タマ、春子を毛づくろいする
タマは、春子の家で暮らしている猫だった。
タマは毎日、よく食べ、よく寝て、よく毛づくろいをする。
猫にとって毛づくろいは大事な仕事である。
毛並みを整える。
体をきれいにする。
気持ちを落ち着かせる。
そして何より、自分が美しい猫であることを確認する。
タマはそう思っていた。
ある日の午後。
タマは窓辺で、丁寧に前足をなめていた。
ぺろ。
ぺろ。
ぺろ。
実に完璧な動きだった。
春子はソファに座って、その様子を見ていた。
「あら、タマちゃん。きれいにしてるのねえ」
「にゃ」
当然である。
猫は美しくなければならない。
タマは前足で顔をこすり、耳の後ろまできちんと整えた。
それから、ふと春子を見た。
春子は少し疲れた顔をしていた。
髪も少し乱れている。
服には、タマの毛が何本もついていた。
タマはじっと見た。
これは、いけない。
春子は、自分では毛づくろいができないらしい。
人間は不便な生き物だ。
舌はあるのに、毛づくろいには向いていない。
仕方がない。
ここは自分がやってやるしかない。
タマはソファに飛び乗った。
「あら、タマちゃん」
春子が嬉しそうに笑う。
タマは春子の隣に座った。
そして、春子の袖をじっと見た。
タマは春子の袖に顔を近づけた。
ぺろ。
「ひゃっ」
春子が変な声を出した。
タマは気にしなかった。
ぺろ。
ぺろ。
ぺろ。
「タマちゃん、くすぐったいってば」
春子は笑っている。
だが、タマは真剣だった。
これは遊びではない。
世話である。
春子の袖についた毛を整え、ついでに春子の腕も少しなめておく。
人間の毛づくろいは、思ったより大変だった。
毛が少ない。
舐めても毛並みが整っている感じがしない。
しかも、春子はすぐ笑って動く。
「もう、タマちゃん。何してるの」
「にゃ」
動くな。
世話をしている。
タマは春子の手もなめた。
ぺろ。
ぺろ。
春子は困ったように笑った。
「タマちゃん、私のことも毛づくろいしてくれてるの?」
そうだ。
ようやく分かったか。
タマは少し得意になった。
春子はタマの頭を撫でた。
「ありがとうねえ」
タマは目を細めた。
悪くない。
春子は分かっている。
自分が春子の世話をしてやっていることを、ちゃんと分かっている。
その日から、タマは時々、春子を毛づくろいするようになった。
春子がソファに座っていると、袖をぺろぺろ。
春子が本を読んでいると、指先をぺろぺろ。
春子が昼寝をしていると、髪の毛をぺろぺろ。
「タマちゃん、髪はやめて」
「にゃ」
なぜだ。
髪こそ毛づくろいが必要だろう。
春子の髪は長く、タマの毛よりずっと扱いにくかった。
ぺろぺろしても、すぐ変な方向へ行く。
少し噛んで引っぱると、春子が目を覚ました。
「いたた、タマちゃん。食べないで」
食べていない。
整えているのだ。
春子は分かっていない。
ある日、タマは特に熱心に毛づくろいをした。
まず自分の胸。
次に前足。
背中。
しっぽ。
そして、春子の袖。
春子の手。
春子の髪。
さらに、春子の膝にかけてあった毛布。
毛布にもタマの毛がたくさんついていた。
これはもう、毛づくろいするしかない。
ぺろ。
ぺろ。
ぺろ。
タマは一生懸命だった。
春子は苦笑しながら言った。
「タマちゃん、今日はずいぶん念入りねえ」
「にゃ」
家族の身だしなみを整えるのは大事な仕事だ。
タマはそう思っていた。
だが、その夜。
タマは少し、むずむずした。
お腹の奥というか、喉のあたりというか。
何かが、もやもやしている。
「にゃ……」
タマは床に座った。
春子が振り返る。
「タマちゃん?」
タマは少し背中を丸めた。
なんだ。
何かが来る。
これは、敵か。
体の中から来る敵か。
「けほ」
タマは咳をした。
春子の顔が変わった。
「タマちゃん?」
「けほっ、けほっ」
タマは前足を踏ん張った。
春子が慌てて近づいてくる。
そして次の瞬間。
「けほっ」
ころん。
床に、毛玉が出た。
タマはしばらく、それを見つめた。
春子も見つめた。
タマは思った。
出た。
何かが出た。
自分の中から、謎のものが出た。
春子はほっとしたように息をついた。
「ああ、毛玉だったのね。びっくりした……」
毛玉。
タマは床のそれを見た。
自分が整えた毛たちの、最後の姿である。
なんということだ。
毛づくろいをしすぎると、毛玉になるらしい。
タマは少し考えた。
つまり、自分は春子の世話をし、自分の世話をし、毛布の世話までした結果、毛玉を生み出したということになる。
大仕事だった。
春子はティッシュを持ってきて、毛玉を片づけた。
「タマちゃん、頑張りすぎたのかな」
「にゃ」
タマは少しむっとした。
頑張りすぎたのではない。
責任感が強かっただけだ。
春子はタマを抱き上げた。
「でも、私の髪まで毛づくろいしなくていいからね」
タマは春子を見上げた。
春子の髪は、今日も少し乱れている。
やはり、放っておけない。
タマはそっと顔を近づけた。
ぺろ。
「だから髪はいいの」
春子に止められた。
タマは不満だった。
その夜、タマは自分の寝床で丸くなった。
春子は床を拭き、タマ用のブラシを出してきた。
「明日からは、ブラッシングもしようね」
タマは片目を開けた。
ブラッシング。
それは、春子がタマを整える行為である。
なるほど。
自分が春子を整え、春子が自分を整える。
それなら悪くない。
家族とは、そういうものなのかもしれない。
タマは小さくあくびをした。
ただし、ひとつだけ問題がある。
春子のブラシは少し気持ちいい。
気持ちいいが、時々しつこい。
春子の毛づくろいにも、まだまだ修行が必要だ。
タマはそう思いながら、ゆっくり目を閉じた。
次の日。
春子がブラシを持って近づくと、タマは一度だけ逃げた。
だが、少し考えて戻ってきた。
世話をされるのも、猫の大事な仕事である。
タマは春子の前に座り、偉そうに胸を張った。
「にゃ」
やってもよい。
春子は笑って、そっとブラシを動かした。
窓辺には、やわらかい光が差していた。
タマは目を細める。
気持ちいい。
でも、春子には言ってやらない。
猫にも、世話される側としての体面があるのだった。




