アリアと囁きの音
音を求める少女・アリア
王都セランの南端、瓦礫混じりの石畳を抜けた先に、雨水が染み込んだ古びた木造の家が並ぶ一角がある。
そのどれもが傾き、壁はひび割れ、夜になればネズミよりも影が多く這いずる――そう呼ばれて久しい、貧民街。
そこに、少女アリアは暮らしていた。
「……行ってきます、母さん」
小さくつぶやいて、彼女は薄布のカーテンをそっと引いた。
部屋の奥、やせ細った女性がベッドに横たわっている。目を閉じ、呼吸はあるが、反応はない。
それでもアリアは毎朝、言葉をかける。
返事がなくても、音が届かなくても、やめるわけにはいかない。
**“母が歌ってくれた日々”**を、忘れないために。
少女は今日も、王都城の掃除員として働くため、街の坂道を登っていく。
履きつぶされた革靴、ほつれた服。だがその瞳には、くすぶるような光があった。
――母の声を、もう一度聞きたい。
その一心で、アリアは音にまつわる知識をかき集めてきた。
市場の古書屋で拾った破れた魔術書。詩人が語った音の精霊の話。
失われた魔法――**音魔法**の存在もまた、彼女の心に強く刻まれていた。
「音は、人の心と魂に通じる魔法。
記憶を、気持ちを、命さえも動かすって……本当にあるのなら、母さんの呪いも……」
王宮の厨房から地下へ通じる階段を降りていく途中、彼女はふと、耳をそばだてた。
「ねえ聞いた? 地下牢の最下層に、“異邦人”が来てるらしいよ」
「武器でも魔法でもない、“音”で反応したって……魔道具騒ぎになったとか」
「まさか、本物の“外界人”……?」
給仕係たちの噂話。アリアは耳を澄ましながら、息を止めた。
“音で反応した”という言葉に、心臓が跳ねる。
――音、だって?
誰も行かない地下牢の奥深く。
そこに“音を持ち込んだ”異邦人が捕らわれている。
もしかしたら、母を救う手がかりになるかもしれない。
そう思ったとき、彼女の足は、自然とその方向へ向かっていた。
好奇心と、かすかな希望。
それだけを胸に、アリアは重い石階段を下っていく。
闇と湿気と、封じられた音の底へ――
囚人のつぶやき
地下牢――それは、王都の底、魔力も光も届かぬ場所。
一歩ごとに足元がぬかるみ、天井からは染み出した水がぽたぽたと落ちる。
空気は重く、どこか湿った音が満ちていた。
アリアは古びた桶とほうきを手に、無言で階段を下りていく。
慣れたはずの場所なのに、今日はなぜか息が詰まる。
(異邦人……音で反応したっていうの、まさか本当なの?)
最下層、最も奥まった独房。その前に立ったときだった。
「……弾かせろ……俺に……音を……」
がらん、と桶の中の布が揺れた。
それが“声”だと気づくまで、一瞬、呼吸が止まっていた。
中の男――ボロ布のような服を着た異様な風貌の囚人が、独房の隅にうずくまっていた。
顔は髪に隠れ、表情は見えない。だが、その声音だけは、空気を震わせていた。
「音を……返せ……音が、ねぇ……」
アリアは知らず、独房の鉄格子に手をかけていた。
なぜだか胸が苦しかった。まるで、自分の奥底と繋がっているような響きだった。
(この人……音を、渇望してる……)
ガチャ、と扉が開き、監視兵が現れると、アリアは慌てて背筋を伸ばした。
「清掃、早く終わらせろよ。あまり近づくな。あいつ、何をしでかすか分からん」
「は、はい……」
アリアは素早く清掃を済ませ、廊下に戻った。
だが、その“声”が、耳から離れなかった。
――弾かせろ。
――俺に音を。
その夜。
誰もいなくなった城内の物置。
アリアは魔具保管庫の棚の奥で、ひときわ異彩を放つ“何か”を見つけていた。
金属と黒い木の混合物。
片側に張られた複数の弦。
獣の背骨のような形をした、不気味な魔道器。
「……これが、“音を出す魔具”? この人の……?」
触れた指先に、わずかな“振動”が伝わった。
どこか冷たく、けれど心の奥をくすぐるような――音の予兆。
アリアの目が、ゆっくりと細くなる。
「一度だけ……。確かめたいだけ……」
音が呪いをも解くなら。
この奇妙な道具が、あの“叫び”の答えなら。
彼が母のための鍵になるのなら――
アリアは静かにそれを持ち上げ、夜の闇に紛れて独房へ向かった。
ギター《Doombringer》――
その封印が、今、密かに破られようとしていた。
《Doombringer》帰還
重い鉄の扉がきぃ、とわずかに軋んだ。
地下牢の最奥、光ひとつ届かぬ独房に――少女が忍び込んでいた。
手にしているのは、黒と銀に輝く異形の“魔具”。
――ケンのギター、《Doombringer》。
アリアの手が震えていた。
けれど、胸の内の“何か”が彼女を突き動かす。
「……返すよ。あなたの……音」
その声は、独房の闇の中に、静かに落ちた。
と、次の瞬間。
ガシッ。
影が動いた。
牢の隅に蹲っていたケンが、獣のような動きでギターを奪い取る。
そして、ゆっくりと、ゆっくりと顔を上げた。
「……戻ってきたか、俺の魂……」
アリアは息を飲む。
男の瞳は、炎のように赤く燃えていた。
ボロ布のようだったその体が、まるで異なる“何か”に変わったように見えた。
ケンは何も言わず、ギターを構える。
自然と、指がポジションに乗る。
……そして。
――グォォォン……!!
轟音が地下牢に響き渡った。
単音のリフ。それだけなのに、音が空気を裂き、振動が壁を叩きつける。
アリア「……う、嘘……音が……壁を……っ!?」
ケンの髪が爆風に舞い上がる。
その姿は、まるで異世界の“死神”だった。
グガァァァアアアンッ!!
二発目のリフが、牢の結界を粉砕する。
封魔陣が一瞬で焼き切れ、天井が軋み、石壁が崩れ――
――ドォオオンッ!!!
凄まじい爆音とともに、独房の壁が吹き飛んだ。
鉄格子が空中を舞い、埃と破片が雨のように降り注ぐ。
警報が鳴り響き、兵士たちの怒号が遠くで響く。
だがケンは、ただギターを見つめながら、低く呟いた。
「……いい音だ、地獄よりずっと……」
アリアは、ただ呆然と立ち尽くす。
音が、魔法になった。
怒りと魂が、力に変わった。
それは彼女の知る魔法とは、あまりにも“違いすぎる”力だった。
ケンは振り返り、アリアに手を差し出す。
「行くぞ、小娘。外に出よう。――俺の音が、まだ鳴ってるうちに」
アリアの胸に、何かが“響いた”。
こうして、少女と囚人は、崩れゆく牢獄を後にした。
爆音と共に始まる――“音の反逆”が、今ここに。
脱獄、そして追跡開始
王都地下牢の奥深く。崩壊した壁の向こう、熱を帯びた石くれの中を、二つの影が駆ける。
一つは囚人。
黒衣を纏い、背に異形のギター――《Doombringer》を抱く異邦の男、ケン。
もう一つは少女。
小柄な体に粗末な布服、瞳だけは真っ直ぐに光をたたえた、アリア。
「そっちだ、こっちの通路は塞がれてる!」
アリアが先導するように石の通路を曲がり、昇降梯子を駆け下りる。
ケンは黙ってついていきながら、背後の気配に耳を澄ませた。
足音。複数。近い。
そして、何より――
「……音を、感じてやがる」
ケンの声は低く唸った。
追手はただの兵士ではない。音に反応する、魔法陣を組み込んだ“音探知具”を装備している。
この世界では、音が“力”であると同時に、“位置情報”でもある。
――音を鳴らせば鳴らすほど、敵に見つかる。
リフ一発が、敵百人を引き寄せることすらある。
だが、それでも――
「来るなら、吹き飛ばしてやる」
ケンは立ち止まり、ギターを構える。
ガギャアアアアアン!!
爆音が通路を砕き、後方の足音が悲鳴と共に消えた。
天井が崩れかけ、アリアが振り返る。
「ま、待って! これ以上音を出したら……!」
「知ってる。だが、黙って殺される気もねぇ」
ギターの弦を撫でながら、ケンが言った。
「……けど、お前の言う通りだ。音は、響く。届くべき場所に」
しばらくして、二人は廃墟と化した古教会の地下を抜け、外壁の影へと辿り着く。
夜風が吹き抜ける。
アリアは息を整えながら、ぽつりと呟いた。
「……あなたの音、母に届くかもしれないと思った」
「……あ?」
「母は、音を失ったの。だけど、あの音なら、きっと――何かを揺さぶれる」
アリアの目が、まっすぐケンを見ていた。
ケンは言葉もなく立ち尽くし、空を見上げた。
二つの月が、空に浮かんでいた。
「……音で戦える。音が届く。なら、俺は――」
ギターを強く抱え、ケンは呟く。
「まだ“生きてる”。音が、俺を生かしてる」
その瞬間、彼の背後でギターが微かに唸った。
まるで、その言葉に応えるように。
そして、二人は夜の王都をあとにした。
追手を振り切り、“音の旅”が、始まった。
――そして、音が世界を撃ち抜いた。
彼が鳴らしたのは、たった一つのリフ。
それは叫びだった。怒りだった。孤独だった。
そして、何より――生の証だった。
その音は、長く閉ざされていた牢を破り、
一人の少女の心を貫き、
そして、この世界の“常識”すらも揺るがせた。
音が、力になる。
音が、現実を変える。
それは、誰も知らなかった法則。
誰も成し得なかった戦い方。
この世界において――
彼のギターは、もはや“魔具”ではなかった。
それは、未知の武器。
世界がまだ名を与えていない、たった一つの音の刃。
ここに生まれ落ちたのは、
“戦士”ではない。
“魔術師”でも、“英雄”でもない。
音の戦士――
彼の名は、ケン。
《Doombringer》を携えし、異世界の“異音”。
その誕生を、まだ誰も知らない。