夏の夜空に浮かぶ花
夏の夜空に、色とりどりの花火が次々と打ち上がる。提灯の灯りが揺らめき、屋台からは楽しげな声や笑い声がこだまする。香月屋の祭りの賑わいの中、柑乃は少し疲れた心を休めるために、賑やかな人混みから離れ、川辺の小道へと足を運んだ。
彼女の胸の奥には複雑な思いが渦巻いていた。遠山壮馬は誠実で、将来の展望もはっきりとしている。香月屋の未来を託せる存在であることは間違いなかった。だが、その「完璧さ」が、逆に柑乃の心を縛っていた。
(この人と、本当に心を通わせられるのだろうか……)
そんな思いに沈んでいた時、不意に後ろから静かな声が響いた。
「……柑乃さん?」
振り向くと、そこに立っていたのは斎藤篤志だった。
「斎藤先生……どうしてここに?」
篤志は苦笑しながら答えた。
「人混みが苦手でな。……君も、同じか?」
柑乃は小さく頷き、二人は自然に並んで歩き出した。遠くで上がる花火の音が夜空に響き渡る。やがて二人は立ち止まり、見上げる。
「花火の香りって、不思議ですね。一瞬で消えてしまうのに、記憶には強く残る」
柑乃がぽつりと呟く。
篤志は静かに頷いた。
「……ああ。燃えた火薬の匂いも、煙の匂いも、すべて。」
「黄柏の香りも、そうなんです。炙ると香りが立つでしょう?あの香りを嗅ぐと、なぜか故郷の夏の夕暮れを思い出すんです。子どもたちがはしゃいで、遠くから夕食の支度の匂いが漂ってきて……」
柑乃はそっと胸に手を当て、続けた。
「私にとって、薬は、そのときの記憶や心の温もりと繋がっているものなんです。だから、薬に香りを込めることは、大切なことだと思っています。」
花火の明かりが二人の顔を交互に照らした。篤志はじっと柑乃の言葉を聞き、その表情にはいつもの険しさが消え、どこか安らぎが宿っているようだった。
「……あなたの言う通りだ」
ぽつりと篤志が口を開く。
「え?」
「薬は、心に届けるものだ。私は、それを頭では理解していたが、心ではわかっていなかった。」
彼は柑乃を真っ直ぐに見つめる。
「あなたの言う『香り』は、理屈では説明できない、人の心そのものだった。私は、患者の心を『数値』や『理論』だけで測ろうとしていたのかもしれない。」
驚いた柑乃は、やわらかな笑みを返す。
「……篤志先生も、そうやって変わっていけるのですね。」
「変わったのではない。……気づかされたんだ。」
少し照れたように篤志は視線を逸らす。
その時、夜風に乗って遠くから祭りの太鼓の音がかすかに聞こえてきた。
柑乃はそっと手を伸ばし、篤志の羽織に触れる。
「黄柏の香りが、残っていますね。」
「ああ。君がくれた薬包の、残り香だ。」
二人の間に流れる時間はゆっくりと、しかし確実に変わっていく。互いの心がわずかにほどけ、静かに寄り添い始めていた。