三話:日常
勢羽と杏樹の通う私立桐生崎学院高等学校はほんの数年前までは中高一貫の伝統的お嬢様学校であったのだが、昨今の時世からか共学化を行い、今では男子学生も通う共学校となった。
その際学校改革により偏差値の高い進学校へと転身。
学校改革から数年でこの地区で一番の進学校となった。
お嬢様学校の名残からかこの学校の生徒比率は8:2と女子生徒数が多く、男子生徒の肩身の狭さは想像に固くない。
桐生崎で未だ男子の生徒会長が輩出されないことからもこの学校の特性がよく分かるだろう。
学校全体の成績にしても女子が上位を占め、部活でも女子の全国大会の進出はザラだ。
逆に男子生徒は部活でも低調で勉強だけの頭でっかちという認識が一般的でなんでもござれの女子と比べるとグレイドの違いは一目瞭然だ。
結局何が言いたいかと言えばこの学校では広く女尊男卑がまかり通っているということだ。
いつも通りの時間に勢羽は学校へと到着した。
HRまで20分と遅くも早くもない時間に登校するのが勢羽のスタイルだ。
相変わらず校内は女生徒の声で姦しい。
勢羽は少し機嫌悪そうに眉間に皺を寄せる。
勢羽は大きい声や騒々しい音が嫌いだ。
大声で喋る連中を片っ端から排除してやろうかという考えが頭の隅に巡ったこともあったがそれは些か度が過ぎる。
いつもの様に無表情を心がける。
しかし、今日のそれは剣呑さが滲み出ておりいつもの勢羽を知る人ならばその異常さに気づくだろう。
勢羽の機嫌の悪さの元凶は言わずもがな昨日の公園での一件と今朝、妹に半ば脅される形で取り交わされた理不尽な契約だ。
因みに杏樹の出した条件は“一緒に出かける”という端から見れば可愛らしいものだ。
しかし、それは勢羽にとっては拷問以外の何ものでもない。
杏樹の普段のクールな立ち居振る舞いからは想像出来ないが、杏樹はかなりの甘えん坊なのだ。
杏樹はあからさまに甘えてきたりすることはないのだが兄妹としての距離感が余りにも近い。
それがどれ程かと言えばお互いの肩が擦れ合う距離。
兄妹ならもう少し距離感を取って然るべきなのだろうが杏樹は終始、勢羽にベッタリの状態だ。
行く店先々で“恋人ですか?仲が良いですねぇ。”などなど微笑ましいながらも、明らかに誤った認識で捉えられるのは日常茶飯事。
その都度、妹であると説明すると返ってくるのはあからさまに泳いだ視線。
世に言う偏見と侮蔑に満ちた視線と言えよう。
大抵のことでは動じない勢羽もそれには些かの抵抗がある。
何にしても今の勢羽を不幸と言わずしてなんと言おう?
勢羽自身もそのことは重々承知だ。
だからこそこの今の状態こそ最低であり、これ以上自分の不幸は深化しないだろうと勢羽は半ば確信したように考えていた。
後にそれが大きな過ちであったと気づくことになるのだがそれはまだ少し先のことだ。
険悪なオーラをそれとは知らずに放ちながら勢羽は教室へと足を踏み入れた。
教室内は他と同じように姦しく、少数派である男子達は教室の隅の方で一塊になっていた。
勢羽は自席である窓際の席に腰を下ろす。
その間教室中が一瞬無音になったことなど勢羽は知る由もない。
いや、気づいていたのだろうがそんなことは勢羽にとっては他愛のない些事に過ぎないのだろう。
勢羽は席に着き、一息吐くと気だるそうに頬杖をつきながら窓の外の景色を眺める。
夏休みという学生最大の長期休暇が終わって早一月。
秋口に差し掛かった今日このごろ。
秋晴れの澄んだ空と紅葉し始めた木々が季節を感じさせる。
普段ならその景色を見て、感慨深い思考に誘われるのだが今日はそんな気は更々沸き上がってこない。
思考がモヤモヤして胸の奥が何とも言えない感じだ。
今まで経験したことのないその感情の処理の仕方など知る筈もなく、勢羽の苛々は増長されてゆく。
遠巻きで見ていたクラスメート達もそのことに気づいたのか何処か不安げに勢羽をチラチラと盗み見ている。
このクラスで勢羽を御することができる人間は限られており、大半の生徒は戦々恐々と事の成り行きを見守ることしか出来ないのだった。
しかし、そんな中にも強者と呼ばれる存在はいるものだ。
「須恵君!」
その人物は軽快な足取りで勢羽の机の前に立つと、両腕を腰に当て仁王立ちで勢羽を見下ろす。
外を見ていた勢羽はその人物に気づいたが余り積極的に関わりたくはなかったので軽くスルーすることに決めた。
どちらにしても行き着く結果が同じであると決まっているからだ。
「須恵君…。いい加減、私に気づいているでしょ?そういうふうに気づかない“フリ”をされるのはいくら私でも許容の範囲を限りなく逸脱してしまうのだけれど?」
凛と涼やかで透き通った声が響く。
しかし、それとは裏腹にそこに怒りの感情が見え隠れしているように感じるのは気のせいではないだろう。
放置から30秒。
なかなかの好タイムだった。
因みにアベレージタイムは14秒。
今日はなかなか機嫌が良いようだ。
勢羽は声の方に視線を向ける。
そこには少し引きつった表情で勢羽を睨む美少女がいた。
彼女の名は妹尾紗霧。
勢羽のクラスメートであり、この学園を統べる生徒会の副会長だ。
髪は背中にかかるくらいの長さで黒髪。
目はパッチリと大きく二重瞼でどこか愛くるしく見える。
唇は薄めでピンク色。
その他の顔のパーツも端正に形造られており、その容姿のレベルの高さは否応なしに納得させられる。
スタイルはスレンダーであるがその実、着痩せする隠れ巨乳であると校内では噂されている。
それらの高スペックからこの学園で5本の指に入る美少女という話は伊達ではない。
しかし、そんな美少女は今、目尻をつり上げ、明らかに怒りに体を震わせていた。
「朝から何か用か?副会長。それとも次期生徒会長と言えば良いか?」
「止めて。まだ正式に決まっていないことよ。立候補はするけど私が選ばれるとは限らないわ。」
お前が選ばれないで誰が選ばれるんだよ、と勢羽は内心ほくそ笑む。
妹尾紗霧という人間はその容姿のみならず勉学の成績も上位の強者であり、面倒見が良く、その人当たりの良さで同級生のみならず先輩後輩からも厚い信頼を得ている正に完璧超人なのである。
かく言う勢羽も紗霧のことを高く評価している。
人を辛辣に評価する勢羽が人を誉めるのは稀であることから考えても紗霧の人徳の高さが伺える。
まあ、融通がきかないところが玉に瑕なのだが…。
そんな紗霧が時期生徒会長選挙に立候補するのは必然であるし、その当確も当然ながら必然であると勢羽は考えていた。
「で?結局俺に何か用なのか?まさかただ俺と喋りたかったというわけではないんだろ?」
「…当たり前でしょ。私はあなたの様子がおかしいから来たの。他意はないわ。」
間が異様に長かったのが気になったが、それよりもその後に紗霧が言った言葉に勢羽は反応した。
「…誰がおかしいと?」
「あなた以外にいないでしょ?みんなあなたのその場を弁えない不機嫌ぶりに萎縮してるのよ。普段表情もろくに変えないあなたがまるで阿修羅の如く怒り狂っている、ってね。」
「誰が阿修羅だ。俺は化け物か何かと思われているのか?」
「少なくとも他のみんなにはそう見えるんじゃないかしら?」
先程の無視が効いたのか遠慮の欠片もない口振りで紗霧は言う。
それには流石の勢羽も閉口する。
というか怒りを表に出していないと思っていただけにその事実は少なからず勢羽にショックを与えた。
「何にそんなに苛立っているかは分からないけどいつもの須恵君らしくないわよ?須恵君はいつもみたいに冷酷非道そうな無表情をしていればいいのよ。」
「…………。」
紗霧は更に追い討ちをかける。
勢羽は普段自分は皆にそう見られているのかと溜息を吐く。
別に良く言われているという期待はしていなかったのだがそれでもあそこまで酷い評価はないだろうとも思っていた。
しかし、紗霧の発言を鑑みるにその評価は厳然とした事実なのだろう。
「というわけで、何で機嫌が悪いのか教えてくれるかしら?」
まるで取調室の刑事の如くのふてぶてしさで紗霧は言う。
何故生徒会の副会長にそこまで根掘り葉掘りと詮索されなければならないのかと勢羽は思う。
「妹尾。お前はプライバシーという言葉を知っているか?」
「勿論。」
当たり前だというふうに紗霧は頷く。
「ならお前は俺の私的な問題に関与すべきではないだろ?」
「そうね。須恵君の言うことは尤もだけどこの国でプライベイトとパブリックどっちが重んじられると思う。」
…なるほど上手い詭弁だ。
勢羽はその大義名分の強引さに辟易とした表情になる。
「さっきも言ったでしょ?あなたの不機嫌ぶりで“みんな”萎縮してるって。」
「化け物の次は公害扱いか…。」
自嘲気味に勢羽は笑う。
「学校の治安を守る生徒会の副会長としては見過ごせないでしょ?」
「明らかに越権のような気もするがな。」
「いいから。答えなさい。これは命令です。」
有無を言わせぬ物言いは不遜に見えて逆に清々しい限りだ。
そう思わせるのも紗霧の人徳の為せる業とも言える。
しかし、だからと言って紗霧に自分の身の上話を語ってやる謂われはない。
というか語りたくないというのが勢羽の本音だ。
身内にも語れないような事を他人に話せよう筈もない。
というわけで今勢羽の頭の中ではどうやって紗霧の詰問を受け流すかに主眼が置かれていた。
「ほら、どうしたの?そんなに疚しいことなんですか?」
全く持って厄介な奴だと思う。
真面目で融通がきかなくて自分の意志を簡単に曲げたりしない。
端的に言えば頑固一徹。
扱いずらいことこの上ない。
自分の周りにはどうしてこうも頑固者が多いのかと勢羽は内心で深く溜め息を吐く。
しかし、妹程ではないが幾分か長い付き合いになる紗霧への対処法は心得ていた。
ある意味力業の部類に入るのだろうが緊急事態であるのだから仕様がない。
「妹尾、お前もしかしてさ…。」
「何?」
「俺のこと好き?」
「なっ…!?」
紗霧は一瞬で顔を真っ赤にし、その場に直立不動で固まった。
耳まで真っ赤に染まり、目は焦点が合っておらず、口はまるで酸欠の鯉の如くパクパクとしていた。
仕掛けたこちらが申し訳なく思える程の動揺ぶりに勢羽はバツが悪そうに苦笑いをする。
生真面目かつ融通がきかない者はつまりは直情的に物事を捉える。
言った言葉が突飛で有ればあるほどそれに対する反応も相乗して上がるということだ。
しかし、これはやり過ぎだったろうか。
紗霧は今だに直立不動のままだ。
勢羽は仕方なく固まったままの紗霧の額を軽く指先で小突いた。
まるで糸が切れた人形のようにカクンと頭を垂れる紗霧の姿は正に生きた屍だ。
さて、そんな屍に命を吹き込んでやろうか。
勢羽はよく聞こえるように紗霧の耳元まで顔を近付け、呟く。
「妹尾…冗談だ。」
その瞬間紗霧はギギギッ…という効果音が聞こえてきそうなゼンマイを巻かれたブリキ人形のようにぎこちなく顔を上げる。
それは相変わらず真っ赤な顔をしていたが動揺や羞恥の感情など一片もなく、ただ怒りという感情に集約されていた。
次の瞬間ピシャッと小気味良い音とともに勢羽の頬は赤く染まり、声音増大された罵詈雑言がまるでマシンガンのように一斉掃射された。
勢羽は叩かれた頬を押さえるべきか耳を押さえるべきか悩みながら改めて思った。
女のヒステリーは万人共通か…。
脳裏に妹の顔が一瞬浮かび消えていった。
周りを見回せばクラスの大多数が生暖かい目で呆れたように勢羽達を見ていた。
その視線はまったく持って不愉快だったがその原因を作り出したのが他でもない自分であることを鑑みれば反論など出来る筈も無くただ黙って事が終息するのを見守るしかなかった。
今度からは綿密に考えて行動すべきだな…。
勢いが衰えることのない紗霧の罵詈雑言を聞き流しながら勢羽は強くそう誓った。
何とも平和な学園はささくれていた勢羽の心に若干の潤いをもたらした。
それは退屈ではあったが勢羽にとっては何ものにも代え難い平和な日常であった。