祖父と薬の記憶
静かな朝。
店の外ではまだ人通りもまばらで、香月屋の調合場には、淡い陽射しが差し込んでいた。
柑乃は、黄柏の皮をじっくりと煎りながら、火加減に気を配っていた。
ほのかに上がる煙に、昨日の記憶が、苦味のように漂っていた。
——香りや色は関係ない。
あの斎藤篤志の言葉。まっすぐで、冷たくて、そして、どこか苦しそうだった。
「……何か考え事か?」
不意に背後から声がして、柑乃ははっとした。
いつの間にか、祖父の宗助が立っていた。白髪まじりの髷を結い、腰に手を当てて、じっと薬鍋をのぞき込んでいる。
「いい香りじゃ。黄柏を焦がさずに、よう香りを引き出しておる。」
「うん……でも、昨日のお医者さまに、“香りや色は関係ない”って言われて。」
宗助は眉をひそめることもなく、静かに頷いた。
「昔の斎藤先生に似とるな。あの父親の方じゃ。薬を“飲ませること”しか気にしとらんかった。」
「先生のお父様……?」
「ああ。若い頃は、香月屋の工夫など“お飾り”じゃと言うて、こちらの言葉には耳を貸さんかった。」
宗助はゆっくりと腰を下ろし、湯飲みを手にとった。
「だがな、あの人もある時を境に変わったんじゃ。ある夜、ひとりの女の子が熱を出して、何を飲ませても下がらんかった。
その時、うちの“煎じの香りが優しい”薬を試した。すると、子どもが少し笑って飲んだんじゃ。」
「……効いたの?」
「それが効いたのか、時間が薬だったのかは、わからん。
けどその子の父親である斎藤先生は、それ以来、処方の相談に香月屋へ来るようになった。」
柑乃は黙って、鍋の湯気を見つめていた。
宗助は孫の背に目をやり、ゆっくりと告げた。
「薬は、人の身に入るもの。人の心が拒めば、毒にもなる。
——だからこそ、“心が受け取れる薬”を、作る者が要るんじゃ。」
柑乃の中で、昨日のやりとりが、別の色を帯びてよみがえった。
たしかに冷たい言葉だった。でも、その裏には、何か強い責任のようなものが見え隠れしていた。
「……あの人も、変わるかしら。」
「さあな。だが、人は“香り”で過去を思い出す。
今日もきっと、昨日渡した薬の香りを、思い出しておるかもしれん。」
柑乃は思わず、ふっと笑みを浮かべた。
——香りは、届くだろうか。心のどこかに。
その手は、また新しい薬草に伸びていた。