苦味の理屈
朝の斎藤診療所は、いつも通りの静けさに包まれていた。窓から差し込む柔らかな光の中、患者たちのざわめきや薬の香りがほんのり漂う。しかし、篤志の胸の内は波立っていた。どこか落ち着かず、心がざわついているのを自分でも感じていた。
「……集中できないな」
小さく呟きながらも、彼の手は正確に薬包を包んでいく。数字や処方は冷静に処理できているのだが、その先にいる患者の表情や声色を感じ取ることが難しくなっていた。まだ自覚していなかったが、心が揺れているのは確かだった。
診療の合間、幼馴染の早苗がふらりと顔を出した。潤いを帯びた瞳で篤志の顔色を気遣い、優しく声をかける。
「篤志、最近顔色がよくないわね。無理してない?」
篤志は肩をすくめて素っ気なく返した。
「大したことない。忙しいだけだ。」
だが早苗は真剣な表情で続けた。
「感情を押し込めすぎると、心が疲れ果てるよ。自分を大事にして。」
篤志は一瞬目を伏せ、強がり混じりに答えた。
「医者は理性で動くものだ。感情を見せている暇はない。」
その言葉に早苗は少し寂しそうに微笑み、静かに去っていった。
夕方、診療所の隅で薬包を包んでいた篤志に、兄の和貴が声をかける。
「篤志、今日の診療はどうだ?」
篤志は手を止め、ぼそりと答えた。
「最近、気が散って仕方ない。」
和貴は鋭く見つめる。
「患者の表情も言葉も、ちゃんと見えていないのでは?」
篤志は苦笑いを浮かべながら言葉を続ける。
「理屈は間違ってない。丸薬は便利で効果も早い。だけど……」
和貴は穏やかに頷いた。
「あの患者には、丸薬より煎じ薬の方が合うかもしれない。時間をかけて飲むことで、気持ちも落ち着く。」
その言葉で、篤志はふと思い出す。香月屋の柑乃が言った言葉。
『薬は、飲む人の心に届けるもの』
合理主義の自分にとっては、感覚的すぎると思っていた言葉が、今は胸に重くのしかかっていた。
「いつの間にか、また理屈に囚われていたのかもしれない」
和貴は優しく問いかけた。
「おまえの心が乱れているのは、遠山壮馬のことか?」
篤志は言葉を詰まらせて俯く。
「正直、どう扱えばいいのか分からない。仕事と感情の境目が曖昧で苛立つ。でも、あの娘のことを考えると、無視できない何かが胸の奥にある。」
和貴は静かに言った。
「感情を隠すのは男の美学だと思っていたが、違う。おまえの揺れる気持ちは弱さじゃない。むしろ人間らしさだ。」
篤志はその言葉に少し救われる思いがした。
その夜、一人書斎で薬草の香りを嗅ぎながら、篤志は繰り返した。
(理論だけでは説明できないものが、確かにある)
(柑乃の優しさと香りの記憶が、俺を揺さぶっている)
しかしその揺らぎはまだ整理できず、焦りと共に胸を締めつけていた。