新たな香り
神田の町は、長く続いた疫病の影からゆっくりとではあるが確実に立ち直りつつあった。
人々の表情に再び笑顔が戻り、商店の軒先には活気が戻り始めていた。そんな光景を見つめながら、篤志と柑乃の胸にも、静かな安堵と喜びが満ちていくのを感じていた。
疫病との戦いを通じて、互いの違いを超えて協力し合った二人の絆は、以前にも増して自然で、親密なものとなっていた。
かつてのぎこちなさは消え、言葉少なでも互いを理解し合う安心感が生まれていた。
ある日の夕暮れ時。篤志は診療所の裏手に広がる薬草畑で、丁寧に薬草の手入れをしていた。
優しい風が草花を揺らし、秋の香りが穏やかに漂う。
そこへ、軽やかな足音とともに柑乃が現れた。
「斎藤先生、お疲れ様です」
彼女の声は夕暮れの静けさに柔らかく溶けていた。
「……柑乃さん。君こそ」
篤志もまた穏やかな口調で応じる。二人の間に流れる空気は、かつての気まずさや緊張感とは異なり、どこか温かく、心地よいものだった。
柑乃は小さな包みを取り出し、少し照れくさそうに差し出す。
「先生の診察のおかげで元気になった患者さんが、お礼にと届けてくれました」
篤志はその包みを受け取り、ふと顔を上げると、少しだけ微笑んだ。
「……ありがとう」
その微笑みに、柑乃の胸は大きくどくんと鳴り、まるで初めて見るような彼の表情に心を奪われた。
(先生……こんな風に笑う人だったかしら)
篤志は自身の不器用な態度や言葉足らずさを、疫病の闘いを経て少しずつ克服し始めていた。
だがまだ、二人の間には言葉にできない淡い感情が漂い、互いを意識しすぎてどこかぎこちない空気が流れている。
「次の施薬講で、先生のお話を聞くのが楽しみです」
柑乃のその一言に、篤志はほんのりと顔を赤らめた。
「……そんな、大した話はできないよ」
それでも彼の照れた様子に、柑乃の胸はまた一つ音を立てた。
一方、斎藤診療所からほど近い道端では、透馬が早苗と会っていた。
「早苗さん。根津での疫病の時、一緒に現場で過ごして、あなたの懸命な姿を間近で見た。あのとき感じた連帯感と、あなたの優しさに心を動かされた」
早苗は、透馬の言葉に戸惑いながらも、少しだけ微笑んだ。
「……そんな風に思ってくださって、ありがとうございます」
透馬は真剣なまなざしで彼女を見つめる。
「ただの幼馴染としてしか見ていなかったが、あなたが患者一人ひとりに寄り添い、誰よりも献身的に尽くす姿を知り、これまでとは違う特別な感情を抱くようになった」
早苗の胸は高鳴り、心に温かな光が差し込むのを感じた。
篤志への想いはまだ残っているけれど、透馬の誠実な言葉は、彼女の心の奥底に静かに響いた。
「早苗さん……また、ゆっくり話をしよう」
その言葉に、早苗は驚きながらも、未来に向けて踏み出す勇気を得た。
秋風が窓辺をそっと揺らし、二人の新しい一歩を祝福するかのように穏やかに吹き抜けていった。
疫病という試練を越え、それぞれが抱いた想いを胸に、彼らは新たな未来へと歩み出す。