赤い熱病の影
夏の終わりを告げる湿った熱気が町を包み込み、蝉の鳴き声も徐々に弱まっていく頃だった。そんな不穏な空気の中、神田の町では原因不明の高熱と発疹を伴う病が流行しているという噂が風のように広まっていた。
最初はただの風邪と片付けられていたが、何日も続く激しい高熱と、全身に現れる赤い発疹、さらに目の充血やひどい咳も共通して見られることから、町の人々は恐れを込めて「赤い熱病」と呼び始めていた。
斎藤診療所にもその症状を訴える患者が次々と訪れ、篤志は慌ただしい日々を送っていた。診察を終えたばかりの小さな子どもの額に手を当て、熱にうなされる表情を見つめながら、篤志は深く考え込んでいた。
「……篤志、どうした?」
背後から父・文蔵の声がかかった。心配そうに覗き込む父に、篤志は重い口調で答える。
「父上、この熱病はただの風邪ではありません。発疹だけでなく、目の充血やひどい咳も伴い、何より感染力が極めて強いようです。」
蘭学の書物を何度も読み返し、これまでの経験と照らし合わせるも、正体のつかめない病気に焦りを覚えていた。患者の体はまるで燃え盛る炎のように熱く、白虎湯を飲ませて一時的に熱が下がっても、すぐにまたぶり返す。薬包を包む手に無意識の力が入り、篤志の表情は険しくなった。
一方、香月屋でも「赤い熱病」の噂は広まり、店には心配そうな客が絶えなかった。
「おばあちゃん、うちの孫が赤い熱病にかかってしまって……」
「柑乃ちゃん、何か効く薬はないかい?」
誰もが不安な顔で助けを求めてくる。柑乃は一人ひとりの話に丁寧に耳を傾け、熱を鎮める黄柏や咳を和らげる陳皮を調合しながらも、胸の奥には説明できない不安が募っていた。
(……篤志先生は、今ごろどうしているだろうか。)
最近会えていない彼のことを思い浮かべると、胸の奥が痛んだ。冷たい態度を取られて以来、距離が広がっていたことに心細さを感じていた。この非常事態に頭に浮かぶのはやはり彼だった。
(あの不器用な優しさ、患者に真摯に向き合う熱い心。今頃、きっと必死に治療に当たっているに違いない。)
柑乃は薬草を刻む手を止め、窓の外に目をやった。町に漂う不穏な空気と、篤志への心配が交差し、心がざわついた。
「こんな時だからこそ、彼と話したいけれど……。」
その思いが、柑乃の胸の奥で静かに芽生え始めていた。彼女の心は、不安と期待の狭間で揺れていた。
町を覆う「赤い熱病」の影は、ただの流行病ではなかった。人々の心に新たな試練と絆をもたらす、夏の終わりの厳しい現実だった。