苦き香りの出会い
江戸時代風フィクションです。
夏の夕暮れ、香月屋の店先には、薄荷や黄柏の香りが風に乗り、ゆるやかに流れていく。
調合場では、香月柑乃が黙々と薬草を刻んでいた。
今日の黄柏は、刃を入れた瞬間にふっと苦味を伴う香りが立ち上がる。彼女はわずかに鼻をひくつかせて、納得するようにうなずいた。
「……今年のは、香りが濃いわ。」
「さすが、柑乃さまの鼻ですね。」
棚を拭いていた女中のしのが、からかうように言う。
「煎じたときの色が少し淡いの。だから、香りだけでもしっかり出したくて。」
彼女にとって、薬はただの“飲むもの”ではない。香り、手触り、色、口に含んだときの印象——それらすべてが、“心"に届くためのものだった。
そのとき、店の戸が控えめに開いた。
「失礼します。斎藤診療所の者ですが、薬をいただきたく……」
姿を見せたのは、二十代半ばの若い男だった。
きちんと手入れされた木綿の羽織、まっすぐな物腰。けれどその表情はどこか無愛想で、目の奥に鋭さを宿している。
「香月屋でございます。どのようなご用件でしょうか?」
柑乃が正面に立ち、丁寧に問うと、男は軽く頭を下げて名乗った。
「斎藤篤志と申します。父と兄のもとで、診療所に勤めております。
薬の調達を任されまして。まずは数のそろう薬を——黄柏、甘草、葛根などをこの通りに。」
柑乃は小さくうなずき書き付けを受け取りながらも、その言い方に少しひっかかりを覚えた。
「患者さまの症状に合わせて煎じやすいよう、加工いたしますね。」
「いえ、量が要るんです。とにかく生薬を書いてある通りください。」
それを聞いたしのが、奥で少し目を丸くする。
柑乃は一歩前に出て、穏やかな口調で言った。
「薬は、ただ数があれば良いというものではありません。
色や香りで安心したり、飲みやすくなるような工夫も必要です。」
「香りや色は関係ない。必要なのは“飲むこと”です。」
篤志は迷いなく言い切った。その目には迷いがなかった。
町の医師として、薬を手早く処方し、患者をさばいていく責任を負っているのだろう。けれど——。
「……私は、そうは思いません。」
柑乃は静かに言った。
「薬は、飲む人の"心"に届けるものじゃないですか。
薬があればいいわけではなく、香りや色が“治ると希望を持たせてくれる”ことも大切だとおもいません?」
篤志は一瞬だけ動きを止めた。だが、すぐに顔を戻して、
「……なるほど。とりあえずお任せします。」
とだけ言い、紙に包んだ薬を受け取ると、背筋を伸ばして店を出ていった。
その背中が戸の向こうに消えると、しのがぽつりとつぶやいた。
「なんだか、斎藤先生のところらしくない人ですね。……ちょっと冷たそうかも。」
「そうね。でも、悪い人ではないと思うわ。——ただ、薬を“出す”ことしか、まだ知らないだけ。」
柑乃はそう言いながら、ふたたび黄柏の香りに鼻を近づけた。
包丁で刻む音が、静かになった店内に、さくりと響いた。