追われる逃亡者、追いかける音
王都からの追手
王都カレヴァーン。その中心にそびえる騎士団本部では、緊張した空気が支配していた。
魔王軍の襲撃を退けた翌朝、重苦しい報告が城内を駆け巡っていた。
「――その者、《Doombringer》と呼ばれる魔具を操り、音によって敵を撃退。その威力は、結界を貫通する爆音であったと……」
報告書を読み上げた文官が声を潜める。
だが、騎士団長――ライゼルは、瞳の奥に一閃の怒りを宿したまま、口を開いた。
「ならば、その者の正体は……我が国に潜伏していた魔王軍の尖兵ということか」
「しかと、そう判断いたします。目撃証言によれば、魔王兵と同じ“黒革・鋲”の衣服、そして異形の金属魔具を操る様子……まさしく“狂奏者”の異名に相応しいかと」
団長ライゼルは静かに立ち上がる。
背後には整列する精鋭部隊。王国の騎士団の中でも、選ばれた追撃部隊だ。
「命じる――“異邦の狂奏者”を捕えよ。生死は問わん。音魔具《Doombringer》もろとも、封印対象とする」
◆ ◆ ◆
一方その頃。
王都の裏門から遠く離れた石畳の路地。ケンとアリアは、荷馬車を避けながらひた走っていた。
「くっ……しつけぇな、追手が速すぎる……!」
「裏道通ってるのに、なんでこんなに早いの……」
ケンはギターケースを背負い、アリアの手を引いて駆けていた。
王都を出たばかりだというのに、既に背後には“音探知の魔法”を搭載した追跡魔具が追いすがっている。
ギターが、ケンの存在をこの世界に刻んでしまった証拠だった。
「森を抜ける。あの丘まで行ければ、騎士団の結界の外に出られるはずだ」
アリアが息を切らしながら頷く。
王都の石造りの街並みが遠ざかるたびに、空気は静まり、周囲は原野と林道へと変わっていく。
ケンは、ギターの弦をほんの少しだけ弾いた。
爪弾いたのは、周囲の音を一時的に“打ち消す”簡易のノイズシールド――音で音を隠す、彼なりの技だった。
「音が、追ってくる。だったら……音で消すまでだ」
かすかなリフが空に溶ける。
この異世界では、彼の音すらもまた、“足跡”として記録されるものだった。
逃走の旅が、今、始まった。
――彼の音は追われ、そして追いかける。
世界がまだ知らぬ“共鳴”の始まりを告げながら。
山村の音職人
王都から二日の道のりを経て、ケンとアリアはとある山間の小村――ファルカ村に辿り着いた。
険しい峠と渓谷に囲まれ、王都の騎士団すら立ち寄らぬ辺境。
村の人々も素朴で、異邦人に対する敵意は少ない……が、それ以上に“興味”に満ちていた。
「ほう……その背中のは、“ギター”というのか」
村の広場にある古びた工房。
音叉のような形状の道具や、半壊れた弦楽器の部品が天井からぶら下がる中、老人が目を細めてケンを眺めていた。
名はヴェルト。
この村で“音職人”と呼ばれる、特殊な技術者だった。
「音具の調律だけでなく、音を“魔導構造”に変換する装置も少しは扱える。魔導ギア職人とは違うが……おぬしのそれは、異様に共鳴率が高いな」
ケンは少しだけギターをずらし、その重厚なボディをヴェルトに見せた。
「これは《Doombringer》。……俺の世界で作られた、音をぶっ放すための相棒だ」
「ふむ。“音をぶっ放す”……なるほど、実に直感的な表現じゃな」
ヴェルトは机の上に転がっていた小型の音結晶を手に取る。
指で軽く弾くと、そこから微細な振動が広がり、部屋の空気がわずかに震えた。
「音とは、魔力の“波長の伝達体”だ。もともと魔法とは、意志を振動として空間に伝える行為だからの」
「……それってつまり、“音=魔法”ってことか?」
「むしろ、“感情が宿る音”こそが、最も原初の魔法と言ってよい。だからこそ――」
ヴェルトはにやりと笑った。
「おぬしのような異邦人が、その異質な音具で“魔を砕いた”と聞いて、わしは興味が尽きなかったのだ」
◆ ◆ ◆
その日の夕暮れ、小さな実験が始まった。
人気のない村の外れ、枯れ井戸のそば。風が吹き抜ける草地にて。
ケンは《Doombringer》を構え、指をゆっくりと弦に這わせた。
「最初は、“怒り”を思い出せ。お前を捕えようとしたあの鎧ども……あの時の感情を音にのせろ」
ヴェルトの指示に従い、ケンは短く鋭いリフを刻む。
「ゴオオォン!!」
空間が歪んだ。
周囲の空気が爆ぜ、草地がぐしゃりと抉れる。
「うおっ……!」
アリアが一歩退いた。ケン自身も、衝撃波の反動で腕を痺れさせながら、口元を歪める。
「……マジで“怒り”が伝わったってか……」
「次は逆だ。“優しさ”、あるいは――“癒し”のイメージを思い浮かべろ」
「……無理だろ、そんなふわふわしたの」
「無理ではない。“優しい音”とは、傷ついたものを慰める音じゃ」
ケンは目を閉じた。
脳裏に浮かんだのは、牢の中で初めてギターを差し出してくれた少女の姿。
ひとり震えるアリアが、「どうか、弾いて」と囁いた声。
弦に、指を置く。
「……ン、ーン、ン……」
波紋のような、静かなアルペジオが広がる。
風がやわらぎ、空気が温もりを帯びる。
「……あ……傷が……」
アリアの腕の擦り傷が、ふっと柔らかく光り、かさぶたのように閉じていった。
「治癒波……か、これは、すごいぞ」
ヴェルトが感嘆の声を上げる。
「まさか、怒りと優しさで“音の性質”がここまで変わるとはな……この《Doombringer》、ただの武器ではない。完全な“共鳴装置”だ。感情を魔力に翻訳し、音へと出力する――」
ケンはギターを抱えながら、ぽつりと呟いた。
「つまり、こいつは――俺の“心の声”を鳴らすヤツってわけか」
誰にも理解されなかった音。
拒絶された衝動。
それらを、肯定してくれる存在が、ここにあった。
ケンは空を仰ぎ、低く笑った。
「いいね……なら、もっと鳴らしてやろうじゃねぇか。俺の音を、この世界に――」
◆ ◆ ◆
アリアのひと言
夜。
静けさに包まれた山村の外れ。
人の気配が途絶えた廃れたあずまやに、ひとりの青年が腰を下ろしていた。
ケンは膝の上に《Doombringer》を乗せ、指先だけで弦を撫でていた。
その音は、白昼のように鋭く響くものではない。
まるで誰かを宥めるように、あるいは、自分自身を落ち着かせるように――
柔らかく、どこか切ない音色。
「……ン……ン、チャ……チャ……」
焚き火のように小さく、優しく、揺れる音。
音が空気に溶け、夜の静寂を満たしていく。
(……怒りや苛立ちだけじゃねぇ。こいつは、ちゃんと……俺の“いま”を、鳴らしてくれるんだ)
ふと、小さな気配に気づいた。
「……見てたのか」
振り返ると、あずまやの柱の影から、アリアがそっと顔を出していた。
彼女は火の明かりの中で、少しだけ微笑む。
「……ごめん、起こしちゃった?」
「いや。眠れなかっただけだ」
「私も……なんだか、音が聴こえてきて。……あったかい音だったから」
ケンは眉をひそめ、ギターを軽く撫でる。
「あったかい、ねぇ……そんな風に弾いたつもりはなかったけど」
アリアはケンの隣にそっと腰を下ろし、火を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「ケンの音、優しいんだね」
その一言に、ケンの手が止まった。
静寂。
風も、音も、言葉さえ止まったような一瞬。
「……優しい、って俺がか?」
ケンは目を丸くしたあと、肩をすくめて、小さく笑った。
「へへ……そいつは初めて言われたな。……悪くねぇ」
彼の口元に浮かんだ笑みは、いつもの皮肉混じりでも、照れ隠しでもない。
どこか、安心したような、やわらかな笑みだった。
ギターから、ぽろん、と自然に音がこぼれる。
それはまるで、ケンの胸の中にある“何か”が、音に姿を変えたような響きだった。
彼はそっと目を閉じ、低く囁く。
「……ほんとに、おかしな世界だ。こんな音が……誰かに届くなんて、な」
◆ ◆ ◆
その夜の音は、誰の記録にも残らない。
けれど、少女の心に深く刻まれた。
“音は、感情を伝える”。
そして今、確かに――この男の音は、変わり始めていた。
襲撃と音の共鳴実験
――夜明け前。
霧のような冷気が村を覆い、空には不穏な気配が立ち込めていた。
ケンは音で感じ取った。
重い足取り、規律正しく揃った金属音。
それは――追っ手だ。王国騎士団の小隊が、ついにこの村を嗅ぎつけた。
「あいつら、音を辿ってきやがったな……」
ケンはすでに《Doombringer》を背負っていた。
村に避難勧告を出した音職人の家から外へ出て、すぐにギターを構える。
「また“戦う”の?」
後ろから声をかけてきたのはアリアだった。
「実験だよ。音の……“幅”を、ちょっと試してみたくなってな」
騎士団の影が霧の中に浮かぶ。
彼らは隊列を組み、槍を構えて村に迫る。
「異端の者よ!魔族の使い手よ!武器を捨て、投降しろ!」
ケンは、黙ってギターを鳴らした。
「ゴォン……ッ……ギギ……ギャアア……」
不協和とグルーヴの入り混じった、異様な音。
だがそれは、あえて制御された“試奏”。
ケンはその場に踏みとどまり、音の余韻を観察していた。
(……まだ、何かが足りねぇ)
その時――
「だったら……私も、“音”になってみる」
アリアが、ギターにそっと触れた。
ケンの腕のすぐ隣、彼女の細い指が弦のすぐ近くに添えられる。
「おい、下がってろ――!」
「大丈夫。私は信じてる。ケンの音を。だから……一緒に、奏でさせて」
触れた瞬間――ギターが震えた。
ヴォォォン……!!
音が、共鳴する。
まるで心臓がもう一つできたかのように、波長が重なる。
ケンの指が弾いた音に、アリアの“想い”が重なった瞬間だった。
音の波が、まるで生き物のように空気を這い、村を包んだ。
その音は、盾となって騎士たちの前に立ちふさがる。
「ぐっ……なんだ、この圧……!?」
「耳が、鼓膜が割れる……っ!」
その音は、怒りではない。
破壊でも、攻撃でもない。
“守り”の波動だった。
村人たちは恐怖と驚きの中で、その“音の壁”の向こうからケンの姿を見つめた。
その腕にあるのは、剣ではない。
だが彼は確かに、村を“守った”。
音が、散っていく。霧も静かに晴れていく。
騎士団は戦意を失い、撤退。
静寂の中、誰かが呟いた。
「……守ってくれたのか、あの異邦人が……」
「音で……あんなことが……」
一部の村人たちはまだ恐れていた。
だが、別の何人かはその背中に敬意を向けはじめていた。
“異端”という言葉が、少しずつ“守護”という意味に近づいていく。
◆ ◆ ◆
ケンはギターを背負い直し、アリアの方を見た。
「お前が触れた時……音が変わった」
アリアは、微笑んでうなずいた。
「だって……私、ケンの音を信じてたから」
ケンは目を伏せて、言葉少なに呟いた。
「……ああ。たぶん、そういうことなんだろうな」
“共鳴者”――
信頼と感情を共有する者が傍にいるとき、音は、力を超える。
それはまだ始まりに過ぎなかった。
音は、ただの“力”ではなかった。
怒りも、悲しみも、優しささえも――
すべてをその弦に乗せて、空へと響いてゆく。
誰かを傷つけるためではなく、
誰かを守るために。
その音は、確かに変わり始めていた。
ギターはもう、咆哮のための道具じゃない。
それは、祈りを宿す“声”になった。
そしてその旋律は、
まだ知らぬ世界のどこかで、
静かに、確かに――届き始めている。
音は、つながる。
心を、世界を、運命さえも。
ケンの旅は続く。
音を鳴らすたびに、彼は“何か”に近づいている。
その先にあるものは、まだ誰も知らない。