優しさの檻
自宅まで遠いと感じたのは、初めてではなかろうか。
無気力だった我が人生。
こんなに必死で帰宅したのは、人生で初めてだったかもしれない。
自宅が見えた時には、走り出していた。
「はあ⋯、はあ⋯、はあ⋯、」
玄関に入って鍵をかけた途端、足元から力が抜けた。
やっと、やっと、安息の地に辿り着いた気分。
こんなに家が恋しいと思うなんて。
脱力。このまま廊下で寝たかった。
己を叱咤し、ヨロヨロと起き上がると、部屋に入る。
ソファーに身体を横たえると、俺はクッションに頭を預け、現実から逃避するように眠りにつくのだった。
婚姻が決められた日、その日から子作り期間として休みが強制的に与えられる。
社会人も学生も婚姻すれば、義務を果たさねばならない。
人類滅亡を阻止することが国にとって、世界にとって、それは急務だからだと。
聞き流してしまうほど、連日ニュースでも言っていた。
全て律に出会う前の話。
俺は、決まりなら従うのが義務だろ、とさえ思っていた。
――――あれから三日、家に引きこもった。
冷蔵庫も、乾麺を放り込んでいた棚も空だ。カップ麺やレトルトで済ませていた備蓄さえ、この三日間の引きこもりで底を突いていた。
ただでさえ、外食や買ってきたもので済ませていたからか、もう食べられる物は、なにも残っていなかった。
「⋯⋯さすがに買い出しか」
上着を着て、玄関を開け放つ。
目の前に、律がいた。
「え⋯⋯」
思わず、閉めそうになる扉。
だが、一瞬の遅れが律を入れる隙になってしまった。
足をストッパーされる。
「ひっ⋯⋯」
開いた隙間から律の指が入ってくる。
扉を掴んだ手は、ぐぐぐ、と強い力でどんどん開いていった。
両手でドアノブを押さえているのに。
同じ男なのに。
力負けして開け放たれた扉。
足が竦む俺を、律は勢いのまま抱きしめてきて、こう言った。
「なんで、逃げたの?おれ⋯“待ってて”、って言ったよね?」
「ご⋯⋯、ごめん」
咄嗟に謝った。怖かった。律が豹変するのが。だから、咄嗟に謝った。
律に抱きしめられたまま、頭を抱えられるようにされていたからか、耳元で囁くように声が発せられた。
「ホテルに戻ったらさ、澪がいなくなってて、慌ててフロントに電話したんだ。そうしたら、“出掛ける”と、だけしか言われなかった、って。でもテーブルに現金が置いてあるだろ?一応、戻ってきてほしくて待ってたけどさ。結局、澪は戻ってこなかった」
律の登場に、その言葉に、心臓がバクバクと拍動している。
律に気取られたくない。俺は胸の前に手を潜り込ませて、なんとか隙間を作った。
「澪⋯⋯、なにか言ってよ」
耳元で囁いていた律が、拘束を緩めて俺に視線を合わせてくる。
「俺がここに来てびっくりした?役所に行けば澪の居場所ぐらい教えてくれる。婚姻したんだし、俺にそのためにデータ、澪がくれたんだよね?」
(⋯⋯くれてない。取り返しそびれただけだ)
「国が必要なのは、未来の子供だ。澪、残念だったね。澪が受精してたら保護されただろうに⋯⋯」
拘束は解かれていた。律に両手で頬を包まれていたから。
嫌でも、目を合わせられる。
「ねぇ、外に出てきた、ってことはお腹すいたんだよね?御飯食べる?君がお願いしてたコンビニ弁当、買い替えながらこの三日間届けてたんだよ?」
律は、三日前から俺の家を把握していた。
しかも、扉の前まで来ていたことにゾッとする。
「俺達は夫婦だよ?怖がらないで。もう夫婦なんだよ?」
そう微笑みながら、律が俺に唇を重ねてきた。
「可愛い澪。俺は君に一目惚れしたんだよ。苦労なんてさせないからさ、信用してよ。一緒に新居に行こう。国が用意してくれてる。ここ、もう退去命令が出てるだろ?早く引っ越さないと強制退去させられちゃうよ?」
ニッコリと笑う律。
「でも、その前に腹ごしらえだ。部屋に行ってて。弁当、外に置きっぱなしだった」
反転させられると、グイグイと背中を押される。
部屋の真ん中まで入れられるなり、パタンと、部屋と廊下を遮る扉が閉められた。
あんなに安心していた自宅が、ただの狭い密室空間になってしまった。
玄関の扉が開く音がする。
(そうだ、⋯⋯部屋に入れないようにしよう)
竦む足を叱咤して、扉に近づこうとした。
すりガラスの向こうに律の影が見える。
(早くしなければ)
だが、俺が扉の取っ手に手をかける寸前に、ガチャリ、と扉を開けられた。
「なに、してたの?」
咄嗟に手を引っ込めた俺は、視線を彷徨わせ、
「なにも⋯⋯してない」
と、かすれた声を出すので精一杯だった。
「そう、なら良いけど。座りなよ。弁当冷めちゃってるからさ、温めさせて」
律はそう言うと、まるで家主のように電子レンジを操作して弁当を温めなおす。
「はい、どうぞ」
出された弁当には、買ってきたお茶まで付けられていた。
勝手に食器棚から取ったグラスまで添えて。
時間稼ぎに当てずっぽうで言った食べ物。
律は、ちゃんとお願いしたコンビニで買っていた。
(離れたくて、帰りたくて、テキトーに言っただけなのに⋯⋯)
モソモソと食べる俺を、テーブルに肘をついて見ていた律から
「ねぇ、そのコンビニ飯、もしかして⋯⋯あまり、好きじゃない?」
ぐっ、と喉が詰まりそうになる。
変な飲み込み方をしてゴキュリと、痛いほど喉が鳴った。
「な、なんで⋯⋯」
「べつに〜⋯⋯あまり、美味しそうに食べてないからさ。俺は澪の好物が知れて嬉しかったのに」
そう、口を尖らせて律が言う。
別に好きじゃない、お前を遠ざけるためにテキトーに言っただけ⋯⋯、なんて言えるわけがない。
「そ、そう?⋯⋯前に食べてたのとは、味が変わった気がしてさ」
「⋯⋯なら良いけど」
全てを見透かしていそうな律の様子。
俺は、誤魔化すように勢いよく箸を動かした。
食べているところを見られる緊張で、味なんて全くしなかった。
食べ終わって一息ついた俺を見計らうように、律は言った。
「じゃあ、行こうか」
「⋯⋯え?」
「俺達の新居」
そう言うと、律はニッコリと笑って付け加えた。
「あ、でもその前に歯磨きだね」
歯磨きが終わるまで、律は洗面所の入口に塞がるようにして立っていた。
(どうしよう⋯⋯。絶対に信用なんてしてない。俺が逃げ出す、て分かってる)
新居の場所なんて知らない。
きっと行政からは報せが来てる。
怖くて、俺は、そんな報せには目を通してなかった。
「貴重品だけ持っておいで。引っ越しは多分、管理人が業者に頼むと思うから」
なんで⋯、という言葉を紡ぐ前に、
「マッチングしてペアになったら、引っ越し代金支援金が出るからさ、当然管理会社にも連絡がいってる。で、申込者は少し色つけて申請するんだ。行政も少しの御駄賃程度なら黙認。澪みたいな子もいるしさ。その方が事がスムーズだろ?要は管理会社が、澪の肩代わりをしてくれるって事だよ」
そう、俺の腕を引きながら、軽やかな口調で説明する。
「電車に乗るよ。少し離れる。子供を育てる環境が整ってるとこだからね」
カバン一つで腕を引かれ、電車に乗り込む。
隙をついて逃げ出したらどんなに良いか⋯⋯。
(駄目だ⋯⋯。俺のデータを律が持ってる限り、どこにいたって居場所を聞き出される)
今は大人しくついていく。
信用がない状態で動くのは得策ではない。
電車に揺られ、駅を通り過ぎていく。
緑が徐々に多くなってきた。
降り立った場所は、広めの駅だが閑散としていた。
「少し歩くよ。ほら、行こう」
辺りをきょろきょろと見ていた俺の手を取ると、歩き出す。
どこからか珍しく、子供たちの楽しそうな声が聞こえてくる。
「ここは、最近出来た子育てするための専用エリア。広めの公園もあって、学校、警察署、病院、保育園や幼稚園もある」
律が指を指しながら、俺に説明。
着いたところは低層のマンション。
「エントランスのそこにカメラがあるだろ?歩く癖や顔貌でAIが判断して開くようになってる。もう俺や澪の顔は認証済み。で、すぐに生活出来るよう家具家電は、備え付け。澪は何かこだわりある?俺は特に無いけど、住人の好みに作りに替えることも出来るんだって」
そう言いながら自動ドアが問題なく開いた。
「⋯⋯おれも⋯⋯とくにない」
「そ?」
エレベーターの中は広めだった。
距離を取りたかったが、繋いだ手がそれを邪魔する。
律は三階のボタンを押した。
エレベーターを出て手を引かれるまま、廊下を進む。
「着いたよ、ここが俺達の家だよ」
玄関ドアは引き戸だった。律が何気なく言う。
「ベビーカー設定だ」
ゾクリ、とする。ここにこの一歩を踏み入れたら、もう夫婦になるんだ、とそう俺に告げる、玄関と廊下の境界線。
なのに、律はそんな俺の心を待ってはくれない、緩く繋いだ手を引っ張られ中へと入れられた。
広めの玄関を抜け廊下を抜け、俺の冷え切った心とはよそに、部屋の内装は、温かみのある作りだった。
窓からの陽が柔らかく入るリビング。
理想的な家族風景を物語るような部屋の作りに、俺の心だけがついていけない。
(前世の記憶がなければ、なにも思わずに受け入れられてた⋯⋯)
立ち尽くす俺を律が後ろから抱きしめてきた。
「⋯⋯っ!?」
ギクリ、と固まる俺の身体。
「澪、今日からよろしくね」
きっと、律にとっては何気ないスキンシップ。
(でも、怖い。この優しさが⋯⋯。安心して、信頼を寄せた後に裏切るんじゃないのか⋯⋯?俺は一度裏切られた。お前とそっくりなアイツに)
十四歳の前世の俺が、心を許していなかった。
(苦しい⋯⋯なんで、俺、思い出しちゃったんだろう⋯⋯)
それでも、言わなくちゃいけないこの言葉を⋯⋯。
「よろ⋯⋯しく⋯⋯」
俺と律の新生活が始まった――――。




