夏の終わりの苦味
夏の盛りを過ぎ、夕暮れの風に少し涼しさが混じり始めた頃、
香月屋には遠山壮馬の姿が以前にも増して頻繁に見られるようになっていた。
ある日の午後、祖父の宗助と壮馬は、店の奥にある古い調合場の机に広げられた古びた薬帳を前に、真剣な表情で意見を交わしていた。
「宗助殿、この薬帳の記述は実に興味深い。特に生薬の組み合わせによる香りの変化についての考察は、私の学ぶ蘭学では触れられない、東洋医学ならではの知見ですね」
壮馬の瞳は、単なる商売の話を超え、薬学の深奥に触れようとする熱意で輝いていた。
彼の表情には商売人としての鋭い眼光だけでなく、純粋な学問への探求心も滲んでいた。
宗助は満足そうに頷きながら応じた。
「壮馬殿は若くして勉強熱心だ。日本の薬学の未来は、おまえさんのような若者たちによって切り開かれていくのだろうな」
そのやり取りを聞きながら、壮馬は時折、調合場で黙々と仕事をする柑乃に目を向けては、にこやかに声をかける。
「柑乃さん、この前の陳皮の調合は素晴らしかった。香りの評判も非常に良かったと聞いている。あなたの丁寧な調合には、心が温まるものを感じるよ」
柑乃は褒められることに慣れていなかったため、顔を赤らめて照れくさそうに微笑んだ。
壮馬は彼女のそんな反応を楽しむかのように、言葉を続ける。
「ぜひ近いうちに、日本橋にある私の店にもいらしてください。新しい製薬の機械が入ったばかりで、ぜひお見せしたいのです」
その言葉には、単なる商談以上の、明確な誘いの意図が込められていた。香月家の面々も、壮馬の積極的で誠実な姿勢を好意的に受け止めていた。
一方、町医者として日々を淡々と過ごす斎藤篤志は、心の落ち着きを失い、どこか苛立った様子であった。患者の家からの帰り道、つい香月屋の前を通ってしまう。そこには、宗助と壮馬が談笑している姿が見え、柑乃は少し困ったような、しかしどこか嬉しそうな表情で二人の話を聞いていた。
(また来ているのか……)
篤志の胸に、黄柏の苦味のように深く、喉に痞えるような感情がこみ上げてきた。彼はその場から足早に立ち去った。
診療所に戻っても、その苛立ちは消えず、薬を調合する手つきは普段より乱暴になっていた。父の文蔵がそんな様子に気づき、心配そうに声をかける。
「篤志、どうした?何かあったのか?」
「……いえ、何でもありません」
篤志は感情を押し殺すようにそう答えたが、心の奥は騒がしく落ち着かなかった。
その夜、篤志は書斎にこもり、薬草の匂いを嗅ぎながら思いを巡らせていた。壮馬のこと、柑乃のこと、そして自分の心の揺れ……。自分が抱えるこの感情が一体何なのか、まだ言葉にできずにいた。
(俺は何をしているんだ……)
(大切なものが、どんどん遠くに行ってしまうような気がする……)
心の焦燥感が募り、理屈では割り切れない思いが胸に広がっていく。黄柏の苦さのように、苦いだけでなく深く記憶に残る何かが、自分の内側で確かに芽生えていることを感じていた。
翌日も篤志の様子は変わらず、診療所の患者たちからも「最近、元気がないな」と心配されるほどだった。彼は自分の心の波を押し隠し、医師としての役割を果たそうと努めたが、日増しに内なる葛藤は強くなっていった。
香月屋の未来、壮馬という存在、そして何より柑乃への想い……。それらが複雑に絡み合い、篤志の胸を締め付ける。まだ名前をつけられない感情は、彼を静かに、しかし確実に変えつつあった。
この夏の終わりに訪れた、心の渦の中で、篤志は自らの本当の気持ちと向き合う決意を少しずつ固め始めていた。