すれ違う心
ある日の午後、篤志は急な往診を終え、少し疲れた足取りで診療所へと戻っていた。いつも通り香月屋の前を通りかかると、ふと目に映った光景に足が止まった。
店の前で、柑乃と壮馬が穏やかな笑みを交わしながら話している。壮馬は優しく、そっと柑乃の髪に一輪の小さな花を挿していた。柑乃は少し照れたように微笑み、その言葉に耳を傾けている。
その穏やかで幸せそうな二人の姿が、篤志の胸に突き刺さった。
(もう、二人は……そういう関係なんだ)
突然、胸の奥が締め付けられるような痛みに襲われた。喉が乾き、言葉が出ない。動けなくなりかけたが、必死に視線を逸らし、足早にその場から逃げるように走り去った。
それ以来、篤志は香月屋の前を通ることを避けるようになった。もし偶然、道で柑乃と顔を合わせても、目を合わせずに素早く通り過ぎる。彼の態度は冷たく、距離を感じさせるものだった。
一方、柑乃はその変化に戸惑い、胸の内がざわついていた。女中のしのにこぼすこともあった。
「斎藤先生……どうして私を避けるのでしょうか……」
柑乃は自分の言動を振り返ってみるが、何か彼の気に障ることをした記憶はなかった。篤志の避ける態度が日に日に強くなるたびに、不安が募っていった。
夏祭りの夜、言葉は少なくとも心は通じ合ったと信じていた。篤志の言葉少なな優しさに触れ、互いに惹かれ合っていると感じていた。しかし今、彼の態度はそのすべてを否定しているように思えた。
(壮馬さんの優しさは私を安心させてくれる。でも……斎藤先生の態度は、私の心を締めつける)
柑乃の胸の中では、遠山壮馬の穏やかで完璧な優しさと、篤志の不器用で時に冷たく感じる態度の狭間で揺れていた。言葉にできない思いが渦巻き、どちらに自分の心を預ければよいのか答えが見つからなかった。
篤志もまた、自分の感情の混乱に戸惑い、柑乃に向き合う勇気が持てずにいた。お互いに大切なものを感じながらも、すれ違い、言葉にできずに距離を生んでしまう。
夏の陽気が遠ざかる中、二人の心はまだ、交わることなく静かにすれ違っていた。