三
その翌朝、ふたりは馬をならべて宜京の西門を出た。
沙州関までは十日ほどの行程である。日を追うごとに景色は単調に、そして潤いをなくしていった。不毛の荒野に人里はまばらで、三日前に小さな邑に立ち寄ったのを最後に、以後は野宿を強いられた。
想像よりはるかに辛い長旅に、春明の体は早々に悲鳴をあげた。軽々しく旅の供を引き受けたことを後悔しはじめた頃、ようやく目指す城市が姿を現したのだった。
「……着いた、やっと」
万感の思いをこめてつぶやいた春明に、子怜がからかうような視線をよこす。
「ぼくより若いくせに」
「なんとでもおっしゃってください。今夜こそ柔らかい寝床で眠れると思うと嬉しくて」
「柔らかいかどうかは知らないけど、少なくとも屋根はあるだろうね」
笑って応じたところで、子怜はふと表情をあらためた。その視線の先を追った春明も、目に飛びこんできた光景に眉をひそめる。
茜色に染まる空の下、西日を背に駆けてくる男の姿があった。一心不乱に走ってくる様子は、まるで誰かに追われているかのようで、遠目にもその必死さが伝わってくる。
なにごとかと思っているうちに、突然男はばたりと倒れた。そのまま起き上がる気配はない。
子怜は無言で馬の腹をけった。
「えっ……」
春明が止める間もなく、子怜の背中はみるみるうちに遠ざかる。
「待ってくださいよ!」
子怜ほど馬の扱いに長けていない春明がどうにか追いついたとき、子怜は倒れた男を抱き起こしているところだった。
「水」
短く命じられて水の革袋をさしだした春明は、男の顔をのぞきこんで思わず息をのんだ。
ひどく痩せた男だった。白麻の短衣からのぞく胸には痛々しいほどくっきりとあばらが浮いている。顔はまだ若いが、こけた頬と生気のない土気色の皮膚はまるで老人のようだった。
「死んで……」
「いや」
子怜は水の革袋を男の顔の上で逆さにして中身をぶちまけた。乱暴な方法だったが効果はあったようで、男はうめき声をあげてうすく目をあけた。
「う……」
濁った眼球が力なく左右に動く。たよりなくさまよった視線が子怜の顔に定まった瞬間、男ははじかれたように身を起こした。
「助けてくれ!」
絶叫して、子怜の腕にしがみつく。
「痛い」
子怜は顔をしかめて男の手をふりほどこうとしたが、男は子怜の腕をつかんではなさない。
「助けて……助けてくれ、たのむ……!」
血走った目を見開き、男はただひたすらに助けてくれとくりかえす。
「助け……っ!」
くぐもった悲鳴とともに男が地にころがった。業を煮やした子怜が男のつま先を踏みつけたのだ。
「だから痛いって」
ぼやきながら襟を直している子怜の足もとで、男はよろよろと身を起こし、頭をふった。
「てめえ……」
いまの衝撃で正気をとりもどしたらしい。男は子怜につかみかかろうとして、そこではたと動きを止めた。目の前に立っているのが世にも稀な美青年であることにようやく気づいたらしい。
「子怜さま、大丈夫ですか」
「平気」
子怜は男の前に──ただし今度はしがみつかれないよう距離をとって──しゃがみこんだ。
「きみ、その装からして斉軍の兵だろう。沙州関から来たのかい」
子怜が問いかけると、男はへなへなと座りこみ、地面に両手をついた。骨が飛びだした肩が小刻みに震えている。
「……助けてくれ……頼む」
「いいよ」
子怜はあっさりと承諾し、そのあまりの気安さに驚いたように男は顔をあげた。
「助けてあげる。だから話してごらん。なにがあった」
男は呆然と子怜の顔を見つめていたが、やがてがくりと首をおとした。
「……ころされる」
春明はぎょっとして子怜の顔をうかがったが、子怜は眉ひとつ動かさず男にかさねて問うた。
「殺されるって、誰に」
「……い、に」
聞こえない、と子怜が男に顔を近づけたときだった。遠くからかすかな馬蹄の響きが伝わってきた。
男はひっと喉をならし、腰を浮かせて逃げようとしたが、すかさず子怜に足を払われ、地面に顔を激突させた。
「春明、つかまえといて」
「あ、はい」
容赦ないなこのひと、と思いながら男の襟首をつみ、今度はなんだと西の方角へ眼をやった春明は、そこで男に負けず劣らず青くなった。
「……子怜さま、あれ」
西の地平に濛々と砂煙がたちこめている。砂を蹴立てこちらに向かってくるのは、武装した騎馬の一団だった。
「まさか盗賊じゃ……」
春明が助けを請うように見あげると、子怜は落ち着きはらった様子で「心配ない」と応じた。
「あれも沙州関の兵だ。おおかた、そこの彼を追ってきたんだろう」
「追ってきたって、じゃあ、このひと……」
「そう。脱走兵、だろう?」
最後の問いは春明がつかまえている男に向けられたものだったが、当の本人は春明に襟首をつかまれたまま震えているだけだった。
そうこうしているうちに、騎馬兵が子怜たちのもとへたどりついた。全部で五騎。そろいの軍装をまとい、甲冑こそ身につけていないが、全員腰に剣を佩いている。
首領格らしい兵が片手をあげると、それを合図に騎馬の一団は子怜たちをぐるりと取り囲んだ。
「おまえたちは何者だ」
輪の中央で馬を立てた兵が低い声で尋ねた。馬上にあってもそれとわかるほど、ずばぬけて背が高い若者だ。年は二十代半ばか、鑿で削ったような彫りの深い眉目は、目もとがきつすぎる点をのぞけば十分美男で通用するだろう。
だが、多くの者は、若者の顔立ちよりも、その身にまとう色彩のほうに目を奪われることだろう。黒髪黒眼の民が大多数を占めるこの地において、その若者はきわめて異質な、淡い茶色の頭髪と緑の眼の持ち主だった。
「おい」
応えがないことに焦れたように、若者が声を発する。硬玉のような瞳に射すくめられた春明の横で、子怜がゆったりと腕を組んだ。
「ひとにものを尋ねる態度じゃないね。まずはきみが名乗ったらどうだい」
小馬鹿にしたようなその口ぶりに、騎馬兵たちが気色ばむ。首領格の若者は無言で子怜を見おろしていたが、ややあって鞍からおりた。
「失礼した。おれは崔という。この先にある沙州関の者だ。あんたらがつかまえているその兵が許可なく城門を抜けたため、こうして追ってきた。わかったらそいつを引き渡してくれないか」
子怜の読みどおり、この男は脱走兵だったのだ。春明はほっと胸をなでおろした。ならば話は簡単だ。早いところこの男を引き渡して、ついでに沙州関の城門まで案内してもらえば──
「嫌だね」
さらりと子怜が答えた。春明はぎょっとして、崔と名のった若者は険しい顔で子怜を見る。
「……なんだと」
「渡せって言われて、はいそうですかってわけにはいかないよ。なにせ、ついさっき彼と約束したからね。助けてあげるって」
「おまえがそいつに何を約束しようと関係ない」
若者はその緑の眼をわずかに細めた。
「そいつは沙州関の兵で、おれはその上官だ。部下の処遇に関しての全権はおれにある」
「へえ?」
春明の位置からは子怜の顔は見えなかったが、おそらく笑ったのだろう。それもひどく若者の気に障る笑い方で。
「貴様……」
若者の両眼に怒気がゆらめき、右手が腰の剣の柄にのびる。
「子怜さま……!」
春明がたまらず子怜に駆けよろうとしたときだった。子怜は懐から一片の紙をとりだすと、若者に突きつけた。
「それはつまり、ぼくにあるってことか」
風にはためく一枚の紙は、官人の身分を示す証書だった。姓名、官職名などが記され、末尾に発行者の印が押してある。春明の目には書かれている文字までは見えず、かろうじて大判の朱印の文字を判別できるのみだったが──
「うそ……」
春明の唇からかすれた声がこぼれた。
──大斉皇帝。
吹きつける風のなか、ひときわ鮮やかな朱の文字が踊っている。その印璽が押された証書を持てるのは、ひとにぎりの高官だけのはず。
「沙州関の城主、王子怜だ」
若者は愕然とした面持ちで証書を、そして子怜の顔を凝視する。
「つまり、きみら全員の上官てこと」
子怜は端整な顔にくっきりとした笑みを浮かべた。
「わかったら城まで案内してもらおうかな。隊長さん」




