未来への思い
根津での疫病は、篤志、柑乃、透馬らの献身的な努力により、徐々に収束の兆しを見せていた。患者の数も減り、町の空気には少しずつ安堵が戻りつつあった。彼らは神田へと戻り、それぞれの場所で引き続き疫病の対応にあたっていた。
そんなある日、遠山壮馬が神田の町を訪れた。彼はかつてない荒廃した町並みを目の当たりにし、胸が締め付けられる思いで立ち尽くしていた。
「こんなにも多くの人々が苦しみ、命を脅かされているとは……」
彼の目には、疲れ切った患者たちと、それに必死に向き合う医師や薬師たちの姿が映っていた。
遠くから、篤志が患者に懸命に寄り添う様子や、柑乃が細やかに薬草を調合する姿を見つめる壮馬。その光景は、彼にとって強い衝撃となった。
(今のまま、個々の薬師や医師の技術に頼っていては、この国は救えない……)
彼の胸の中で、焦燥と決意が渦巻いた。
壮馬は、以前香月屋の蔵で見た数多の生薬の箱を思い出した。生薬一つひとつが持つ力と、その使い手である薬師たちの腕に頼る現状。しかし同時に、篤志や柑乃が、患者のために一つひとつ薬を手作業で調合している光景も。
(もっと効率的に、大量に、しかも誰もが同じ品質の薬を手にできる時代が必要だ……)
彼の頭の中には、製薬産業という新しい薬の形が鮮明に浮かんだ。
「未来には、個別の調合ではなく、工場で薬を作り、均一な品質を保証する――そんな時代が必ず訪れる」
壮馬は心の中で静かに誓った。
だが、その決意は同時に、彼の心に苦い影を落とした。彼が憧れ、尊敬し、そして淡い想いを寄せている柑乃は、手作業で患者一人ひとりのために薬を調合する、昔ながらの薬師であった。
(柑乃のような薬師が、この新しい未来で果たして居場所を得られるのか……)
その問いは彼の胸を締めつけ、思わず目を伏せた。
だが、壮馬は揺るがなかった。彼は自らの使命を知っていた。日本の医療と薬の未来を切り開くためには、時代の流れに抗うことはできない。個々の手仕事の美しさや、心のこもった調合は尊い。しかし、それだけでは救いきれない命がある。
「私は未来のために動く」
そう決めた瞬間、柑乃への思いを封じ込める覚悟もまた、胸の奥深くに芽生えた。
神田の夕暮れが町を染める中、壮馬は静かに背を向けた。足取りは重かったが、決して迷いはなかった。
新しい時代の扉を開けるために。
その決意を胸に、彼は神田の町を後にした。
そして、遠くから見守る柑乃の姿が、彼の心の奥でかすかな灯火のように揺れていた。
それは、未来への希望と、過去への懐かしさが交錯する、静かな別れの瞬間でもあった。