絆の夕暮れ
神田の町に、ゆっくりと穏やかな日常が戻ってきた。
「赤い熱病」と呼ばれた疫病は、篤志、柑乃、そして透馬をはじめとする医療陣の懸命な努力によって、ついに収束を迎えていた。町の人々の顔に久しぶりの笑みが戻り、子どもたちの声が賑やかに響き渡る。季節は秋へと移り変わり、空は澄みわたり、金色の陽光が穏やかに町を包んでいた。
そんなある夕暮れ。篤志と柑乃は、町外れの薬草畑を並んで歩いていた。薬草が風に揺れ、ほんのりとした香りが二人の間を漂う。
「斎藤先生……本当にありがとうございました」
柑乃は小さな声で感謝の言葉を告げた。
篤志はいつものように不器用に視線を逸らしながら答える。
「いや、礼を言うのは俺の方だ。君の薬がなければ、救えなかった命も多かったはずだ」
その言葉に、柑乃の胸の内に温かなものがじわりと広がった。彼の真っ直ぐな想いが、たとえ言葉が不器用でも伝わってくる。
柑乃は篤志の横顔をそっと見つめる。
(本当に……この人は。無口で、不器用で、時に冷たく見えるけれど、心の奥には誰よりも熱い使命感を秘めている)
篤志は少し間を置き、言葉を続けた。
「俺は今まで、蘭学の理屈だけで医療を考えていた。だが、君と出会い、今回の疫病を経て、薬はただ効能を示すだけでなく、飲む人の心に届くことが何より大切だと、初めて理解できたんだ」
その告白に、柑乃の頬がほのかに染まる。心臓がほんの少し早鐘を打つのを感じた。
「私も同じ気持ちです。先生の蘭学の知識がなければ、この病の拡大を抑えることは到底できなかった。医と薬、どちらも欠かせない。そして何より、患者さん一人ひとりに寄り添う心が」
夕焼けが空を茜色に染め上げる中、二人はしばし無言で空を見上げた。秋風が薬草畑を吹き抜け、彼らの心を優しく撫でる。
篤志がぽつりと呟く。
「違いを超えて協力する意味を、ようやく噛み締められた気がする」
柑乃は静かにうなずきながら微笑んだ。
「はい。これからも私たちは、医と薬という違いを認め合い、互いの知識と心を合わせて、患者さんのために尽くしましょうね」
その言葉に、篤志の心は自然と和らいだ。彼女の温かな笑顔は、これまでの葛藤や迷いを一瞬で溶かしてしまうようだった。
少し間を置いて、篤志は照れくさそうに言った。
「……君となら、これからもやっていけそうだ」
柑乃の頬がさらに赤く染まる。だが、彼女もまた、彼の不器用な優しさに胸を打たれていた。
夕暮れの薬草畑で、二人の距離は自然と縮まっていく。言葉にしなくても、互いの気持ちはしっかりと伝わっていた。
「これからも、一緒に歩いていきましょう」
柑乃の声は柔らかく、それでいて確かな決意を帯びていた。
篤志はそれを聞き、静かに笑った。
「ああ、もちろんだ」
彼らの影は長く伸び、秋の柔らかな光に包まれながら、二人は新たな一歩を踏み出していた。