表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/41

夏の夜空に浮かぶ花

夏の夜空に、色とりどりの花火が次々と打ち上がる。提灯の灯りが揺らめき、屋台からは楽しげな声や笑い声がこだまする。香月屋の祭りの賑わいの中、柑乃は少し疲れた心を休めるために、賑やかな人混みから離れ、川辺の小道へと足を運んだ。


彼女の胸の奥には複雑な思いが渦巻いていた。遠山壮馬は誠実で、将来の展望もはっきりとしている。香月屋の未来を託せる存在であることは間違いなかった。だが、その「完璧さ」が、逆に柑乃の心を縛っていた。


(この人と、本当に心を通わせられるのだろうか……)


そんな思いに沈んでいた時、不意に後ろから静かな声が響いた。


「……柑乃さん?」


振り向くと、そこに立っていたのは斎藤篤志だった。


「斎藤先生……どうしてここに?」


篤志は苦笑しながら答えた。


「人混みが苦手でな。……君も、同じか?」


柑乃は小さく頷き、二人は自然に並んで歩き出した。遠くで上がる花火の音が夜空に響き渡る。やがて二人は立ち止まり、見上げる。


「花火の香りって、不思議ですね。一瞬で消えてしまうのに、記憶には強く残る」


柑乃がぽつりと呟く。


篤志は静かに頷いた。


「……ああ。燃えた火薬の匂いも、煙の匂いも、すべて。」


「黄柏の香りも、そうなんです。炙ると香りが立つでしょう?あの香りを嗅ぐと、なぜか故郷の夏の夕暮れを思い出すんです。子どもたちがはしゃいで、遠くから夕食の支度の匂いが漂ってきて……」


柑乃はそっと胸に手を当て、続けた。


「私にとって、薬は、そのときの記憶や心の温もりと繋がっているものなんです。だから、薬に香りを込めることは、大切なことだと思っています。」


花火の明かりが二人の顔を交互に照らした。篤志はじっと柑乃の言葉を聞き、その表情にはいつもの険しさが消え、どこか安らぎが宿っているようだった。


「……あなたの言う通りだ」


ぽつりと篤志が口を開く。


「え?」


「薬は、心に届けるものだ。私は、それを頭では理解していたが、心ではわかっていなかった。」


彼は柑乃を真っ直ぐに見つめる。


「あなたの言う『香り』は、理屈では説明できない、人の心そのものだった。私は、患者の心を『数値』や『理論』だけで測ろうとしていたのかもしれない。」


驚いた柑乃は、やわらかな笑みを返す。


「……篤志先生も、そうやって変わっていけるのですね。」


「変わったのではない。……気づかされたんだ。」


少し照れたように篤志は視線を逸らす。


その時、夜風に乗って遠くから祭りの太鼓の音がかすかに聞こえてきた。


柑乃はそっと手を伸ばし、篤志の羽織に触れる。


「黄柏の香りが、残っていますね。」


「ああ。君がくれた薬包の、残り香だ。」


二人の間に流れる時間はゆっくりと、しかし確実に変わっていく。互いの心がわずかにほどけ、静かに寄り添い始めていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ