見えないもの
斎藤家の診療所には、朝日が静かに差し込んでいた。
畳の上には帳面が並び、薬包を包む紙の音と、兄の義道の穏やかな声だけが響いている。
「この人には、煎じ薬の方が良いな。丸薬だと、きっと途中でやめてしまう」
「なぜ、ですか?」
篤志が尋ねると、兄はにこりと笑って言った。
「口の中が乾いてる。何を話してもすぐ咳き込む。それに……こういう人は、人の話をちゃんと聞く代わりに、自分が話すのを控える。煎じ薬なら、時間をかけて飲む分、気持ちが落ち着くこともある」
篤志は眉をひそめた。
「……推測が過ぎませんか。理論的にはこの処方は丸薬ですよ。」
「理論だけで治るなら、それは楽だろう。でも実際は違う。……患者が“飲もう”と思える薬じゃなきゃ、意味がない」
その言葉に、昨日の香月屋でのやりとりが脳裏をよぎる。
——“香りの変化は、黄柏の扱い次第なんです”
——“香りで思い出すことだってあるかもしれない”
(……また、そんな感覚的な話か)
彼は軽く咳払いをし、話題を変えるように父の書斎を見やった。
「……父上は?」
「裏庭。盆栽を見に行った」
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縁側に出ると、父・文蔵が静かに鉢を眺めていた。若い頃の厳しい面影はそのままに、今はどこか柔らかな眼差しを湛えている。
「……薬の“香り”について、考えるようになったのはいつからですか?」
父は篤志の問いに、ゆっくりと顔を向けた。
「ずいぶん、素直に聞くようになったな。誰かに言われたか?」
「……患者の一人に。正確には、薬問屋の娘に」
「香月屋か。昔、あそことはよくやり合った。理屈ばかり言って、宗助どのに煙たがられたものだ」
父はかすかに笑った。
「だがな、ある日、熱の下がらぬ子を診た。どの薬も受けつけなかったが、香月屋の調合を試したら、その子はふっと笑って飲んだ。
……それが、ただの偶然かもしれん。だが、その薬は苦くなかった。香りが、どこか懐かしいようで、気持ちを緩めたのかもしれん」
「薬に、そんな力が?」
「理論だけでは説明がつかんこともある。それでも、説明しようと努めるのが、医師の仕事だ」
篤志は黙ったまま、盆栽の枝に視線を落とした。
蘭学——そこには明快な論理がある。理屈で組み上がる知の体系。それに魅かれてきた。
けれど、柑乃の言葉は、どこか心の奥に居座っている。
「……よい医師とは、何ですか」
文蔵は黙って、手入れの終わった枝に添え木を当てながら、ぽつりと答えた。
「正しく診て、確かに治し、そして忘れられぬ“安心”を残せる者、かもしれんな」
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その日の夕方、篤志はひとり書斎にこもっていた。
蘭書の頁を繰りながら、頭の片隅には、どうしても残っている言葉があった。
——“薬は、人の心が受け取るもの”
(……理論だけじゃ、説明できないことがあるというのか)
そんな考えは、ずっと否定してきたはずだった。
けれど、香月柑乃という名の娘は、それを一瞬で揺るがせる何かを持っていた。
(気になるのは、薬の話だけか……?)
否と即答できない自分がいた。
篤志は小さく息を吐き、机上に置かれた香月屋の薬包を見つめた。
そこからわずかに香る、炙った黄柏の香り。
それが、理屈では捉えきれぬ、奇妙な余韻を残していた。