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穏やかな顔のままで



 律が出ていった後、寝台から身を起こし、深く息を吐く。


(⋯⋯逃げよう⋯⋯ここから。俺の後に律にもお風呂に入ってもらって、その隙に⋯⋯)


 律が湯浴みの間の導線を考えた。


(まず大事なのは、見つけた資料だ。俺の鞄はリビングにある。貴重品も入ってる。当分の食料はパントリーの中の保存食を持っていこう)


(すぐに電車に飛び乗って、降りたらコンビニに行こう)


 そこまで考えてたら寝室のドアが開いて、肩が揺れた。



 律がタオルと氷の入った袋を持って入ってきた。


「⋯⋯さっきはごめん。腕どこ痛めた?」


「わ、分からない。無我夢中だったから⋯⋯」


「⋯⋯ごめん」


 押さえると手首がほんの少し痛かった。


 ジャラリ、と氷同士がぶつかる音。タオル越しにあてられる。


「ごめん。保冷剤無くて⋯⋯お風呂のお湯が溜まるまで冷やしてて」


「うん⋯⋯」


 さっきまでの律とは打って変わって、穏やかな律だった。


 でも、豹変した律を見てしまった。

 

 出会って数日の律を思い出した。


 それに、前世の頃に出会った律にそっくりな少年も⋯⋯。


 お湯が溜まった報せが鳴った。


 浴室へ向かう。


 相変わらず、下着と寝間着が準備されていた。

 上下のスウェット。これなら、このまま外に出ていける。


 裸になる。


 お風呂の椅子に座って髪を洗ってる最中だった。


 引き戸が鳴った音がして、振り向きながら泡だらけの顔を擦って、目を開ける。

 振り向いた先に――裸の律がいた。



「な、なんで⋯⋯」


 慌てて正面を向く。


 急いで髪を洗い流した。


「澪」


 声を掛けられ、思わずシャワーを止める。


「な、なに⋯⋯?」


「流し残しがある」


 シャワーヘッドを手に取るとシャワーを再開する律。


「い、いきなり声掛けるからだよ⋯」


 俺の抗議に、


「ごめん。⋯⋯澪、流すから下向いて」


と、有無を言わさない律の雰囲気に、思わず下を向く。


 丁寧に洗い流され、シャワーヘッドを元に戻す音がしたと思ったら、髪に揉み込むようにコンディショナーまで付けられた。


「いい、いい!自分でするから!」


「でも、俺が手首を傷めさせた」


(そのためにお風呂に入ってきたの!?)


と、思わず出そうになった言葉を寸前で飲み込む。


 髪を洗い流され、やっと解放される、と律がシャワーヘッドを戻す動作に安堵する。


 しかし、身体を洗おうとしたボディタオルを奪われた。


(まさか⋯⋯)


「俺が洗う」


 律の申し出に慌ててボディタオルに手を伸ばす。


「良いよ!自分で洗うから!」


 立ち上がって取りたいのに、立ち上がったら律の前に全部さらけ出してしまう。

 律との体格差が、俺の男としての矜持きょうじを粉々にしていた。


(精液検査の数字の差だろうか⋯⋯つらい)



 ついがっくりと項垂れていると、モコモコに泡立てたボディタオルが、背中をワシャワシャ洗い出した。


「わっ!」


 びっくりして思わず声が出た。


 振り向くと、いつの間にか律は、俺の後ろに回っていた。


「前向いて、じっとしてて」


 うなじに肩、肩甲骨に背中へと、泡立てたボディタオルが絶妙な力加減で洗われていく。


(き、気持ち良いかも⋯⋯)


 日焼け止めを塗る時と良い、律は、人の身体になにか施すのが上手なのかもしれない。


 結局、うっとりと律に身体を任せてしまう。


「あはは⋯⋯!」


 腕を取られて脇腹を洗われてくすぐったくて、思わず笑いが漏れてしまった。


(ううう⋯⋯恥ずかしい!)


 介護、介助、介護、介助と心の中で唱える。


「力抜いて、澪」


 言われたとおりに力を抜く。


 取られた腕を二の腕、肘、肘窩ちゅうか、前腕と丁寧に、指の先まで洗ってくれる。


 もう片方の腕も同じように。



 背中から脇へと腕を回され、おとがいを取られて首を洗われる。


(な、なんか腕の回し方おかしくない?)


 そのまま、鎖骨、胸へと⋯⋯。


(なんか、なんか、洗い方、しつこいかも⋯⋯!)


 まっ平らのなにも変哲の無い胸を、撫でるようにゆっくりと洗い上げる律。


 顎を片手で取られたまま。

 隠すことも出来ず、晒された胸をずっと洗うのはなんでかな⋯⋯!?


 聞きたいけど、聞けない。藪から蛇を出す行為な気がして。


 やっと、胸が解放されてボディタオルがお腹へと移動する。


(く、くすぐったい⋯⋯!)


 笑いそうになるのを、なんとか堪える。


 しかし、脇から顎を固定され、もう片方の律の腕も脇から泡立てたボディタオルで身体を執拗に攻めてくる。


(む、無理かも〜⋯⋯!)


 笑い声を出したくなくて、必死で我慢するため目を瞑り、身をよじる。


 食いしばった歯から、「く、ふ⋯⋯ッ、」と、息が漏れた。


 ピクピクと腹筋が揺れる。


 笑い声を必死で我慢して、ボディタオルから逃げるあまり、律の身体に身を預けていた。

 

 我慢するあまり息苦しくなって、空気を求めて「はァ⋯⋯ッ」と、息を吐いた。酸素を吸おうとした途端、唇を奪われた。


「んぁ⋯⋯ッ」


 ビックリして目蓋を開けると眼前いっぱいに律の顔で慌てて目を瞑る。


 離れたいのに、顎を固定されているため、逃げ出す事もできない。


 開いた口から律の舌が思いっきり入ってきて絡みついて、吸われる。


 腕で跳ね除けたいのに、律の身体は後ろにあった。


(ど、どうしよう⋯⋯!)


 唇の隙間から酸素を求めようとする俺に、律が


「律、鼻で出して鼻で吸うんだ」と、教えてくれた。


 そのとおりにしたら呼吸が出来てホッとする。


 唇が離れた瞬間、口を引き結んだけど、固定された下顎を指で押さえられ、お腹をくすぐるように攻められ、あっという間に陥落。


 結局、律に口内の侵入を許してしまう。


(いつ解放されるの⋯⋯!?)


 律が唇を離して、お互いの唇に唾液の橋が出来るまで、律は解放してはくれなかった。



 やっと、接吻責めから解放されてヘロヘロの俺に、律は洗浄の続きをしようとするが、――その先は⋯⋯。


「自分でやる⋯⋯!やらせなかったら律のこと嫌いになるから!」と言うと、ボディタオルを返してくれた。


(魔法の言葉みたい⋯⋯)


 言って、前世で律そっくりの少年にも好きを天秤にかけて似たような事を言われたことを思い出した。


『友達が困ってるのに助けてくんないなんて、もう友達でもなんでもねぇよな。今から話しかけないでね、じゃ』


 少し、罪悪感。


 でも、ここは密室。裸。

 謝るのは我慢した。


 顔も身体を洗い終わる。振り向くと律が地べたに座って髪を洗っている。


「律、俺もう終わったから、椅子使いなよ」


と、言い出ていこうとする俺を座って通せんぼした律から、


「ちゃんと湯船に浸かってから出ようね」


と、言われた。


 湯船に浸かると、律から


「澪ってさ、もしかしてキスって俺が初めて?」


と、聞かれた。


“そんなことない”と言おうとしたが、「両親とか小さい頃の数は、数に入らないから」と、言われ黙るしかなかった。


 鼻歌の混じりに、シャワーヘッドを機嫌良く操り、泡を落としていく律を見る。


 湯船から上がる俺に、お湯を止めて「もう上がるの?」と聞いて来た。


「誰かさんのおかげでのぼせそうだから」


と、言うと、


「じゃ、仕方ないね」


と、見送られた。


 急いで身体を拭いて着替える。


 廊下を出て、目指すは俺のデータが入ったクローゼット!


 クローゼットを開けて、目的の物を取り出して、鞄に入れた。


 パントリーに入って、かさ張らなくて、腹が満たせそうな物を入れる。


 玄関で靴を履く。


 玄関の引き戸を開け⋯⋯開かない。


「なんで⋯⋯」


 鍵をそ、っと解除して引き戸を引く。


 開かない。


「どうして⋯⋯」


 ぐっ、ぐっ、と引き戸を引くが、全く開く気配がない。


 施錠を確認する。

 ちゃんと開いてる。


 なのに、扉が開かない。


 心臓が音を立てて鳴り出す。


 引き戸のノブを掴む手の平に汗が滲む。


 頭がドクドクと焦りで脈打つ。


 その時だった――。



「どこ行くの?買い物?」



 後ろから掛かる声に、心臓が口から飛び出そうになる。


 律の穏やかな声に、振り向けない。

 


「う、うん。アイス食べたくなって⋯⋯」


 引き戸に身を潜めるように、俺は答えた。


「アイスなら買ったじゃない?一緒に食べよう」


 廊下にヒタリ、ヒタリと足音――近付いてくる律の気配。


 ピッタリと、俺の背に律が張り付くように、接近した。


「もしかして、出ていこうとした?」


 律の質問に答えられない。


「一応、用心しておいて良かった。ドア、開かなかったでしょ?」


 律の言葉に思わず、動揺しそうになる。


(用心て⋯⋯気付いてたの?)


「このドア軽いからさ。子供が誤って外に行かないように、チャイルドロックが施されてるの」


 “チャイルドロック”という言葉に、俺は思わず目視でその場所を探した。


「知らなかった?ちゃんとマンションの取り扱い説明のデータ、読んどかないと、ね?」


 律がそうしゃべっている間、俺のうなじに、ぽたり、ぽたり、と水滴が落ちてきて思わず、振り向く。


 律が裸のことにぎょっ、として動揺して下まで目をやった。


 腰にタオルを巻いててホッとする。


「ふ、服着なよ⋯⋯」


と、笑顔を作ろとして引きつる俺に、


「どうせすぐ脱ぐのに、意味ないでしょ?」


と、律から言われてその言葉の意味にゾッ、とする。


 引き戸を持つ手を外される。

 動揺して、持っていた鞄が床に落ちる。


「律、⋯⋯いやだ」


 声が震える。


 腕が引かれ、身体を反転させられる。

 

 痛めた手首を思いやる、律はいない。


「りつ⋯⋯律⋯⋯ッ」


 腕を引っ張られ、廊下を歩かされる。

 足がもつれそうになる。


「律⋯⋯やめて!」


 振り向かない。


「⋯⋯律、嫌だ。お願い!」


 寝室の前にたどり着く。


「律⋯⋯ッ!俺、嫌いになる!お前のこと嫌いになるから⋯⋯!」


 魔法の言葉。


 なのに――


「⋯⋯いいよ」


 律の返事。表情は見えない。


 扉が開く。


「あ⋯⋯」


 腕を引かれ肩を抱かれる。寝室の扉は、閉ざされた。



◇◇◇


 

「ん⋯⋯」


 短い睡眠時間。身体のだるさで目を覚ます。


 律が、まだ寝ているのを確認すると、俺はそっ、と布団から抜け出し浴室へと向かった。


 異物感とひりつく痛み。ドロリ、と身体から溢れる違和感に、嫌悪を感じながら廊下を歩く。


 シャワーを浴びると俺は、異物を掻き出すように洗った。


 何度も唇を重ねられた口内を洗う。


 浴室に持ち込んだ歯ブラシで、血が出るほど磨いた。



 舐められた顔が気持ち悪い。


 舐められた身体が気持ち悪い。


 律は何度も愛してるって言ったけど、一方的に身体を開かれた。

 それが辛かった。


 何度も、何度も洗った。



 浴室を出る。


 新しい下着を出して身につける。


 服はスウェットで良い。


 律の言葉が頭の中に響いてくる。


『使うだけ順応する。形が変わる。澪、着床したら急激に変わる。君は、母になるんだ⋯⋯』


 怖い。なりたくない。

 あんなに信じてた国の方針が足元からぐらついてる。

 母になるのは、祝福されることだった。誉れだった。


 なのに――。


 玄関で靴を履く。


 落としていた鞄を拾う。中からスマホを取り出して、チャイルドロックの説明文を読んで解除する。


 鞄の中に俺のデータが記載された資料と財布の中身を確認する。


 俺は、外に出た。もう戻らない。



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