薬への思い
夏の終わりを告げるはずの涼しい風はなく、町は何日も続いた豪雨の中に閉ざされていた。
屋根を叩く激しい雨音は、昼も夜も途切れることなく響き、地面はぬかるみ、川は濁流となって音を立てて流れていた。
やがて、数日ぶりに雲間から薄い陽光が差し込んだ朝。
香月屋に、重く冷たい知らせが飛び込んできた。
「……山間部の村が、土砂崩れで……壊滅的な被害を受けたそうです」
使いの者が告げた言葉に、柑乃と宗助は息を呑んだ。
その村は、香月屋が長年仕入れをしてきた、主要な薬草の産地だった。
「そんな……」
柑乃は思わず声を漏らした。
宗助の顔も、深刻な色に染まる。
薬草の備蓄はすでに心もとない。
このままでは、冬の間に必要な薬が作れなくなる――。
柑乃の胸に、焦りと不安がせり上がってきた。
「お爺様。私が行って、村の様子を確かめてきます」
決意のこもった声に、宗助はしばし言葉を失った。
無茶だとわかっていても、その瞳の奥に宿る強い光を消すことはできない。
「……気をつけてな、柑乃」
宗助は、静かにそう告げることしかできなかった。
その夜。
柑乃は、囲炉裏の明かりが揺れる座敷で、篤志に出立のことを伝えた。
「先生。私、明日、山間部へ行ってきます」
「……柑乃さん。道はまだ荒れているだろう。危険すぎる」
篤志の声には、強い反対と心配が混じっていた。
だが柑乃は、篤志の手をそっと握りしめ、真っ直ぐに見つめた。
「先生。私は薬師です。この町の人たちの健康を守るために、薬草の流れを絶やすわけにはいきません」
篤志は、その眼差しから目を逸らせなかった。
(……これが、私が愛した彼女の生き方なのだ)
危うさと同時に、揺るぎない芯の強さがそこにあった。
「……わかった」
長い沈黙の末に、篤志は低く言った。
「だが、決して無理はしないでくれ。そして必ず、私のもとに帰ってきてくれ」
「はい。必ず」
柑乃は、力強く頷いた。
雨上がりの夜空には、まだ遠くで雷鳴が響いていた。
それでも二人は、互いの手の温もりに確かな絆を感じていた。
翌朝、柑乃は篤志の不安を湛えた眼差しを胸に刻み、濡れた道を踏みしめながら、村へと向かって歩き出した。
背後からは、まだかすかに、遠い雨音がついてきていた。




