二話:須恵家
「愛してる。」
猫撫で声で少女は迫ってくる。
至近距離での少女の顔は惚れ惚れする程に美しい。
人の子ならばどこか必ず欠点があるはずだが至近距離で見ても彼女の容姿に欠点など見受けられない。
まるで神話に登場する女神のようにその美は完成されていた。
甘い吐息に吸い込まれそうな程綺麗な瞳。
理性を粉々にしてしまわんばかりに少女は美しい。
少女は静かに瞼を閉じる。
無防備なその姿に理性は揺れる。
止めろ…。
俺の言葉など気にもせず少女の唇は近づいてくる。
妖艶な笑みがまるで全てを見透かしているかのように見える。
やめろ……やめろぉ…!
不意に体に四肢の感覚が戻る。
荒い呼吸に額に薄らと汗が滲んでいた。
目に映った見慣れた天井からそこが自分の部屋なのだと気づく。
夢の余韻からかまだ頭は朦朧としている。
頭を振り、ベッドから身を起こす。
先ほどまで見ていた悪夢が脳裏をよぎる。
昨日出逢った少女の夢は明らかに悪夢の部類に入る。
少女のキスと自分に向けられた狂った感情は勢羽の記憶に克明に残るトラウマとなっていた。
「クソッ……!」
行き場のない苛立ちに勢羽は思わず悪態をつく。
昨日公園で出逢った少女はあの後いつの間にか居なくなっていた。
あまりの唐突さにあれは夢だったのではないかと疑った。
だが、確かにそこに少女は居た。
現実と言うには奇特に過ぎるが、夢と言うには無理が過ぎる。
奇特な現実でも現実は現実だ。
嫌な事は夢として片付けてしまう程勢羽は楽観主義ではない。
いったい何が目的で少女があんなことをしたのかは分からないが明らかに常軌を逸した行動であることは確かだ。
間近でみた少女の笑みが浮かび、胸を締め付けた。
「ハァ…まだこんな時間か…。」
時計を見ると普段目を覚ます時間よりも30分も早いことに気がついた。
勢羽は基本的に寝起きが悪い。
目覚ましをかけていれば寝坊することもないのだが眠りが深いためか時々、目覚ましに気付かずに寝過ごしてしまうこともあった。
そんな勢羽が毎日時間通りに起きれるのにはある理由がある。
“トントン”
控えめにドアを叩く音が響く。
数秒おいて部屋のドアがゆっくりと開く。
「…もう起きていたんですか?」
そこから顔を出したのは目の覚めるような美少女だった。
薄い色の黒髪を肩まで伸ばし、くっきりとした二重瞼で目尻が少しつり上がっていて少女の気の強さを思わせる。
鼻筋はスッと通って卵形の輪郭、肌は透き通る程白く、薄い唇はほんのりピンク色でどことなく色っぽい。
その端整な顔の造りは誰が見ても美しいと認めるであろうと勢羽は確信していた。
そんな美少女が驚いた表情で勢羽を見ていた。
「おはよう、杏樹。」
勢羽は朝の挨拶をしつつ、少女の名を呼ぶ。
この美少女と勢羽の関係についてだが言わずもがな次の一言に集約される。
「おはよう、兄さん。」
我が妹ながら抑揚のない声だと勢羽は思った。
リビングに行くと既に食事の準備がされていた。
我が妹ながらその手際の良さには感嘆する。
焼いた食パンにベーコンエッグ、シーザーサラダと朝の食事としては定番だがその一つ一つは作り手の丁寧さを思わせる。
「今コーヒーを煎れますから。」
「悪いな。毎日毎日お前ばかりに面倒かけて。」
「いえ、兄さんが寝起きが悪いことは理解しています。出来ないことを気にしても仕方がないですから。」
フォローしてるのか皮肉を言っているのか分からない言葉だと勢羽は思った。
この言葉の足らない所は自分と似ていると勢羽は思った。
「今日はとても驚きました。」
目の前に煎れたてのコーヒーを置き、杏樹は呟いた。
「何のことだ?」
「兄さんが起こしに行く前に起きていたことです。いつもは私が起こしに行かなければ目を覚まさない兄さんが自力で目を覚ました事に驚いているんです。」
杏樹は少し苛立ちを含んだ声でそう言う。
「それはまぁ…そうだが……何故それで杏樹が苛立っているんだ?」
「苛立ってなどいません。」
「いや、声の調子が普段より半音高い。心なしか呼吸のリズムも乱れている。」
「苛立ってなどいません。」
「だからそれが…。」
「苛立ってなどいません。」
「…………。」
勢羽は閉口する。
杏樹は強情で頑固な性格だ。
勢羽は自分も頑固であると自覚はしているが杏樹のそれに比べれば可愛いものだと思っている。
杏樹のそれは勢羽を遥かに凌駕する。
そうなると必然とこの言い争いは勢羽が折れる形で幕を閉じる。
「…無遠慮に邪推して悪かった。」
謝罪の言葉と一緒に頭を下げる。
「…分かってくれれば良いんです。」
そんな一悶着を経て須恵兄妹の朝の食卓は進んでいった。
部屋の鍵をかけ須恵兄妹は肩を並べ学校へと向かう。
高校生にまでなって兄妹で肩を並べて一緒に登校するというのは何ともこそばゆい。
これが恋人同士というなら何の違和感もないのだが、勢羽と杏樹は兄妹である。
当然勢羽の頭に浮かぶのは何たらコンプレックスというある意味大多数の人々から忌避される言葉であった。
勢羽は基本、人からの視線を気にとめないようにしている。
それは昔から勢羽自身が人々から忌避されていたからに他ならない。
だから多少の衆人観衆の忌避の眼差しには勢羽は動じない。
しかし、その忌避の眼差しが妹である杏樹まで及ぶのは見過ごせない。
仲の良い兄妹で終わればそれに越したことはないが人々とは有象無象である。
そこには低俗な邪推をする者もいるだろう。
だから再三にわたり勢羽は杏樹に対して『登下校の時は別々に行く』という提案をしているのだが、それは全て言葉に出す前に杏樹によって即座に却下される。
その形相は悪鬼羅刹も泣いて逃げ出す程であった。
というわけで何の打開策もないまま流れる根なし草のごとき怠惰さでズルズルと兄妹で登校しているというわけだ。
ここまでの説明はただの蛇足だ。
この光景を見て勢羽と杏樹の関係を邪推する者がいないようにという配慮でも勢羽の弁解の意志を汲み取ったわけでもない。
悪しからず。
「兄さん、何か私に隠していることはありませんか?」
朝の清々しい通学路を歩いていると何の脈絡もなく杏樹がそう問いかけてきた。
「隠し事ならある。人は生きるごとに秘密を増やし、またそれと葛藤し、それを乗り越え、人として成長して……。」
「御託はいいです。誰が哲学について語れと言いましたか?難しいことを言って煙に巻くのはヤメて下さい。」
我が妹ながらその賢しさと容赦のなさには舌を巻く。
これは誤魔化しがきかないと思い勢羽は真面目に答えることにした。
「別に隠し事って程じゃない。いくら兄妹と言ってもその私生活について一から十まで知る必要はないだろ?」
勢羽は模範解答のような正論を吐く。
杏樹も次ぐ口を失ったかのように俯きながら閉口する。
しかし、それは一瞬のことですぐにその鋭い視線の切っ先を勢羽に向ける。
「兄妹だから全てを知るべきだという極論を言いたいわけではありません。私はただ兄さんが心配なだけです。」
声の調子も変えず無表情でそう言い放った杏樹だが勢羽にはその奥に潜む激情が見てとれた。
端的に言うと杏樹は激怒していた。
「昨日の兄さんは明らかにおかしかったです。帰って来るなり放心したような顔で声をかけても反応がなくて、日課もせずそのまま部屋に籠もって、私などまるで居ないかのように振る舞って…。」
矢継ぎ早に言葉を放ち終えると杏樹は更に激情のこもった視線を勢羽へと向けた。
どちらかと言えば何事にも寛容さを示す杏樹であったが、こと勢羽に関しては信じられないほど感情的になる。
今も無表情で勢羽に有らん限りの激情を向けていた。
勢羽はこれ以上事を荒立てないよう注意しながら言葉を継ぐ。
「昨日のことは謝る。お前を蔑ろにしたことは俺に否がある。すまない。赦してくれ。」
深く頭を下げる勢羽を道行く人々は何事かと奇異の眼差しで見つめていた。
「それはいいんです。私が知りたいのは何故兄さんが昨日はあんなにも狼狽していたのかということです。」
いきなりの核心を突く問いに勢羽は心の中で溜息を吐く。
謝ることでそれ以上の詮索を回避するという思惑はあっさりと瓦解した。
しかし、だからと言って昨日の出来事を話すのはそれこそ御免だ。
いきなり現れた少女に唇を奪われ、愛していると言われたなどというラブコメ紛いの妄言を妹が信じる筈がない。
万が一、信じたとしてもそれはそれで杏樹が暴れ狂う姿を拝むことになること間違いない。
杏樹の貞操観念は恐ろしく堅いのだ。
「俺は何も隠していない。」
在り来たりだが勢羽はシラをきることにした。
「ウソを吐くのはこの一回だけにして下さいね。次ウソを吐いたら……分かってますよね?」
あっさりとウソを見破られオマケに殺気十分の眼光で睨まれた。
最早何の弁解も杏樹を納得させられないだろう。
真実を語ることと何か杏樹にとってとてつもなくメリットになること以外には。
「…須恵家規則17条の施行を提案する。それで今回の件は不問にしてくれ。」
ピクリと杏樹の肩は揺れる。
どうやらこの提案に食いついたようだ。
出来れば使いたくはなかったのだが背に腹は代えられない。
「…17条、家族内で確執があった場合お互いの要求を聞き入れ円満に解決すること。」
ゆっくりと噛み締めるように杏樹は一言一句違えずに条文をそらで読み上げる。
つまりはお互いに相手の要求を受け入れ、妥協しようということだ。
一見平等なように思えるその条項だがこれは明らかに勢羽に不利である。
要は杏樹の要求は何でも聞くからこれ以上話の追求は止めてくれということになる。
それでは勢羽の利益はマイナスにしかならないのだが正直に話すのと杏樹の要求を受け入れるのとどちらがマイナスの度合いが高いかと言うなら語らずとも分かるだろう。
「…兄さんがそうまでいうのなら仕方ありません。不本意ですがその提案を受け入れます。」
そこまで懇願した覚えはないのだがと思いつつ、満更でもない様子の杏樹に軽く安堵する。
何とか話を反らせたが杏樹が要求する条件を予想しつつ朝から憂鬱な気分になる。
昨日といい今日といい勢羽は自分の星の巡りの悪さを恨むのだった。