頃は……もっと澄んだ音だったのにな」
そんなことも、今の俺には少しだけ辛い。
もう一度深く息をついて、そっと体を横たえた。
格子からこぼれてくる空気が、さっきよりも更に湿り気を帯びているのがわかる。そう遠くなく、夜の空から雨粒がこぼれ落ちてくるんだろう。
(朝には、上がっていてくれよ)
降り出す前に眠ってしまえばいい。そうやって雨をやり過ごして、差し込んでくる日の光の中で目覚めたい。
そんなことを思いながら、静かに瞼を下ろした。
----------------------------------
●
最初に目を引かれたのは、艶やかな黒い毛並み。
宵闇よりも暗いはずの黒毛が、光を弾いてきらきらと輝く。そんな不可思議な光景に、ただ見惚れていた。
視線に気付いたのだろう。
縁台の上で丸くなっていた子猫が、ふっと身じろぎした。そうして、ゆっくりと顔を上げ、俺に視線を向けてくる。
その金色の瞳に……また魅入られた。
「君は……一人かい? 家族は?」
まだ母猫の乳を貰っていてもおかしくないほどに小さな体。
問い掛けにピンと両の耳を立てた子猫が、掠れた……けれど甘い声を上げた。
《もういないにゃ。母さんも弟たちも》
「……そうか。俺もだよ」
そう答えると、立てたままの耳がピクリと動く。目を見開き見つめてくる子猫の顔には、明らかに驚きがあった。
《お前……なんでわかるにゃ? 俺の言ってること》
「ああ、わかるよ。俺は陰陽師だからね」
《おん、みょう…じ?》
初めて聞く言葉なのだろう。たどたどしい口調も子猫らしくて愛らしい。
愛らしくて……ふと胸が詰まる。
意識する前に言葉がこぼれていた。
「一緒に暮らすかい? 俺と」
《……えっ?》
「もちろん君が嫌じゃなければ、だけど。俺の家は、一人で暮らすには大きいんだ」
思わず口にした言葉に、改めて気付く。あの空っぽの空間が、俺には広すぎたんだと。
金色の瞳がまっすぐに覗き込んでくる。
俺の目の奥を……そこに映っているのかもしれない感情を、見通すように。
俺もまっすぐに見つめ返した。そうして、おずおずと手を差し出す。驚かさないようにそっと。
拒まないでほしいと、そんな想いを込めて。
《……いいにゃ。お前と暮らしてやるにゃ》
「あり……がとう」
嬉しくて……本当に嬉しくて、返す声が喉に絡む。
何かに気付いたのか、しなやかな動きで立ち上がる子猫。そうして、差し伸べた手に額をすり寄せてくれた。
そんな仕草にも胸が詰まってしまう。ふいに目の奥が熱くなる気がして、何度か瞬きをした。
「少し冷えてきた。中に入ろうか」
そう声を掛けながら、小さな体を抱き上げた。
軽くて柔らかくて……暖かかった。手のひらから、身体の全部を満たしてくれるように。
俺は、この温もりを生涯忘れないだろう。
そう……思っていた。
----------------------------------
○
眩しい陽射しに、何度か瞬きをする。
ゆっくりと手足を伸ばして気怠い身体を引き起こすと、格子の隙間から見える空は青々と澄み渡っていた。
新緑の季節ももう間もなくだ。
そんなことを考えたからだろうか。
ふと、あいつの目を思い出した。
若葉を透かしてこぼれた光を集めたような、淡い緑の瞳。他の村人たちのような黒髪でもなくて、顔立ちも少し違っていた。異国の血でも入っていたのだろう。
「変わり者……だったしな」
『陰陽師』という仕事に、それほど思い入れがあるようには見えなかった。
頼まれれば祈祷でも夢占でも調薬でも、きっちりとこなしてはいた。それでいて、求められる以上の成果を上げようとか、何かを成し遂げて名を上げようとか、そういうことを考えてはいなかったように思う。
ただ──自惚れかもしないが──俺と暮らす日々を、静かな日常を守ろうとしていた。そんなふうに思える。
「なのに、なんで……」
思わず声がこぼれる。
問い掛けても答えはない。誰も何も答えてはくれない……わかってることだ。
それでも、何度目かの操り言を口にしてしまう。
なぜ、あの日……若苗は出掛けていったんだろうと。
「放っておけばよかっただろ? さんざんお前に頼っておいて、あんなふうに手のひらを返すような奴らなんて、救ってやる必要があったのか?」
春先の桜散らしの雨を最後に、一粒の滴すらこぼさなくなった空。
原因なんてわからない。
けど……きっと、「自然の摂理」ってやつだったはずだ。あいつには何の責任もない。
なのに、村の奴らは次々と現れては、若苗に迫った。
泣き言を口にする奴、あいつの足元に縋って懇願する奴、興奮と怒りに顔を赤くしてた奴もいた。
それでいて、最後は皆が同じことを言ってきた。
『日照りに苦しむこの村を救ってくれ』
毎日のようにやってくる奴らの相手をしているうちに、少しずつ表情が暗くなっていった若苗。
深々とため息をつきながら、それでも俺と目が合うと笑ってくれた。
俺の頭を、背中を撫でる手のあたたかさと優しさは、いつでも変わらなくて、だから、ずっとこうして過ごしていけると……ずっと傍にいられると思っていた。
あの日まで。
「ダメだって、……行くなって言ったよな、俺? そんなことしなくていいんだって」
聞き慣れない音に目を覚まして、あいつの姿を探して……奥の部屋で身支度をしている若苗を見つけた。
浅葱色の水干、陰陽の紋様が縫い込まれた白地の袍、碧玉を連ねた数珠。
どれも見たことのない物で……どうしてか、背中の毛が逆立ったのを覚えている。
問い掛ける声が震えてしまったのも。
《ご主人……なんで、そんな格好してるにゃ》
すぐに返ってこない答えにも感じた違和感。
いつもなら、どんな時でも、どんなことであっても、俺の言葉にはすぐに応じてくれていたはずなのに。
『……龍神様のところへ行くんだ。だから、失礼のないようにって──』
《ダメにゃ‼》
最後まで聞く気はなかった。そんなことは受け入れられなかったから。
地を這う水脈を、空を覆い尽くす雷雲を司るのが龍神だ、そういう知識はあった。その龍神なら、確かに雨をもたらすことができるのかもしれない。
けど、俺はまた知っていた。
龍神というものが、人の願いを叶えることなど滅多にない、荒ぶる神だということを。
だから、引き止めた。
龍神の元に行くなんて無謀だ。若苗の頼みを聞いてくれるはずなんてない。そう言ったんだ。なのに……
『うん……けど、実際に会ってみないとわからないだろう? たまたま機嫌のよい時で、俺の話を聞いてくださるかもしれないし』
《そんなわけないにゃ! わかってるんだろ、お前も‼》
龍神が「そういう」存在だと、俺に話してくれたのは若苗だ。
いや、それだけじゃない。
みんなみんな、若苗が教えてくれた。
この世界に在る様々なモノたちのことを。
この目に見えるもの、見えないもの、俺には感じられなくても確かに存在しているたくさんのモノ……その全部を。
『大丈夫。俺は大丈夫だよ』
何の根拠もないそんな言葉が腹立たしくて、俺の言葉が、想いが伝わらないのが悔しくて、大きな声で泣き叫んだ。幼い子どものように。
宥めようと触れてくる若苗の手の甲を、強く引っ掻いたりもした。
それでも、若苗は聞き入れてくれなかった。少しだけ困ったように笑って、そうして……
「あの時……なんで、引き止められなかったんだろう」
気付かないうちに、何かの術をかけられていたんだろう。
意識が少しずつ遠のいて……霞む視界の中、陰陽師の装束を纏い終えたその後ろ姿を、ただ見送ることしかできなかった。
そうして、水乞いのために竜神の元へ出向いていったご主人は……夜更けになって俺の元へ帰ってきた。ぼろ切れのようになった装束で。
最期を看取ったのは……俺だ。
《ご主人⁈ ご主人、目を開けるにゃっ‼》
横たわるその顔を覗き込みながら、必死で叫んだ。
うっすらと目を開け、俺の背を撫でる手のひらが冷たくて、いつもの温もりをくれないことが怖くて……心臓が張り裂けそうだった。
《ダメにゃ‼ ご主人っ……死んだら、ダメ、にゃ……》
視界が滲んで、ご主人の顔が──血の気を失い、死相をこびり付かせたその顔が──よく見えない。
涙を拭おうと手を伸ばしかけて、瞬きの間にこの命が消えてしまうんじゃないかって気がして、また叫んだ。
「死ぬな」と、何度も何度も叫び続けた。なのに……俺の祈りは届かなかった。
『…泣か、ない、で……俺、は……』
《ご主人? なんにゃ⁈ 聞こえないにゃ、ご主人、ご主人っ‼ ……返事を……して、くれにゃ……》
俺の背中から、ゆっくりと滑り落ちていく若苗の手。
わずかに上下動を繰り返していた胸元も、動かなくなった。微かな吐息さえ、聞こえてこない。
ここにもう「若苗」はいない。
そんな言葉が頭の中を渦巻いて、目の前が真っ暗になっていく。
音も光も、何もかもが消えていく気がした。しとしとと降り続く雨が毛皮を濡らす。その感覚すらも今は遠い。
(俺も……消えてしまえばいい……)
頭のどこかから聞こえてくる声。
その声に深く頷いて、そっと若苗の身体に寄り添った。まだ温みが残るその身体に。
静かに目を閉じると、聞こえるはずのない心臓の音が、巡る血の音が、聞こえてくるようで嬉しいと……そんなことを考えていたように思う。
こうやってご主人の亡骸に添い臥して、俺の命が尽きるその日までずっと一緒にいよう。そう思えたのに……
《なん、にゃ……》
閉じた瞼越しに光を感じた気がして、薄目を開ける。
そうして目にした光景が信じられなくて、何度も瞬きをした。混乱する俺の目の前で、光に包まれていくご主人の身体。
訳がわからなくて、どうしていいのかもわからなかった。
ただ、溢れる光が眩しくて、目の前が真っ白に霞んでいくのを感じていた。
光が物理的な圧を持ったような気がして、ぎゅっと瞼を閉じて──
ふっと光が消えた時、ご主人の身体は消えていた。
----------------------------------
●
胸元で抱えていた小さな体を、静かに床へと下ろす。
スンと鼻を鳴らすと、右に左に忙しなく首を巡らせる子猫。
周囲を見回す瞳には、抑えきれない好奇心が見え隠れしていた。
(猫は家につく、って言うし……何があるか気になるのかもしれないな)
この部屋には、さしあたり危険なものは置かれていないはずだ。自由に見て回っても問題はない。
それと、持ち帰った呪符の始末もつけたかったから、しばらくこの場を離れたくもあった。
そんなことを伝えようとして、ふと気付く。
この子猫の名前を知らないことに。
「……君、は」
《ん? なんにゃ?》
「いや、そういえば、君の名前を聞いてなかったなって思って」
《ないにゃ》
「え?」
思わずこぼれた声に、子猫は首を傾げた。
人に例えるなら、遠い記憶を辿っているようにも、伝えられる言葉を探しているようにも見える仕草。
邪魔をしないよう静かに待ち続けると、しばらくして澄んだ甘い声が聞こえてきた。
《母さんも弟たちも「お兄ちゃん」って呼んでたにゃ。けど……そういうのは名前って言わないよにゃ?》
「うん……そうだね。なら、君のことはどう呼んだらいいかな?」
そう問い掛けると、もう一度首を傾げる。けれど、今度はそう長い時間じゃなかった。
《お前が付けていいにゃ》
「俺……が?」
戸惑ったようにそう答えながら、俺はどこかでこの答えを待ち望んでいた気がする。
初めて目にした瞬間に、感じていたから。
誰よりも何よりも大切な存在を……俺だけの宝物を見つけたと。
「たから……」
《なんにゃ?》
『たからもの』と、そのまま口にしかけて、さすがに思いとどまった。
覗き込んでくる金の瞳に見惚れながら、動揺を押し隠す。
そうして少し考えて……ふっと一つの名前が口をついて出た。
「伯人……でどうかな?」
「はくと? どういう意味にゃ?」
ぱちぱちと瞬きをしながら見つめてくる。
その問い掛けに答えるための「それらしい」理屈を、思いつくままに語っていった。
「君は、お兄ちゃん……つまり、兄弟の一番上だったんだよね。だから『伯』の字を使ったらいいと思うんだ。『と』は『人』って字を当てたらいいと思って──」
《俺はヒトじゃないにゃ。そんなの、なんか変だにゃ》
「だめ……かな?」
問い掛けながら、煌めくその目を覗き込む。
きっと受け入れてくれると信じながら……。
----------------------------------
○
しばらくは何が起こったのか全然わからなかった。
混乱しきった頭で、それでも、必死で全身の感覚を張り巡らせる。
ご主人の姿を、匂いを、気配を……全身全霊を込めて探して──
(見つけた!)
ついさっきまで、俺の傍らにあった若苗の匂い。
嗅ぎ慣れた体臭に……「死の気配」の混ざり合ったソレが、湿った風に乗って漂ってくる。
どうして、とか、どこから、とか考える余裕は少しもなかった。
冷えきって痺れていた指先に力を込めて、一気に走り出す。四肢に力を込め、ただひたすらに走り続けた。
(頼む! 消えないでくれ!)
微かな匂いは、時に途切れがちで、か細い蜘蛛の糸を手繰っているような気がしてくる。
わずかな手がかりを逃したくなくて、雨でぬかるむ道をただひたすらに走った。
小川を飛び越え、茂みを突っ切り、必死で走って走って走って……そうして、少しずつ強くなってくる匂いに向けて、低い木立ちを飛び越えて──
(えっ……?)
目の前に広がったのは、木々に囲まれた沼だった。いくつかの大岩が周囲を取り囲み、丈の低い水草が顔を覗かせる、深く澄んだ沼。
それ自体は、珍しいものじゃない。なのに、強烈な違和感があった。
なぜ、何が引っかかっているのか。
しばらく考えて、ふいに気付いた。
(雨が……消えた…?)
ついさっきまで降り続いていた雨が、ここにはない。雨雲そのものは、依然として空に広がっているのに。
気付いた瞬間、なぜか──根拠なんて何もないのに、なぜか──ここが龍神の沼だとわかった。
そうして、同時に気付く。
ここまで辿ってきたご主人の匂いが、この沼でぷっつりと途絶えていることに。
(そんな……なんでだよ? ようやく……辿り着いた、のに……)
匂いの元にあるのは、ご主人の脱け殻でしかない。そんなことはわかっていた。
辿り着いたとしても、もう俺の名前を呼んでくれることも、頭を撫でてくれることもない。それでも……傍にいたかった。
その身体が朽ち果てるまでずっと隣にいて、そうして……一緒に眠りたかった。永遠に。
それが叶わない。
(なんで……だ? なんで、なんの権利があって、俺のご主人を……俺から奪うんだ?)
瞬間、湧き上がってきたのは、怒りだった。
喪失感よりも、悲しみよりも、ずっとずっと強い激情。
腹の底から湧き上がる感情に、気付くと俺は叫んでいた。
《返せ! 俺のご主人を返せよっ‼》
口からこぼれた声が、言葉がいつもと──舌っ足らずで子どもじみていた口調とは──違うのを頭の片隅で感じながら、ひたすらに叫び続ける。
《誓ったんだ、ずっと一緒にいるって! 一緒じゃなきゃ、生きてる意味なんてないんだ! 返さないなら……俺も殺せよっ‼》
叫びすぎて喉がヒリヒリと痛む。その痛みにまた、怒りが……何もかも壊してしまいたいと思う衝動が湧き上がって、息が苦しい。深く息を吸って目を閉じ、ゆっくりと息をつく。
そうして目を開けて……沼の上にぼんやりと浮かび上がる人影に気付いた。
(龍神……か)
気付いて、わずかに背中の毛が逆立つ。けれど、すぐに強く尻尾を振って、その怯えを振り払った。
若苗がいない世界で生き続けることに、何の意味もないのだから。荒ぶる神であろうと恐れる必要なんて、俺にはなかった。
目を凝らし、淡く霞むその姿をじっと見据える。
(……女?)
凝らした視線の先にいたのは、スラリとした細身の女だ。
くっきりとした目元、すっと通った鼻筋、やや小さめな唇。整った、品のある顔立ちと言えるだろう。
それでいて、向けてくる目は勝ち気な光を帯びている。
女は、挑むような、咎めるような表情を浮かべると、小さくため息をついた。
「まったく……なんて顔してるんだい。何があったかは知らないが、今すぐその憎しみは捨てるんだね」
囁いてるようなのに、よく通る声だ。投げつけてくる言葉そのものは厳しいくせに、すっと心に入り込んでくるような。
そんなふうに思えたのは……何故だったんだろう。
「ただでさえ黒猫は闇に染まりやすいんだ。そんなふうに恨んじゃいけないよ」
向けてくる声も表情もどこか哀しげで……腹の奥を満たしていた激情が消えてしまいそうな気がして、ぶるぶると首を振った。
そうして叫ぶ。
《うるさいっ! ……お前のせいで、ご主人は! ……ッ》
声に出してみると、鎮まりかけていた怒りと悲しみがまた込み上げてきて、言葉に詰まる。
「なんのことだい?」
黙り込んだ俺に、怪訝な顔を向けてくる女。
その顔をギリと睨みつける。
この目に……いや、俺に何かの力があったなら、俺からご主人を奪ったものを滅ぼしてやれるのに。そんなことを思いながら。
----------------------------------
●
視界がぼやけてきた気がして、何度か瞬きをする。
少し根を詰めすぎたかもしれない。そう思って筆を置き、ぐるりと首を回してみると、思っていたよりも疲労は溜まっていたようで、背中や腰の関節が軽く音を立てた。
そのまま大きく息をつくと、チリンと響く鈴の音。
(……起こしちゃったかな)
『寝る子と書いてネコ』なんて俗説もあるように、伯人は日中の大半を眠って過ごす。
日の当たる縁側にいることも多い。けど、俺が出掛けないんだとわかったからか、今日は朝からずっと俺の傍にいてくれた。
最初のうちは、一枚、また一枚と呪符を描き続ける俺の手元を、札に描き出されていく紋様を、面白そうに見つめていた。金色の瞳をキラキラと輝かせながら。
半刻もすると体を丸めて眠ってしまったけれど……それでも、すぐ近くに気配を感じられるのが嬉しくて、根気の要る作業も一気に進めることができた。
「……伯人?」
《ん…にゃ……》
小さな声で呼び掛けながら、静かに視線を送ると、横になったまま手足をググッと伸ばす。
そうして、上半身を捻ってこちらに顔を向けてきた。
薄目を開けているようにも見えたけど、すぐに瞼は閉じられて、また穏やかな寝息が聞こえてくる。
「体、痛くならないのかな……そんな体勢で」
思わずそんなことを呟いてしまう。
柔軟な体を持つ猫にとっては、当たり前の体勢なのかもしれない。それでも──自惚れだとはわかってるけど、それでも──俺を見守ってくれようとしてるんじゃないかと、そんな気がして嬉しくなる。
「いつも……ありがとう」
起こしてしまわないよう、小さな小さな声で呼び掛けた。
俺と暮らしてくれて、ありがとう。
俺の付けた「伯人」という名前を気に入ってくれて、ありがとう。
君と過ごす穏やかな時間を俺にくれて、ありがとう。
いつだって、そう思ってる。言葉にしたらきりがないくらいに。
「君はきっと……『ありがとうなんて言わなくていい』って、そう言うんだろうけど」
容易に想像できる。
少し怒ったような声も、ツンと横を向く仕草も、それでいて……嬉しそうにユラユラと揺れる尻尾も、鮮やかに。
思うだけで……心が満たされていく。
調伏や祈祷を終えると──それがどんなに小さなものでも──身体にも心にも、それなりの疲労はあった。放っておくと、少しずつそれは溜まっていくもので、何度か危うい状況も経験してきた。
けれど、今は違う。
二人で暮らすこの家で、伯人が出迎えてくれる……ただそれだけで、何もかも大丈夫だと思えた。
心も身体も癒されて、新しい力が湧いてくるのがわかる。それがすごく嬉しい。
「それでも……君に伝えたいんだよ。ありがとうって」
小さく呟きながら、ただひたすらに願う。ずっとこんな日々が続けばいいと。
空の彼方にいる神仏に祈るような思いで、眠り続ける伯人をただ見つめていた。
----------------------------------
○
村人の懇願を振り切れず、水乞いのため出掛けて行ったご主人。
この村を代々支えてきた一族としての責任感からか、それとも自身の力量を信じていたからなのか……引き止める俺の言葉を聞き入れることもなく。
日を経て俺の元へ帰ってきたご主人は、憔悴しきっていた。初めて目にした正装は、あちこちが擦り切れ、ほつれて、汚れていた。
その装束と同じくらい、ボロボロになっていたご主人。
なのに……ぽつりぽつりと降り出した雨粒を頬に受けて、嬉しそうに笑った。
『龍神様は……約束を守ってくださった』
そう言って深く息をつくと、ゆっくりと俺に顔を向けてきた。もう……ほとんど見えていないのだとわかる、光のない目で。
『君との、約束…………泣か、ない……で……俺は……から……』
そう口にしたのが最後だった。
わずか数刻前のことのはずなのに、もう遠い昔のような気がしてくる。
俺を取り巻く「現実」が……自分が生きているという感覚すらも、今は遠い。
「ああ、その人間なら覚えてるよ」
なのに、女の声だけは耳に届いた。ぼんやりと霞んでいた意識が、一気に引き戻される。
「……そうかい、やっぱりいけなかったかい。龍神様が悲しむねぇ」
《えっ?》
「アタシは龍神様の巫女さ」
大岩の一つに腰掛けたまま、口を挟むこともなく、黙って俺の話を聞いていた女。
そのヒトが龍神ではないとわかって、妙に納得したのを覚えている。
確かに美しい人だとは思った。けれど、言葉の端々にも、俺に向けてくる表情にも神とは思えない「人間臭さ」を感じていたからかもしれない。
《巫女……》
俺の呟きを聞きつけて、俯き加減だった女が顔を上げた。どこか痛ましそうだった表情は、誇らしげなそれへと変わっている。
見つめる俺の視線を受け止めて、切り揃えた短めの黒髪を掻き上げた女。そうして、歯切れのよい口調で語り始めた。
「巫女、っていうのは、まぁ、アタシが勝手に言い出したことだ。けど、龍神様のお側に仕えて支えてるんだから、そう名乗っても間違いじゃないだろ?」
《……そう、かもな》
まっすぐに見つめてくる目に何も答えないのも気まずくて、小さく応じる。
満足げに頷くと、女は続けた。
「元々は、この山の向こうにある小さな村に住んでた。親が付けてくれた名前は『鈴音』」
《すず、ね》
「ああ。あんたの首飾りと同じ『鈴』さ」
そんな言葉に、胸が締めつけられたように痛い。
女が──鈴音という名を持つ彼女が──口にしたことに他意はなかったはずだ。自分の名と俺の首飾りとの一致を面白いと思った、ただそれだけのこと。
けれど、俺にとってこの首飾りは、特別なものだ。
若苗が……俺のご主人がくれた誓いの証。
「伯人」という名前と同じ、大切な大切な宝物だから。
「……どうかしたかい?」
何かを察したのだろう。問うてくる声は、少し揺れていた。
思いを悟られたくなくて、ゆっくりと首を振る。
これ以上、触れられたくないのだと了解したのか、鈴音は、また静かに話し始めた。
「小さな村だったね。ほんとうに小さくて、人も少なくて……だから、ちょっとした天候の乱れがあれば、すぐに村全部が飢えた。どうにもならないくらいにね」
それは俺たちが暮らしている村も同じだ。だから……なんとなく、続く話の流れもわかる気がした。
「アタシが十六の時だったかねぇ。日照りが続いたんだよ。いつの間にか、それは『龍神様のお怒り』ということにされた。……そんなことあるはずないって、今なら大声で言い返せる。誰が相手だって、胸を張ってね。けど、当時はアタシにもわかってなかった。ただわかってたのは、誰かが『花嫁』として龍神の沼に沈まなきゃならないってことだけだった」
《イケニエ……か》
かつてそういう風習があったと、若苗から聞いたことがある。
『そういうことを止めさせるのも、陰陽師の役目だと思ってるんだよ、俺は』
目を伏せ、深くため息をつきながら、そう呟いた記憶もよみがえってきた。
「龍神様への捧げ物を決める。そう言われて、村中の若い娘が集められた。皆よく知った顔ばかりで……その中の誰にも、生贄になんてなってほしくなかった。だから、アタシが手を上げたんだ」
きっぱりとした口調に、ふと目をやる。凜とした表情で微笑む鈴音は、とても美しかった。
声もなく見惚れる俺には気付かないのか、淡々とした口調で鈴音は話し続ける。
「けどね、優しい龍神様は、捧げ物なんて望んじゃいなかった。沼に沈んだアタシを引き上げて、ひとしきり哀しそうな顔をして……そうして言ってくれたのさ。『落ち着いたら村へ帰りなさい。何も心配しなくてよい』ってね」
一旦言葉を切ると、鈴音はニッコリと笑った。
「アタシは聞き入れなかったけどね」
そう言って笑う鈴音は、どこか幼く見えた。楽しげで無邪気にも見える笑顔。
さっきまでの、どこか気品のようなものを漂わせていた仕草とは違う。
なんとなく、こちらの方が「素」に近いのかもしれないと、そう思いながら問い掛けた。
《どうしてだ?》
「ん?」
《どうして……帰らなかったんだ? 生まれ育った村に》
「龍神様を好きになったからさ」
「すき……?」
言われたことが一瞬わからなくて、戸惑う。
言葉としてはわかる。俺にも「好きなもの」はたくさんあったから。
ふかふかの敷布団、陽射しの当たる縁側、いい匂いのする干し草、時々ご主人がくれる削り節、俺の背中を撫でるご主人の手のひら……あったかくて、心地良いモノたち。けど、多分、鈴音の言ってるのはそういうことじゃなくて──
「ずっとこの人と共に生きたい。この人の傍にいたい。他には何も要らない。そう……願ったんだよ」
聞き終えた瞬間、また胸が痛い。何かで刺されたみたいにズキズキと。
俺も、若苗と……ご主人と「そう」約束したから。
ずっと傍にいると。決して離れないんだと。
お互いに、そう誓い合った。なのに──
「泣くんじゃないよ」
いつの間にか溢れてきた涙。
胸の傷から流れ出た透明な血が、そのままこぼれ出たように。
若苗以外の前で泣くなんて嫌だった。けど、止まらない。悔しくて、ふいっと横を向く。
《……うる、さい》
「そんなに嘆いていたら、魂が濁っちまう。そう言ったろ?」
《濁ったって構わない。どうせ──》
俺がどうなろうと、もう若苗は……俺のことを想い、俺を案じてくれるたった一人の人は、どこにもいないんだから。
そんなふうに言い返そうとすると、鈴音はゆっくりと首を振った。
「濁った魂じゃ、会いたい人にも会えないだろう? それでもいいのかい?」
《……えっ?》
『会いたい人』と、そう言われて頭に浮かぶのは、若苗だけだった。
今はもう、この世界のどこにもいない人。
けれど、鈴音の言葉には、何かを予感させるような響きがあった。何か……大切な秘密を、俺に教えようとしてくれているような、そんな感じが。
俺の意識が向いたのに気付いたのだろう。
噛んで含めるように、ゆったりとした口調で語り出す鈴音。
「光とともに亡骸は消えたって言ってたろ?」
《……ああ》
「それは、多分……いや、間違いなく龍神様の御業だよ。龍神様のお力を分けていただくことで深く傷ついたあの男の魂を、救ってやろうと思ったんだろうねぇ」
《救う……?》
その言葉の真偽を確かめる術はない。
ただ、信じるか否かだけが、俺に残された選択肢だ。
そうして俺の本能は……鈴音を信じるに値する人だと告げていた。
「ああ。ヒトの身で神のお力に触れたんだ。下手をすれば散り散りに砕けて、この世界から消えてしまってもおかしくなかったんだよ。けど……龍神様は、そうしたくないと考えなさったんだ。傷ついた魂を癒して、新しい命として生まれ変わらせてやろうとお考えなんだよ」
ため息混じりの声に見え隠れするのは、龍神への深い信頼の響き。
鈴音の信じる神は、そういう「優しい神」なのだと、素直にそう信じられるくらいに。
信じた瞬間、また涙が溢れ出した。
さっきまでとは違う涙だ。心なしか、頬を伝うそれは温かいようにも思えてくる。
《ありがとう……俺……信じるよ》
目の前にいない龍神にも伝えるつもりで、そう口にした。
鈴音にはわかったのだろう。穏やかな微笑みを向けてくる。
すっと伸ばされた腕。
そのまま俺の背を撫でる鈴音の手のひらを、俺は黙って受け止めた。
ご主人とは違う、けれど、同じように優しい手つきだ。張り詰めていた心が、ゆっくりと解けていく気がする。
だから、両脇を抱え上げられ、そのまま膝に乗せられても、驚きはなかった。
ただ、じっと鈴音の顔を見上げる。大事な話をしようとしているんだとわかったから。
「ただね……お前のご主人の生まれ変わりがいつなのかは分からないよ。少なくとも、五年や十年なんて短い時間じゃない。……お前、待てるかい?」
《待てるよ! 待つに決まってる……何十年でも何百年でも。そう、約束したからな》
一瞬の躊躇いもなく返した言葉に、鈴音は嬉しそうに笑った。
目を細めたまま、じっと俺の顔を覗き込んでくる。
「頼もしい返事だねぇ。龍神様が聞いたら、きっと喜びなさるよ」
《そう、かな……。そうだといいな》
「龍神様は、あんたのご主人を救うと決めなさった。なら、アタシからも祝福を授けよう」
《祝福……?》
先ほどまでとは打って変わり、鈴音の顔から表情が消えていく。
感情の消えた美しい顔は、どこか神懸かって見えた。
「お前はこれから、長い長い時間を過ごすことになる。そうした月日の中で、なにか体に不具合が出るようなことがあれば、この沼に来るといい」
《ここに……か?》
「ああ。お前の体を癒すように、この水に呪いをかけた。……お前の想いが変わらない限り、この祝福が途切れることはない」
抑揚のないその声は、小さなものだった。それでいて、朗々と響いて、辺りの空間へと広がっていく。
やはり、この人は「巫女」なのだ。
神の力をその身に降ろした聖なる存在……自然とそんな言葉が浮かんでくる。
鈴音という巫女を介して、龍神が俺にも救いを与えてくれたんだ。そう思うと、胸の奥がほんわりと温かい。
《ありがとう。本当にありがとう》
こんな言葉では足りない。もっともっと、この想いにふさわしい言葉があるはずなのに。
そういうもどかしさを察してくれたのだろうか。
もう一度、鈴音が俺の背を撫でてくる。
優しくあたたかな手のひらは、今はもう遠い記憶でしかない「母さん」の温もりと……似ている気がした。
----------------------------------
●
ほのかに漂う甘い香りに顔を上げると、軒先の簾がわずかに揺れていた。
吹き込んでくる風が運んできたのは、キンモクセイの香りだろう。
伯人も気付いたのか、スンと鼻を鳴らして、ゆっくりと長い尾を揺らす。機嫌のよい時に見せる仕草だ。
「気に入ったのかい?」
《そうだにゃ。悪くない匂いだにゃ》
いつもと違う大人びた言い回しは、それでもやっぱり愛らしくて、思わず頬が緩んでしまった。
《……なにがおかしいにゃ》
「えっ?」
《なんで笑ってるにゃ! 失礼にゃぞ、お前》
不機嫌そうにそう言って、ぷいっと横を向くと、床板を尻尾で何度も叩く。
そんな仕草も本当に可愛くて、また顔がニヤついてしまいそうで、俯いて軽く咳払いをした。
「そんなつもりじゃなかったんだけど……君が嫌な思いをしたのなら謝るよ。ごめん。俺が悪かった」
《別に怒ってないにゃ》
声を落とす俺に、慌てたように顔を向けてくる上げる伯人。そうして、首を傾げながら、俺の顔を覗き込んだ。
いつだって伯人は俺に優しい。だから、たとえば俺がうっかり伯人の機嫌を損ねても、少し沈んだ表情を見せるだけで、すぐに許してくれる。
伯人にそんな自覚はないんだろうけど、俺はいつでも甘えてばかりだ。
「怒ってないのならよかった。……なら、今日は天気もいいし、花見がてら散策をしようか」
《う~ん……》
俺と視線を合わせたまま、考え込むように何度か瞬きを繰り返す。
静かに返事を待っていると、ふいに伯人の耳が大きく動いた。遅れて遠くから響いてくる子どもたちの声。
俺が気付いたのと同時くらいに、ふっと伯人が視線を落とした。
そうして、ボソリと呟く。
《外には……行かないにゃ》
「どうして? 好きだろう?」
小さな頃から、好奇心旺盛だった伯人。
気付かないうちにどこかへ潜り込んでしまうことも多くて、そのたびに姿の見えない伯人を探し回っては、肝を冷やしたものだ。
成猫といってもおかしくないくらいに成長した今は、家の中だけでは飽き足りないのか、よく外に出掛けたがった。
俺が一緒に行ける時だけにしてほしいと、そう提案した時には少し不満そうな顔を見せた。
それでも、俺との時折の散策を楽しんでくれてると思っていた。だから意外だった。
《……お前が話し掛けてこないなら、いいにゃよ》
「俺が? それは……静かに周りを見たい、ってことかな?」
返ってきた答えも予想していなかった類いのもので、重ねて問い掛ける。
問い掛けながら、少しだけ不安だった。
本来、猫というのは自由に過ごしたがる生き物だ。干渉されるのを嫌うと言ってもいい。
子猫の頃から、いつでも傍にいてくれる伯人に安心しきっていた。一人を好む猫も、そうじゃない猫もいるんだと、そう思って。
けど……成長とともに、束縛を嫌がる猫独特の気質が強くなってきたのだとしたら──
《そうじゃにゃくて。俺に話し掛けてると……頭がおかしいって思われちゃうかもしれにゃいだろ?》
「え?」
《他の人からは……ご主人が独り言を言ってるみたいに見えるにゃ。だから……》
そう言って、また耳をピクリと動かす。大声で何かを話す子どもたちの会話に、耳を澄ませるように。
それで合点がいった。
おそらく、俺が留守にしている時にでも、この家の近くにやって来た者がいるのだろう。そこで、俺のことを──俺がまともではないといったようなことを──面白おかしく話していたのかもしれない。
「俺と話をするのが、嫌なわけじゃないんだよね?」
答えはわかっている気がした。それでも問い掛けると、ふるふると大きく首を振る伯人。
《嫌なわけないにゃ! けど……ご主人が変な人だって思われるのは、嫌にゃよ》
「気にしなくていいんだよ。言いたい奴には、好きに言わせておけばいい」
《けど──》
「いいんだ。こうやって伯人と話せなくなるくらいなら……そう思われてる方がずっといい」
伝わるだろうか。
世界中の誰にどう思われようとも構わない。
伯人といられれば、それだけでいいんだ。ずっと、いつだって傍にいたいし……いてほしいんだと。
《ご主人は……馬鹿にゃ》
「うん……。だから伯人がいないと駄目なんだよ、俺は」
小さな小さな呟きに、精一杯の想いを込めて応えた。
受け止めてくれると信じて。
《ほんと……ばかだにゃ》
ため息のようにかすかな声で呟くと、ついと横を向く伯人。
何度も瞬きをすると、尻尾をゆらゆらと揺らす。嬉しいのだと、そう伝えてくれる仕草だ。
嬉しくて、視界が滲んでいく気がして……俺も何度か瞬きをした。
----------------------------------
○
それから、ずっと俺は一人でご主人を待ち続けた。
二人でも広いくらいだったこの家は、一人きりだと本当に大きすぎて……初めて出会ったあの日、若苗が言っていたことの意味もわかる気がした。
時々は、龍神の沼を──鈴音のところを──訪れることもあった。長い年月を健やかに生きるためでもあったし、少し……寂しくもあったからだ。
そうやって、どれくらいの月日を過ごしただろう。
《……ッ》
龍神の沼へと向かう道すがら、ふいに訪れた全身の気怠さ。一歩足を踏み出すのも苦しいくらいの重さに耐えきれず、そのまましゃがみ込んだ。
そうして、ふと気付く
いつの間にか、その齢を迎えていたことに。
《……っく、……ッ、あ…っ》
二股に割れていく尾に感じる初めての痛み。
体中の関節が軋んで音を立てているような違和感に、背中の毛が逆立つ。目が霞んで、音もよく聞こえてこない。
それでも、それを辛いとも苦しいとも思わなかった。
来るべくしてやって来た「変化」だと、頭のどこかでわかっていたから。
「……おれ、の手……?」
朧に霞んでいた視界。
その焦点が結ばれて最初に見たのは、長い五本の指を持つ白い手だった。
ぎゅっと握りしめて、その感覚と目に映る手の動きとが、少しのズレもなく一致するのを確かめてみる。
ゆっくり体を起こすと、今までより視点が高くて、世界がまるで違って見える気がした。
照りつける陽射しの眩しさがそれほど気にならない。
吹き抜ける風が運んでくる匂いは、いつもより曖昧だ。
「これが……ヒトの世界か」
そう口にする声も、言葉も、間違いなくヒトのものだった。
恐る恐る足を踏み出してみる。
思い通りに、体は動いた。
一歩、また一歩と歩いていくうちに、この体に馴染んでいくのがわかる。
嬉しくて、少しずつ少しずつ歩幅を大きくしながら、歩き続けた。この体を……今のこの思いを、一刻も早く伝えたかったから。
駆け出したいような思いを抑えて、ひたすら歩いて歩いて……現れたのは見慣れた木立ち。
一旦足を止めて、何度か深い呼吸を繰り返した。呼吸が整ったところで、低い枝葉をかき分けて沼へと歩き出す。
そうして、その名を呼んだ。
「鈴音。……俺だ」
声に応じるように、沼の上に靄が広がっていく。
ぼんやりと霞む水面に、少しずつ形を取っていく人影。
徐々に近づくその姿に呼応するように、さあっと風が吹き抜けた。
そうして、姿を現した鈴音は──龍神の巫女は──、俺を目にするや楽しげな声を上げた。
「おや、なんだい。お前のその姿は」
笑いを含む声。今にも吹き出しそうなのを必死で堪えているように、語尾も揺れていた。
そんな反応が面白くなくて、返す俺の声はあからさまに不満げだったと思う。
「なにって……俺がヒト型になるのが、そんなにおかしいのかよ」
漠然とではあったものの、もう少し……何か喜んでくれるような反応を期待していた。それもあって、さっきまでの興奮もすっかり冷めてしまう。
気付いたのだろう。鈴音は、少し慌てたように大きく手を振った。
「ああ、悪かったね。そういうことじゃないんだよ」
「そういうことじゃないなら……どういうことだよ」
相変わらず不貞腐れた声で応じる俺に、ほうっと息をつくと、鈴音はにこやかな笑みを向けてきた。
「まだまだ子どもだと思ってたのに……いつの間にか二十年以上も生きてきたんだねぇ。おめでとう、伯人」
「あ、ああ。……ありがとう」
唐突に改まった態度で祝福してくれる鈴音。
見つめてくる目も、その声も本当に嬉しそうで、拍子抜けしてしまう。
うまく誤魔化されたような気もしてきて……さらに食い下がった。
「じゃあ……なんで笑ったりしたんだよ」
「笑ってなんかないだろ?」
「けど……」
初めて俺を──ヒトになった俺を──目にした時の鈴音の反応に、笑われてるように思ったのは、俺の気のせいなんだろうか。
姿が……感覚が変わったことで、鈴音の心を読み違えたんだろうか。
そんなふうに考え込んでいると、俺に向けてくる鈴音の表情が変わった。「にんまり」って言葉が似合いそうな笑みは、これまでにも何度か目にしたことがある。
「巫女」というには随分と人間臭い表情。俺の好きな顔だ。
「気付いてないのかい? お前、アタシにそっくりじゃないか」
「……え?」
そんな鈴音に見惚れていたのかもしれない。
言われた言葉を呑み込むまで、少し時間がかかった。
何度か瞬きを繰り返して、その言葉がじんわりと頭に染み込んで……すぐに沼の淵へと駆け寄った。
波一つない澄んだ水面。
覗き込んだ俺の目に映ったのは……鈴音を二十歳ほど若返らせたヒトの顔だった。
「……これ、俺……なのか?」
「そうさ。よく似てるだろ?」
そう言って俺の隣に並ぶと、同じように水面を覗き込んだ。
二つの顔が並んでみれば、間違いなく別人の顔だとわかる。年齢はもちろん、目元や鼻筋、顔の輪郭なんかも含めて、紛れもなく「女」である鈴音と、俺の顔は違っていた。
「……みたいだ」
「ん? なんだい?」
思わずこぼれた呟き。
聞かせるつもりのない独り言だったから、問い返す鈴音から視線を逸らす。そうして、曖昧に首を振った。
何かを感じたのだろう。重ねて涼音が問い掛けてくることはなく、ただボソリと呟いた。
「この沼の水を、ずっと浴びてきたからかもしれないねぇ」
俺は何も応えなかった。
そうかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。
そんなことを思いながら、よく似た……それでいて少しずつ違う顔が二つ並ぶ水面を、もう一度じっと見つめる。
(なんだか……親子みたいだな、俺たち)
心の中でそう呟きながら。
----------------------------------
●
かすかに聞こえてくる虫の音。
夜空に浮かぶ真円の月とその響きは、やはり似つかわしい。そんなことをふと思う。
《昨日より、よく聞こえるにゃ》
並んで空を見上げながら、伯人も同じことを考えていたんだろうか。
そう思えるような呟きが嬉しくて、返す俺の声は弾んでいた気がする。
「そうかもしれないね。少しずつ秋が深まってきているのかな」
伯人の方が耳はいいから、俺以上に色々な音を感じ取っているのかもしれない。
音だけじゃなく、もしかすると長い髭を揺らす風や、その目に映る光も……俺とは違ったものを受け止めているんだろうか。
そう思うと、羨ましさと寂しさが入り混じったような感覚が湧いてきて……言葉に詰まる。
《それと──》
何かを言いかけていた伯人が、スンと鼻を鳴らす。そうして、わずかに耳を揺らした。
「……なにか気になる?」
《そのうち、降り出すかもしれないにゃ》
「雨……?」
言われて、ぐるりと夜空を見渡してみたけれど、雨雲らしきものは見えない。
問い返すように視線を向けると、伯人は耳をパタパタと震わせていた。
《風に乗ってくる空気が湿ってるにゃ。そのうち雨雲が出てくるにゃよ、きっと》
答える声が少し不満げに聞こえた気がして、重ねて問い掛ける。
「伯人は、雨が嫌いかい?」
《う〜ん、別にどっちでもないにゃ。けど……ご主人とお出掛けする日には、降らないでほしいにゃ》
そう言いながら俺の顔を覗き込む。ほんの少し首を傾げるその姿は本当に愛らしくて……ついさっき感じた寂しさなんて跡形もなく消えていく気がした。
いつだって、伯人が俺に向けてくれる瞳が、その想いが……俺の心を癒してくれる。
少しでもそう伝えたくて、気付くと声がこぼれていた。
「そうだね。けど……」
《けど、なんにゃ?》
「わざわざ出掛けなくたって、俺は……伯人といられるだけですごく楽しいよ」
正面から俺を見つめていた目がわずかに揺れた。そうして、ひどく驚いた様子で瞬きを繰り返す。
まっすぐに見つめ返しながら、言葉を……思いの丈を、そっと差し出した。
「この部屋からの見慣れた景色だって……伯人が一緒なら、すごく綺麗に見えるんだ。いつだって、そう思ってるよ」
《……そんなわけないにゃ》
やや遅れた返事は、やっぱりどこか戸惑っている気がした。伯人を困らせたくはなかったけれど……どうしても伝えたいと思う気持ちが抑えられない。
「そうなんだよ。君と出逢った時からずっと、そう思ってる。信じられないかもしれないけど」
そう言って、もう一度まっすぐに目を覗き込む。嘘なんて欠片もないのだとわかってほしくて。
気圧されたように、すっと目を逸らす伯人。そうして、雲が広がり始めた空を見上げる。
そんな仕草を見ても、「流された」とは思わなかった。俺の言葉を、そこに込められた思いを理解しようと心を落ち着けているんだ……、ふとそんなことを思う。
金の瞳は、淡い月の光を映してキラキラと輝いていた。その美しさにまた見惚れる。思わずこぼれた小さなため息に気付いたのか、顔を向けてきた。
《せっかくの月夜に空を見ないなんて、もったいないにゃよ》
「見てるよ。けど……月明かりに照らされてる君も綺麗だから、見ていたいんだ」
そんな答えに、伯人も大きくため息をつく。呆れたように首を左右に振ると、ボソリと呟いた。
《ご主人は、本当に馬鹿だにゃ。俺なんていつでも見れるじゃにゃいか》
「いつでも見てたいんだよ。……嫌かい?」
問い掛けてみるが、伯人は答えない。
答える代わりに、しなやかに立ち上がると、俺の膝にピッタリと寄り添ってくれた。
《………いやなわけ、ないにゃ》
「ありがとう」
衣を通して伝わってくる伯人の温もりが嬉しくて、愛おしくて……胸が詰まる。喉の奥が熱を持っているようで、気を抜くと何かが溢れ出してしまいそうだ。
《月……隠れちゃったにゃ》
わずかに掠れた声が耳に届く。促されるままに見上げると、いつの間にか空は一面の雲に覆われていた。
淡い月の光を透かして青白く光る雲は、どこか不思議で……それでいて、とても美しく見える。伯人が傍らにいてくれるからだろう。
「そうだね……けど、こんな雲も綺麗だ」
《……そうかもにゃ》
言葉にしなかった想いも、伝わったのだろうか。伯人の声にも、何かに感じ入っているような響きがあった。
静かに手を伸ばし、伯人の背に触れる。そうして、柔らかで滑らかな毛並みを、温かな体をそっと撫でた。
少しすると、グルグルと喉を鳴らす音が聞こえてくる。
俺は本当に幸せだ……そんな言葉がふと浮かんできて、胸がいっぱいで、苦しいくらいだ。
(空が雲に覆われて、星も月も見えなくたっていい。俺にとっての月は……光は、君の瞳なんだから)
そう伝えようとして……けれど、口を開いたら嗚咽になってしまいそうで……。
深く息を吸って呑み込んだ。
----------------------------------
○
ふいに鈴音が立ち上がった。そうして、スッと手を差し伸べる。
「せっかくヒトの姿になれたんだ。これを着るといい」
言い終えないうちに、何もない空中から、フワリと落ちてきた布地を受け止める。
両手に載せたそれをしみじみと眺める鈴音の顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
懐かしいものを、遠い過去を見つめているようだと、そんなことを思いながら見守っていると、手にしたそれを差し出してきた。
「これ……?」
「持っていっておくれ。アタシからの祝いだ」
言われるままに受け取り、そっと広げてみると、それは白無垢の着物だった。
この色を、形を、以前に見たことがある。
若苗と村の近くまで出掛けたある日、人だかりの向こうに目にした──
「アタシが龍神様に嫁ぐ時、着てきた物だ」
「とつぐ……」
「ああ。花嫁衣装だ」
目を細めて笑う鈴音はとても幸せそうだ。
その日の感情が、想いが……よみがえったように。
どうしてか、それが羨ましくて、それでいて間違いなく嬉しくて……続く言葉は喉に絡んで掠れた。
「大切な……思い出の衣装だろ? 俺が貰うわけにはいかないよ」
「構わないさ。大切だからこそ、伯人に着てほしいんだよ」
「けど──」
「いつか生まれ変わるお前の愛しい男に、その姿を見せてやりな。きっと……喜んでくれる」
俺の躊躇いを、迷いを断ち切るように、キッパリと口にする鈴音。
多分わかっていたのだろう。
この衣装を目にした瞬間、ご主人に……若苗に見せたいと思った俺の心を。
「ありがとう」
そんなことしか言えない自分が歯痒かった。鈴音から、貰ってばかりの自分が……。
そういうもどかしさも察してくれたのだろうか。鈴音はゆっくりと首を振った。
「礼なんかいらないさ。……本音を言えば、ただアタシが見たいだけなんだからね」
そう言って向けてくる鈴音の笑顔は、何かのイタズラを思いついた子どものように見えた。
鈴音のこういうところもすごく好きだから、釣られて俺も笑ってしまう。
「仕方ないなぁ。じゃあ、見せてやるよ」
そう切り返すと、わずかに目を丸くする。そうして、また笑った。
「なら、張り切って着付けてやろうかね。着崩れないように、きっちりとね」
「望むところだ。遠慮なんかしなくていいよ」
こんなやり取りも、鈴音だからできることだ。
数十年の月日を過ごしてこられたのは、どうしても若苗に……もう一度ご主人に会いたかったからだ。その思いはずっと揺るがない。
けど、こうやって待ち続けていられたのは、鈴音がいてくれたからだ。
(ありがとう……鈴音)
心の中でそっと呼び掛ける。そうして、白無垢の着物を──鈴音がくれた温かな想いを──ぎゅっと抱きしめた。




