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タマは今日も少しだけ冒険するシリーズ

タマ、春子を毛づくろいする

掲載日:2026/05/22

 タマは、春子の家で暮らしている猫だった。


 タマは毎日、よく食べ、よく寝て、よく毛づくろいをする。


 猫にとって毛づくろいは大事な仕事である。


 毛並みを整える。

 体をきれいにする。

 気持ちを落ち着かせる。


 そして何より、自分が美しい猫であることを確認する。


 タマはそう思っていた。


 ある日の午後。

 タマは窓辺で、丁寧に前足をなめていた。


 ぺろ。

 ぺろ。

 ぺろ。

 実に完璧な動きだった。


 春子はソファに座って、その様子を見ていた。


「あら、タマちゃん。きれいにしてるのねえ」


「にゃ」


 当然である。

 猫は美しくなければならない。


 タマは前足で顔をこすり、耳の後ろまできちんと整えた。


 それから、ふと春子を見た。

 春子は少し疲れた顔をしていた。

 髪も少し乱れている。


 服には、タマの毛が何本もついていた。

 タマはじっと見た。

 これは、いけない。


 春子は、自分では毛づくろいができないらしい。


 人間は不便な生き物だ。


 舌はあるのに、毛づくろいには向いていない。


 仕方がない。

 ここは自分がやってやるしかない。

 タマはソファに飛び乗った。


「あら、タマちゃん」


 春子が嬉しそうに笑う。

 タマは春子の隣に座った。

 そして、春子の袖をじっと見た。


 タマは春子の袖に顔を近づけた。

 ぺろ。


「ひゃっ」


 春子が変な声を出した。

 タマは気にしなかった。


 ぺろ。

 ぺろ。

 ぺろ。


「タマちゃん、くすぐったいってば」

 春子は笑っている。


 だが、タマは真剣だった。

 これは遊びではない。

 世話である。


 春子の袖についた毛を整え、ついでに春子の腕も少しなめておく。


 人間の毛づくろいは、思ったより大変だった。


 毛が少ない。


 舐めても毛並みが整っている感じがしない。


 しかも、春子はすぐ笑って動く。


「もう、タマちゃん。何してるの」

「にゃ」


 動くな。

 世話をしている。

 タマは春子の手もなめた。


 ぺろ。

 ぺろ。

 春子は困ったように笑った。


「タマちゃん、私のことも毛づくろいしてくれてるの?」


 そうだ。

 ようやく分かったか。

 タマは少し得意になった。

 春子はタマの頭を撫でた。


「ありがとうねえ」


 タマは目を細めた。

 悪くない。

 春子は分かっている。


 自分が春子の世話をしてやっていることを、ちゃんと分かっている。

 その日から、タマは時々、春子を毛づくろいするようになった。


 春子がソファに座っていると、袖をぺろぺろ。

 春子が本を読んでいると、指先をぺろぺろ。

 春子が昼寝をしていると、髪の毛をぺろぺろ。


「タマちゃん、髪はやめて」

「にゃ」


 なぜだ。

 髪こそ毛づくろいが必要だろう。

 春子の髪は長く、タマの毛よりずっと扱いにくかった。


 ぺろぺろしても、すぐ変な方向へ行く。

 少し噛んで引っぱると、春子が目を覚ました。


「いたた、タマちゃん。食べないで」


 食べていない。

 整えているのだ。

 春子は分かっていない。


 ある日、タマは特に熱心に毛づくろいをした。


 まず自分の胸。

 次に前足。

 背中。

 しっぽ。


 そして、春子の袖。

 春子の手。

 春子の髪。


 さらに、春子の膝にかけてあった毛布。

 毛布にもタマの毛がたくさんついていた。

 これはもう、毛づくろいするしかない。


 ぺろ。

 ぺろ。

 ぺろ。


 タマは一生懸命だった。

 春子は苦笑しながら言った。


「タマちゃん、今日はずいぶん念入りねえ」

「にゃ」


 家族の身だしなみを整えるのは大事な仕事だ。

 タマはそう思っていた。


 だが、その夜。

 タマは少し、むずむずした。

 お腹の奥というか、喉のあたりというか。

 何かが、もやもやしている。

「にゃ……」


 タマは床に座った。

 春子が振り返る。


「タマちゃん?」


 タマは少し背中を丸めた。

 なんだ。


 何かが来る。

 これは、敵か。

 体の中から来る敵か。


「けほ」


 タマは咳をした。

 春子の顔が変わった。


「タマちゃん?」

「けほっ、けほっ」


 タマは前足を踏ん張った。

 春子が慌てて近づいてくる。

 そして次の瞬間。


「けほっ」


 ころん。

 床に、毛玉が出た。


 タマはしばらく、それを見つめた。

 春子も見つめた。


 タマは思った。

 出た。

 何かが出た。


 自分の中から、謎のものが出た。

 春子はほっとしたように息をついた。


「ああ、毛玉だったのね。びっくりした……」


 毛玉。

 タマは床のそれを見た。

 自分が整えた毛たちの、最後の姿である。


 なんということだ。

 毛づくろいをしすぎると、毛玉になるらしい。

 タマは少し考えた。


 つまり、自分は春子の世話をし、自分の世話をし、毛布の世話までした結果、毛玉を生み出したということになる。


 大仕事だった。

 春子はティッシュを持ってきて、毛玉を片づけた。


「タマちゃん、頑張りすぎたのかな」

「にゃ」


 タマは少しむっとした。

 頑張りすぎたのではない。


 責任感が強かっただけだ。

 春子はタマを抱き上げた。


「でも、私の髪まで毛づくろいしなくていいからね」


 タマは春子を見上げた。

 春子の髪は、今日も少し乱れている。


 やはり、放っておけない。

 タマはそっと顔を近づけた。

 ぺろ。


「だから髪はいいの」


 春子に止められた。

 タマは不満だった。


 その夜、タマは自分の寝床で丸くなった。

 春子は床を拭き、タマ用のブラシを出してきた。


「明日からは、ブラッシングもしようね」


 タマは片目を開けた。

 ブラッシング。


 それは、春子がタマを整える行為である。


 なるほど。

 自分が春子を整え、春子が自分を整える。

 それなら悪くない。


 家族とは、そういうものなのかもしれない。

 タマは小さくあくびをした。


 ただし、ひとつだけ問題がある。

 春子のブラシは少し気持ちいい。

 気持ちいいが、時々しつこい。


 春子の毛づくろいにも、まだまだ修行が必要だ。

 タマはそう思いながら、ゆっくり目を閉じた。


 次の日。

 春子がブラシを持って近づくと、タマは一度だけ逃げた。


 だが、少し考えて戻ってきた。

 世話をされるのも、猫の大事な仕事である。

 タマは春子の前に座り、偉そうに胸を張った。


「にゃ」


 やってもよい。

 春子は笑って、そっとブラシを動かした。

 窓辺には、やわらかい光が差していた。


 タマは目を細める。


 気持ちいい。


 でも、春子には言ってやらない。

 猫にも、世話される側としての体面があるのだった。

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