第三話 だいたい全てを諦めている女のRPG(1)
薬師マーシャの朝は、そんなに早くない。
それは彼女が独り暮らしで、そこまで勤勉ではないからであり、また彼女の小屋がある森には、しっかり陽が昇ってからでないと他の人間が足を踏み入れられないからでもあった。要するに、客が来るのは昼近くになってからなのだ。だからマーシャは今日も、朝の光で目が覚めてから少しベッドの中でまどろみ、ゆっくりと身を起こした。
穀物を数種類入れた粥を食べ、香草茶を飲んで少し休憩する。その後、薬草畑を世話し、その周囲、森と敷地の境界線に立ててある魔術具が、問題なく作動しているかを確認する。魔獣が出るこの森で夜安心して眠れるのは、マーシャの父が作ったこの魔獣除け魔術具のおかげだ。王都の魔術師であった父のことを、彼女はほとんど覚えていない。マーシャが八つになる前に、事故で死んだと聞いている。父は、彼女が産まれる前と産まれた後のほんの一時、ここで母と暮らしたそうだ。母は薬師なのに病弱で、マーシャが五つの時に病で死んだ。その後、祖母がどこからか来てマーシャの世話をし、薬の調合を教えてくれた。しかしその祖母も、マーシャが教養学校を卒業する年に死んでしまった。
それから四十五になる今まで、マーシャは独りで生きている。
***
客は大体、一日に一人か二人だ。取引先はほとんど祖母と母の代からの得意先で、ごく少数に絞っているので、全く来ない日も多い。危険な森の中、かつ場所の秘匿が取引条件なので、直接来る客は無口な男性が多かった。一日は、薬の調合と薬草の管理で静かに過ぎていく。今日もそうなるはずだったのだが。
「お嬢さん。何度言ったらわかるんだい。ここへは大人に来させなさい」
「マーシャさん、私もうすぐ十七になるんですよ。ほぼ成人です」
この娘は得意先の店の娘、フローラだ。約四年前、幼馴染のための痛み止めを作ってやったら、数か月に一度取引にくるようになってしまった。着いてきた使用人は外にいて、ここに居るのは彼女だけなのに、その可愛い声と容姿のおかげで小屋がずいぶん賑やかしい。マーシャは一つため息をつくと、薬草棚に向かいながら尋ねた。
「それで? 今日は何の薬が欲しいんだい」
「私、今度王都に行くんです。あの時の幼馴染と一緒に」
「何だって?」
思わず振り返って声を上げる。まさか駆け落ちじゃないだろうねと肝を冷やしたが、どうも幼馴染の料理人と、移動食堂とやらをしながら王都に行くらしい。途中で怪我をした時用に、薬をいくつか買っていきたいという。
「移動食堂なんて、全く突飛なことを考えるもんだよ。それで? 何が必要なんだい」
「えっとですね、料理で火を扱うから、火傷に効く薬と、包丁で切り傷ができた時のための傷薬と…」
「……はあ……全く……」
全部、幼馴染のための物じゃないか。四年前から、男のためにわざわざ来て。どこまで惚れ込んでんだい。騙されんじゃないよ! マーシャはそう思いながらため息をついて、薬を調合しだした。
フローラが大喜びで薬を買い上げていった後、マーシャは大きく息をついて黒いケープを脱いだ。ケトルで湯を沸かし、窓際の小さなテーブルで薬草茶を飲む。
(…全く、女ってのは難儀な生き物だよ)
マーシャの母は、子どもを設けたくせに滅多に帰ってこない父を待ち続け、病の中で死んでいった。そんな母の姿を朧げにでも覚えているせいか、マーシャは、男のために困ったり苦しんだりしてここを訪ねる女たちを、見捨てることができなかった。数か月前にここを訪れたレイアは、無事に王都へ発ったのだろうか。手紙なんかで別れを告げる男など、放っておけばいいものを。
(…ま、男の一人も愛せなかったあたしなんぞに、言えることではないがね)
両親が残した金で、領内の薬学院へいくことはできた。卒業前後は、こんな自分に近づいてきた物好きな男と関係を持ったこともある。だが結局、伴侶には選ばれなかったし、本気で手に入れたいと思う男もいなかった。この歳になるまで、子を持ちたいと思えたこともない。薬学院の成績は良かったが、教授に教えを請うたり手伝いをしたり媚びたりということを一切しなかったので、褒められたり認められたりすることもなく、良い勤め口を得ることはできなかった。要するに、女としても、薬師としても、大した人間にならなかったのだ。
…別に偉くなりたかったわけではない。森の薬師は悪くない仕事だし、自分らしいと思ってもいる。もう歳も歳だし、これ以上大きな変化があることもなく、こうやって人生は終わっていくんだろう。
そんなことをぼんやりと考えていたら、外が薄暗くなってきた。今日はもう客はこないだろう。マーシャは窓のカーテンを閉めて、夕食の支度を始めた。今夜は昨日罠にかかっていたのを絞めたウサギの肉を焼くことにした。肉と一緒に野菜を焼き、自分で漬けた果実酒を飲む。湯に浸かり、奥の書斎で二杯目の酒を飲みながら本を読む。眠くなったら就寝だ。
過不足のない、悪くない生活だ。全てを手に入れられる人生などない。そう思いながら床につく。
薬師マーシャの一日は、こうして終わっていく。
明日もそうして始まり、こうして終わると思っていた。
***
コン、コン、コン。
次の日の午前中。とりわけ規則正しいノックの音に、マーシャは眉をひそめた。ケープのフードをいつもより深々とかぶり、ギイっと扉を細く開ける。そこにいたのは、案の定、城の主席薬師ヘンドリックの使いだった。
「かの方よりご依頼です」
自分と同じくらい深々と茶色のフードをかぶった男が、袖から小さな丸い鏡のような魔術具を差し出した。マーシャはそれを受け取ると、自分の袖に入れてから手の平を差し出す。男はその上にずっしりとした革袋を載せて踵を返した。マーシャは男が馬に乗って走り出すまで見届け、扉を慎重に閉めた。革袋をカウンターに載せ、開けて中を確かめる。
「うわ…何だいこれは。いつもの倍は入ってるじゃないか」
中には、キラキラと輝く金貨がいっぱいに詰まっていた。マーシャは喜ぶでもなく、うへえという顔をして袋を閉じる。これだけの支度金を寄越すなんて、どんな面倒事を持ち込んできたんだろう。はあ~とため息をつきながら、袖から魔術具を出して窓際のテーブルに置く。どっかと椅子に座って足を組むと、魔術具のスイッチを入れた。すると、ブウンという音がして、魔術具の上に男の映像が浮かび上がる。
『やあ、マーシャ。元気にしているかい』
豊かな金髪と髭を蓄え、立派なローブを着たその男は、朗らかな声でこちらに呼びかけた。これは録画映像なので、応える必要はない。マーシャは眉をひそめて腕を組んだ。
ヘンドリックは、薬学院で同期だった男だ。最終学年直前になって交際を申し込まれ、一ヶ月程つきあった。彼は、自分と正反対の男だった。成績は自分より悪かったが、教授についてまわって賞賛を欠かさず、常に教えを請うていた。自分に対してもよく気がつき、女が喜びそうなことは全てできる男だった。なぜそんな男が自分と、と疑問に思っていたから、一か月後、『親が婚約者を決めてしまった』と別れを告げられた直後、自分が研究していた新薬の調合メモが消えているのに気づいた時は、なるほど、と思ったものだ。その新薬開発が彼の卒業論文になり、それをもって彼は城の薬師の役を得た。
その時の自分に、怒りや悲しみがなかったとは言わない。だが一番大きかったのは、“まあ、所詮そんなものだろう”という諦めだ。だから約十年後、主任薬師になったヘンドリックから『領主に献上する新薬を開発して欲しい。報酬は充分払うから』と依頼が来た時も、金になるからいいかとしか思わなかった。当然彼はその薬を自分が開発したと言って献上し、その功で主席になったらしい。それから、二、三年に一度は依頼がくるのだ。主に、領主一族へおもねるために。
(今度は何だっていうんだろうねえ…)
マーシャは、嬉々として話し続けるヘンドリックの映像を呆れ顔で見下ろす。どうも、騎士団長の娘である妻との間に生まれた自慢の息子が、領主の孫娘に贈り物をしたいらしい。…ははあ、今度はあたしの薬で領主と縁づこうってのか。
『そこで今回は、お姫様に差し上げる美白の薬を調合して欲しいのだよ。もちろん並みの薬では失礼だから、城の古文書にあった、幻の秘薬をね。原材料は分かっているから、いつもよりは楽だと思うよ。読み上げるね』
…へえ。古文書にある秘薬とは、たまには面白い依頼を持ってくるじゃないか。マーシャはいそいそと紙とペンを持ってきて、読み上げられる原材料と製法を書きとっていく。始めは機嫌良さそうだった彼女の顔は、次第にひきつり、青筋が立ち、書き終わった途端テーブルに突っ伏した。
「あのやろう…」
朗らかな声で『ではよろしく。できれば半年以内に頼むよ』と言った映像が消える前にバンッとスイッチを切る。顔を上げると、忌々し気にため息をついて額に手を当てた。書き留められた原材料は、どれもカルテヒア領の端や隣接した領地の山林まで行かないと採れないものだ。今までにも少し採取に苦労するものはあったが、ここまで大変なことが最初から予想されるものはなかった。山林や森には魔獣が出る。当然、採集の危険性が高くなる。今までも遠方の採集には護衛を雇って行ったが、今回はより優秀な傭兵を、長期間雇わないといけないだろう。
(それであの支度金か…)
マーシャはちらっと革袋をみて、気怠げに頬杖をつく。…正直、面倒くさい。秘薬には興味があるが、危険と苦労を考えると、割に合わない。元々そんなに大金が欲しいわけでもない。しかし、じゃあ断れるかというと、そうもいかないのだ。ヘンドリックは表面上人当たりがいいのでああいう言い方をしているが、城の主席薬師からの依頼など、命令に等しいものだ。やってダメならともかく、試みもしないで断ったりしたら、もう領内での仕事はできなくなるだろう。禁止毒物を作ったとか、架空の罪状をあげて牢に放り込まれる可能性だってある。同業の中で、それぐらいの権力はある男なのだ。
(…まあ、採集の途中でどうなろうと、それまでか…)
自分の作る薬は、別に自分だけが作れるものではない。自分がいなくなったところで、客は別の取引先を見つけるだけだ。家族もいないし、途中で魔獣に殺されようが野垂れ死のうが、誰も困らない。そこまで考えて、ふっと何かを諦める。背伸びをして立ち上がり、薬草棚に歩いていく。とりあえず、出発の準備は明日からしよう。今日は取引先全ての注文を、ひとつ残らず作っておこう。そうすることにした。
***
「…さて、行くか」
全身を覆う黒いフード付きマントを着て、薬を詰め込んだ大きな黒いリュックを背負い、小屋を出た。敷地の出口まで来ると、指笛をぴゅーっと吹く。するとしばらくして、森の中から大型の白い狼が現れた。マーシャの背と同じくらいの背丈のその狼は、マーシャの近くまで来るとペタンと地に伏せる。マーシャはその背を軽く撫でると、「ククリ、今日も頼むよ」と言って、その背に跨った。ククリはゆっくり立ち上がると、スッと静かに走り出した。
この狼は魔獣ではなく、代々この森に住む獣だ。何代か前の薬師が、ある日怪我をした子どもの白狼を助けたところ、大きくなって子狼を連れてきたらしい。それ以来、また子狼が大きくなって子ができると、代々一家のところに連れてくるようになった。狼親子はしばらく敷地内で一緒に過ごし、ある日気が付くと森に帰っている。だがこうして呼び出すと、何かと手助けをしてくれる。どうやら、おおむね言葉も通じているようだった。
ククリはマーシャが振り落とされない程度の速さで森を駆け抜け、出口まで来てスッと止まる。始めと同じくペタンと伏せて、マーシャが背から降り思いきり撫でて礼を言うと、満足そうに目を細めて森の中へ去って行った。マーシャはそれを見送って、町への道に向き直る。ここからがまた長いのだ。リュックを背負い直して、歩き出した。
「マーシャさん、今回の採集は大変そうですねえ…」
「そうだよ。だからできるだけ早く、いい傭兵を見繕ってくれると助かる。あたしはとりあえず、取引先に商品届けに行ってくるからね。条件と報酬、それでいいか確認しといとくれ」
傭兵ギルドの個室で依頼書を書いたマーシャは、受付のアルテにそれを渡して部屋を出た。すると、ギルドにいる傭兵たちが、入ってきた時と同様、ややギョッとした顔でこちらを見た。…まあ、いくら世慣れた傭兵でも、全身真っ黒で真っ黒なリュックを背負った人間は気味が悪いだろう。そう思われるようにしてるのだから、それでいい。マーシャは彼らの視線を無視してギルドを出ると、数少ない取引先を回り、薬を届けて行く。取引先は、自分で届けてくれたマーシャに驚きながら薬を受け取った。今まで一度だってそんなことはなかったのに。その上、マーシャが「しばらく留守にするから、二回分渡しとくよ」と言ったものだから、彼らは一様に、何かあったのかと心配そうな顔をした。だが、マーシャは事情を明かしたりしないだろうと分かっているからか、黙って二回分の支払いをしていた。
ギルドに戻ると、アルテがマーシャを見つけて手招きした。受付まで行くと、彼女はマーシャに顔を近づけて耳打ちしてくる。
「ぴったりの人材が戻ってきたから、確保しておきました。奥の個室で待ってもらってます」
「…いくらなんでも早過ぎやしないかい?」
マーシャは怪訝な顔をしてアルテをみた。今回自分が出した護衛の条件は、そこそこ厳しいものだったはずだ。傭兵歴十年以上、採集予定の森に生息する数種類の魔獣との戦闘経験、隣接する複数の他領での仕事経験、食事は自前で用意すること、期間は目的を達するまでの無期限。報酬がいいとはいえ、そう簡単に見つからないだろうと思っていたのに。しかし、アルテはにこっと笑って個室へとマーシャを促した。
「運がいいですよマーシャさん。彼、久しぶりにカルテヒアに寄ってたんです。腕もですけど、人柄も太鼓判押せますから」
「あんたがそこまで言うなんて、珍しいね」
そう言いながら個室のドアを開けると、中には一人の男が椅子に座って待っていた。男はこちらに気づくと、ゆっくり立ち上がって口角を上げる。
「あんたが今回の依頼主か。俺はクリフだ。よろしくな」
深い青の髪に、灰の瞳。背丈はマーシャの頭二つ分高い。歳の頃は四十代前半くらいか。あまりガタイは良くないが、筋肉はバランス良くついている。
(…目つきは悪くないな)
マーシャはフードの下から、まじまじとクリフを見る。印象的なのは、まっすぐに自分を見るその眼差しだった。どんな傭兵でも、まるで古代の魔女のような黒いフードつきマントを着た依頼主を、多少は警戒心をもって、あるいは胡散臭い目で見る。依頼主が傭兵を雇うに値するか見ているのと同時に、傭兵の方も、間違いなく報酬を払う雇用主かどうか値踏みしている。あるいは、もっと報酬を吊り上げる余地がないのかを。だがこの男の視線には、何の含みも感じられない。人柄がいいとはそういうことか。
(…それとも、仮面をかぶれる油断できない相手か。どっちだろうね)
マーシャはそんなことを思いながら部屋の中央に進んだ。
「待たせたらしいね。だけど、まだ雇うと決まったわけじゃないよ。座っておくれ」
クリフが座るのを待って、マーシャも正面に座る。テーブルに、カルテヒア領を中心とした周辺の領地の地図を出す。マーシャはある山を示す地点に指を置いた。
「今回の採集で、ここが一番の難所だ。あたしも今回初めて行くんだ。あんた、行ったことあるかい」
「ツルリネ山か。二年前くらいに、魔獣退治の依頼を受けた。途中で大雪に降られて大変だったなあ」
「夜はどうやって越した?」
「あそこはいくつか大きい洞窟があってな。中は少し暖かいんだ。位置は憶えてるし、道に目印つけて山を下りたから、そのルート辿れば何とかなるだろ」
マーシャはふん、と満足げに鼻を鳴らして地図をたたんだ。顔を上げて正面からクリフを見る。
「…合格だ。あたしはマーシャ。採集の間、しっかり護衛を頼んだよ」
「ああ、任せてもらおう」
クリフは立ち上がり、マーシャに手を差し出した。彼女は一瞬、眉をひそめてその手を見る。クリフは首を傾げた。
「ん? なんだ、握手はしない主義か?」
「…いいや」
何かがふっと、自分の中を過ぎった気がしたが、追うのは止めて握手をした。大きな彼の手にしっかり手を握られて、また変な感じがした。
出発は三日後と告げて、支度金を渡して別れる。
(…何だったんだろうね、あれは)
悪いものではなかった気がする。…だけど、あまり深く考えない方がいい。もう何かを得ることも、きっとない人生なのだから。
そう思い直して、独り森へと帰って行った。




