二
それから何がどうなったのか、気がつけば春明は小汚い飯屋兼酒場で青年と向き合っており、これまたなぜだか酒杯を手にしていた。
「まずは近づきのしるしに」
王子怜と名のった青年は、春明と自分の杯になみなみと酒を注ぎ、朝っぱらからなんだこいつら、という周囲の視線など気にもとめぬふうにひと息で杯を干した。
その気持ちのよい飲みっぷりにつられて春明も一杯、二杯と重ねるうちに、気がつけば子怜に問われるまま、自分の生い立ちから、なぜ州令府の門前に立っていたかまで、あらいざらい語っていた。
姓は萬、名は春明。年は十七。故郷は慶州の片田舎、湘県。幼い頃に両親と死に別れ、遠縁の伯父に育てられた。その伯父も三年前に亡くなり、それからはまた別の家に身を寄せている。
「三年前というと、先の乱のせいで?」
先の乱とは、前朝、梁の末期からおよそ三十年にわたってつづき、つい三年前に斉が天下を統一してようやく終結した戦乱のことである。
「まあ、そんなところです。いま世話になっている家も、縁あってわたしを引き取ってくれたのですが、もともと血のつながりもありませんので、いつまでも厄介になっているわけにもいかず……」
だからなんとか独り立ちを、と考えていたのだが、手にこれといった職もなく、ただ学者であった伯父に学問を教わっていたので、斉の世になって初の文挙を受験したものの、州試であえなくふり落とされたという次第である。
「その年齢で里試と県試に通るだけでもたいしたものじゃないか」
「運がよかっただけですよ」
謙遜ではなく春明はそう考えている。ひらかれたばかりの新王朝では、仕える官吏の数が圧倒的に不足しているはずだ。自然、試験の採点も甘くなろうというものである。
「それでも誇るべきことさ」
子怜はそう言ってくれたが、養家の夫婦はちがう感情を抱くはずだと、春明は苦い思いを酒とともに呑みくだした。
養家が春明の受験費用を捻出してくれたのは、べつに春明のためではない。春明がはれて斉の官吏となれば、自分たちもそのおこぼれにあずかることができる。そんな打算に裏打ちされてのことだ。その期待を裏切った春明を、養家夫婦があたたかく迎えてくれるとは思えなかった。
「それで、お話とは」
「ああそうだった。じつは、ぼくも斉に仕える官吏のはしくれでね。先月まで京師にいたんだけど、慶州に転任になってさ」
自分といくらも年が違わないように見える青年が官吏、しかも皇帝の居城がある京師勤めだったと聞いて、春明は仰天したが、すぐにさもありなんとうなずいた。
青年の、簡素ながらも上質な身なり。繊細な美貌と優雅な挙措。なにより、気さくでありながら、どこか他人に命令することに慣れた雰囲気。この青年はおそらく貴顕の出だ。
「転任とおっしゃいますと、ここの州令府に?」
「いや、慶州府の管轄ではあるけど、ぼくの任地はもっと西」
かたむけた酒盃から雫がこぼれ、子怜はそれを舌でなめとる。たったそれだけの仕草がぞっとするほど艶めかしく見えて、春明はあわてて己の杯の中身を干した。
「おや、けっこういける口だねえ」
子怜は空になった春明の杯にすかさず酒をつぎながら、唇の端をにっとつりあげた。
「沙州関て、知ってる?」
「沙州関?」
はじめて耳にするその名に首をかしげる春明に、子怜は簡単に説明してくれた。
沙州関とは、慶州の西のはずれにある城市だという。いまからおよそ三百年前、梁の初期までは西の異民族にたいする防衛拠点として、また、東西交易の要として栄えていたのだが、のちに梁が官兵をひきあげ、住む人もいなくなったその城は、いまやすっかり廃墟と化しているのだとか。
「そのぼろ城を」
遠慮なく子怜は言いはなつ。
「建てなおすことになってね。近隣から集めた兵を動員して、昨年の秋から再建工事がはじまっているんだ。ぼくはその監督役として派遣されたってわけ」
春明は目の前の青年が土木工事の先頭にたつ姿を想像しようとしたが、どうにもうまくいかなかった。
吏部の役人も気が利かないものだ。この典雅な青年には礼部で儀典を采配させるか、いっそ皇族の側仕えでもさせたほうがよほど似合いというものだろうに。
「それではるばる京師からいらしたのですか。失礼ですが、おひとりで?」
そうだと肯定されて、春明はほっと胸をなでおろした。
供もつれずにやってくるということは、そこまで身分の高い人でもないようだ。下位の貴族の子弟が、どうにか地方官吏の役職を得たといったところだろうか。
「まあ、宜京までは街道沿いに行けばよかったんだけど、宜京から西は道なき荒野だっていうじゃないか。さすがにここから先のひとり旅はきついからね。随従というか、荷物持ちがいてくれると助かるんだ」
そこで春明に目をつけたのだという。
「お話はわかりましたが、なぜわたしに? 供人ならば周旋屋に行けばいくらでも紹介してくれるでしょうに」
「もちろん行った。だけど、あいにく適当な人が見つからなくてね」
「だからといって、会ったばかりの者を雇うなど無用心にすぎるのではありませんか。荷を持ち逃げでもされたらどうします」
「するの?」
「しませんよ」
真顔で問われて春明は苦笑した。
「だったらいいじゃない。州試に受かった人なら、次の高試の準備で忙しいだろうけど、落ちたきみならその必要もないし」
「……」
「それにきみ、なんとなく帰りたくなさそうな顔をしてたし」
その言葉に、春明はつと胸を突かれた気がした。
ほのかに酔いがまわった春明の頭に、いくつもの顔が浮かんでは消えていく。
いまは亡き伯父の顔。州試の監督官の顔。そして、春明が里試に通っただけで早くも高官の身内になったかのようにそっくりかえり、近隣の失笑を買っていた養夫婦の顔。
「どうする」
かろやかな声に、春明は物思いからさめた。
「ぼくは、きみに来てほしいんだけどなあ」
少女のような朱唇が歌うように言葉をつむぐ。空をながれる雲のような、岸辺にそよぐ柳のような、そんな微笑を前にして、春明は胸の奥にこごっていたものがほどけていくような心持ちになった。
いまだけ、と春明は思った。いまだけ、少しだけなら許されるだろうか。束の間の自由を味わっても。できればこの青年のそばで。
「いいでしょう」
返事をするまで、さほど時はかからなかった。
「わたしでよければお供いたします。子怜さま」
「決まりだ」
子怜は華やかな笑みを浮かべ、酒杯をかかげる。それに応えて春明も杯を持ちあげた。頬が熱いのは酔いのせいだと自分に言い聞かせながら。




